10. 月下
その日の夜、侍女に頼んでいた本が届き、術で作り出した灯のそばで腰掛け読んでいると、前兆もなく体の奥が熱を持ち力が抜ける感覚に襲われた。
「ッ……」
辛うじて椅子の上からは落ちなかったが、熱が引いても震えは止まらない。自分の身体が自分のものではないような気持ち悪い感覚だ。
ゆっくりと床に膝をつき、本を取ろうと伸ばした腕が震えるのが目で見てもわかる。
「あと、少し」
「……何をしている」
突然現れた声の主はわたしが取ろうとしていた本を取り上げるとそのまま地面にふにゃりと座っていたわたしの腰を抱いてベッドに投げ捨てた。
そう、投げ捨てた。
「いっ……たいなぁ!?」
「うるせえ」
「急に投げたあなたのせいだろう!」
いつも通りわたしを雑に扱う狐を若干睨みつけ、その手から本を奪い返そうとすると、軽い所作でかわされる。
ムッとして顔を見ればいやに意地悪な顔で笑っている月色の瞳と目が合った。
「返してください」
「こんな本よりも面白いことがある」
「ろくな事じゃなさそうなので結構です」
「まぁそう言うな」
返答しながら意地悪な笑顔をより深めてわたしの本をポイっと投げ捨てた。また投げ捨てた!
「ちょっと、本を雑に扱わないでください」
「そんなことより、小娘。 外に出るぞ」
「……は?」
「外に出るぞ」
「いや、出るって。 どこに? いや、そもそも出れないし、わたしは出ないですよ」
「外に、だ。 つべこべ言わずに行くぞ」
ベッドに座るわたしに手を伸ばしてくるのでとりあえずそれを避けて抵抗するが、さっきの発作のような症状からか上手く体が言うことを聞いてくれない。
「ざまあない、 そんな顔をするくらいなら逃げればいいだろう」
「……うるさい。 そして近寄るな。 行かないからな。 外に出る気は無いし、そもそもわたしはこの部屋から許可なく出ることはできない。 諦めてさっさとどこかへ行け」
「クソ生意気な口を利く……。 あとなぁ、この部屋の結界くらいどうにでもできるわ。 俺を誰だと思っている」
「誰って、いくら聖獣とはいえこの部屋の結界はもう呪いのようなもので、そう易々どうにかできるものでは無いでしょう」
「うるせぇなあ。 つべこべ言わずに大人しく捕まってろ」
そういうと、今度こそわたしを捕らえてあっさりと、そう、あっさりと部屋の窓から空に飛び立ってしまった。
「なっ……!?」
絶句だ。結界を出た感覚はあったが、宮廷は騒がしくもならないしなんなら空から見下ろす廊下にはポツリポツリと衛兵も立っているのに、気づかれない。
「見えないのか……?」
「ふんっ」
呆然と眼下の遠ざかる景色を見ていたが、はたと色々ときになるこたに気づいた。この男……いや、聖獣は何者なのだ……?
私の自室の呪い、もとい結界を易々と私込みですり抜け、目くらましの術を使いながら空を飛ぶ、それも術を使う気配もなしに。
「なんなのだ、本当に……」
「お前のそういう呆けた顔は見ていて愉快だな」
「…の減らない………わぁ!」
「?」
カチンときて狐の顔を見あげようと顔を向けると狐の顔の向こうの大きな月が私の視界を埋め尽くした。大きな月は爛々と優美な光を放ち、その隣には一回り小さな月がほの蒼く輝いている。
自室から見上げるのとは違う、いつもより大きく、そして美しく見えるそのふたつの月に私は目を奪われた。
「綺麗……」
「………」
でも、私どこかでこの色を見たことがある気がする。いや勿論月の色はそう変わるものではないから見たことがあるのは当たり前なのだがそれとは別に、同じ色を、
「あ、」
狐に横抱きにされていた私だが、身を乗り出して月を見ていたのをやめて狐の顔もといその瞳を凝視する。
「なんだ」
「別に。 なんでもありません。 ところでどこへ向かっているのですか」
癪なので口には出さなかった。心を読まれていたらどうしようもないのだが。
狐の瞳はあの月の色をもしたような金の瞳だ。全体的に月を宿したような配色で、夜の精霊……いや、月の精霊のような装いなのだ。
腹立たしいことに、美しい。腹立たしいことにな。
「もう直着く」
「はぁ」
夜の帳にポッカリと穴を開けるように佇む白銀の月と蒼銀の月、肌を刺すような寒さを感じるはずの銀月の夜のはずだが寒さなど感じず、暖かい狐の温もりに包まれ空を飛ぶ。
美しい月に目を奪われ、そして、美しい獣に目を奪われる。
初めて美しさに感動し、そして私の生涯で最初で最後となるであろう貴重な体験に喜びと、興奮、切なさを覚えた。