Cafe Shelly デジタルの中の命
またかよっ!このポンコツマシンがっ!
そう言ってオレはパソコンの画面を思いっきりひっぱたいた。だからといって、パソコンは何も反応をしてくれない。にしても、また落ちてしまうとは困ったものだ。これじゃ仕事にならない。
オレはフリーのグラフィックデザイナーをやっている。フリーといえば聞こえはいいが、実のところ先月まで勤めていた印刷会社の広告部門をクビになった。理由は印刷不況による整理解雇。会社都合のため、すぐに雇用保険はもらえたが、このままじゃ食っていくのも困ってしまう。
ということで、インターネット上のクラウドソーシングに登録をして、日銭を稼いでいるという状況。けれど、オレの商売道具であるパソコンがまた落ちてしまった。つまり、突然動かなくなってしまうのだ。
「ちくしょぉ、そんなに重たくはしてねぇはずなんだけど。メモリもそこそこ積んでいるし。一体どうしてこんなに頻繁に落ちてしまうんだよぉ」
嘆いても仕方ない。まぁ、五年前のパソコンだから、最新型には及ばないけれど。でも、今まで会社で使っていたパソコンよりはスペックはいいはずなんだけどなぁ。最初の頃はサクサク動いて、快適に作業できていたんだけど。
「ったく、しかたねぇな。最後の手段を使うか」
オレは携帯を取り出して、いつものところに電話をする。
「はい、パソコンレスキューサービス木下です」
「あ、オレオレ、島渕」
「なんだ、しまぶっちゃんか。オレオレなんていうから、詐欺の電話かと思ったわ」
パソコンレスキューサービスの木下、彼はオレの同級生で昔からパソコンにはめっぽう強いやつだった。それが高じて今ではパソコンの修理やメンテナンス、設置といった仕事を手がけている。今ではスマホの修理もやっているらしい。
「で、またか?」
「そう、またなんだわ。悪いけど来てくれる?」
「にしても、しまぶっちゃんのパソコンってよく調子悪くなるよなぁ。ハードディスクも取り替えたし、メモリもちゃんとしたのに替えたし。ちゃんとホコリも掃除したのになぁ」
「オレもわけがわかんねぇんだよ。とにかく仕事に差し支えるから、超特急でお願い」
「わかったよ。といっても今別件で動けないから、うちの若いのを行かせるわ。宗田ってのが行くから」
「へぇ、パソコンのメンテを任せられるような若いのが入ったんだ」
「そうなんだよ、この宗田ってのがなかなかいい仕事をしてくれるから、とても助かってんだよ」
「じゃぁ、その宗田って若いの、早くこっちによこしてくれ。頼んだぞ」
仕事に厳しい木下がそう言うくらいだから、宗田ってのは相当できるやつだな。ともかく、パソコンが直らないと仕事ができない。あさって締切のやつがあるから、早いところなんとかしないとなぁ。データは幸いクラウドにあげているから、最悪は誰かのパソコンを借りてやるか。でも、グラフィック編集ソフトを入れているパソコンなんて、そうそう持っているやつはいないからなぁ。
十分ほどすると、チャイムの音が。
「こんにちはー、パソコンレスキューサービスです」
きたきた。期待を込めてドアを開く。するとびっくり。そこにはまだ高校生、いや見方によっては中学生かと思える女の子が立っていた。
「えっ、君が宗田…さん?」
てっきり男性が来るものだと思っていたから驚いた。しかも、かなり若い。
「はい、早速パソコンを見せていただけますか?」
「あ、はい。どうぞ」
しまったなぁ、女の子が来るんだったら、もっと部屋を片付けておけばよかった。にしても、この子いくつなんだ?
宗田さんはオレのパソコンを見るなり、目を輝かせていた。そしてこうつぶやく。
「君、これからちょっと体をみせてもらうね」
体を見せてもらう?まるでお医者さんが患者を診断するかのように、宗田さんはパソコンを触り始めた。オレはそれを傍から見ている。
「ここじゃないなぁ。もっと奥まで見せてもらうね」
宗田さん、とうとうパソコンのマザーボードまで分解をしはじめた。
「そうかそうか、ここだったんだ。君、とてもつらかったんだね。じゃぁ今から楽にしてあげる」
そう言ってバッグから何やら取り出して、パソコンに塗り始めた。
「あの…それ、何やっているんですか?」
「あ、これですね。実はCPUの放熱グリスがもともと少なかったのか、それとも質の良くないものが塗られていたのか、ちょっとカチカチになっていたんです。これが原因で、CPUが熱暴走を起こしていたようです」
まさか、そんなところまではオレも気づかなかったし、そもそもそういうことがあるのを知らなかった。
「君、せっかくだからもっときれいにしてあげるね」
宗田さんはそう言って、スプレーを取り出してパソコンの内部に吹きかけた。
「それは?」
「これはエアダスターといって、空気の力でホコリを吹き飛ばすものです。一見するときれいなのですが、ファンの裏側とか細かいところにホコリがたまっていますから」
宗田さんは細かいところまで、丁寧にホコリを吹き飛ばしてくれた。前に木下からホコリについてはレクチャーを受けていたので、それなりに気を遣っていたつもりだったが。思った以上にホコリってたまるものなんだな。
「これでよしっと。じゃぁ、スイッチを入れますね。君、よろしくたのむよ」
そう言うと、宗田さんはパソコン本体を軽くなでてからスイッチを入れた。ファンの音が軽快に聞こえる。今までと音が違う感じがする。そしてハードディスクがカリカリと音を立て始め、画面にはいつもの見慣れた画像が展開されていく。
「うん、大丈夫のようですね」
「いやぁ、助かりましたよ。それにしても、さっきから気になっていたのですが。パソコンに対して『君』って呼びかけていましたよね。あれ、何かの呪文ですか?」
「あはは、私のクセなんです。私、パソコンにも命があるって思っています。大切に使えば、きちんと要望に応えてくれる。でも、乱暴に扱えばすぐに反抗してくる。私にとってパソコンって、命ある存在なんです」
パソコンに命って。宗田さん、見た目はかわいらしい女の子だけど、ちょっとオタク入っているな。
「あ、一つ気づいたんですけどいいですか?」
気づいたこと?今度は何を言い出すんだろう。
「はい、なんでしょうか?」
「デスクトップ画面、これをもっときれいにしたほうが、パソコンはより働いてくれますよ。それとフォルダの整理、これもぜひやってみてください」
確かに、オレのパソコンのデスクトップはとてもごちゃごちゃしている。それにフォルダも、とりあえずファイルを放り込んでいる形になっているので、無駄なものも多い。けれど、ハードディスクにはまだまだ余裕があるから大丈夫かなと思って放置していた。
「この子がね、外見だけじゃなく中身もきれいにしてほしいって言っているんですよ」
おいおい、まるでパソコンの気持ちがわかるような言い方じゃないか。なんだか気持ち悪いな。
「わ、わかったよ。そのうちやっておくよ」
「いえ、ぜひ今すぐやってみて下さい。そうしたらこの子、喜んで仕事をしてくれます。じゃないとまた反抗しちゃうぞって言ってますから」
ますますあやしい。でも、宗田さんがしっかりと監視をしているから、しぶしぶながらもデスクトップの整理から始めることにした。
「まずは無駄なものを捨てて、いるものはフォルダを作って整理して…」
横で宗田さんがアドバイスをしてくれる。
「えっと、そうするとこれをこうして、なるほど、こうすればファイルも見つけやすくなるな」
今まで雑多に放り込んでいたファイルを、分野別にフォルダに分けていくことで見やすくなってきた。そのやり方もアドバイスしてくれる宗田さん。
「これで作業をしてみて下さい」
言われるままに、いつも使っているグラフィックソフトを立ち上げる。心なしか立ち上がりも早く感じる。そしてつくりかけのファイルを開いて作業の続きを始める。
「えっ、おっ、なにっ!?」
今までになく、サクサクと動くじゃないか。まるで魔法がかかったようだ。数時間前までの、あのイライラはなんだったんだろう。
「どうやら大丈夫のようですね」
「いやぁ、助かりましたよ。宗田さんのおかげで作業も楽になります」
「いえいえ、パソコンだってきちんと扱ってもらえれば、こちらの期待通りに動いてくれるようになるんです。そのためには、細かなメンテナンスは必要になります。この子、まだまだ十分使えますので大切に扱ってあげて下さい」
「うん、そうするよ。今まで乱暴に扱ってわるかったな」
宗田さんにつられるように、オレもパソコンに語りかけてみた。すると、パソコンが微笑んでくれた気がした。
「あともう一つ、いいですか?」
今なら宗田さんの言うことを全て受け入れられる。今度はなんだろう?
「どうぞ」
「大変失礼なことを言うようですが、お部屋の中がとても乱雑に見えます。不要なもので溢れているって感じがするんです。まずはいらないものを捨てて、必要なものだけにしちゃう。例えばボールペン。見るとこの机の上に三つも転がっているし。あっちのダイニングの方にも二つくらいありました」
「あぁ、確かに。使った後に、ついついそのまま放置しちゃうんだよなぁ」
「ペン差しってないんですか?」
「あるにはあるんだけど、どこにやったかな?」
「他にも雑誌とか本とか、食器もそうです。まずは使わないものを捨てる。ボールペンも一種類に限定させて、常に同じところにしまっておく。そうすると、みんなが喜んで島渕さんに力を貸してくれますよ」
そう言ってニッコリと笑う宗田さん。不思議なことを言うけれど、なんだか信じられるから不思議だ。
「そ、そうなんだね。ありがとう」
「では、今日はこれで帰ります。また何かありましたら遠慮なくご連絡下さい」
そう言って帰り際に名刺を渡してくれた。そこには会社の電話番号とは別に、個人の携帯電話の番号もある。
宗田さんが帰った後、オレは早速木下に電話を入れた。
「オレオレ」
「またオレオレ詐欺のしまぶっちゃんか。宗田の作業、終わったのか?」
「あぁ、おかげで快適になったよ。ハードの修理だけじゃなく、ファイルの整理までアドバイスをもらったし。さらに、部屋の片付けまでアドバイスしてくれたよ」
「ははは、そこが彼女のおもしろいところなんだよ。あの子、ただでさえパソコンに強いのに、若いながらも人生に対してのアドバイスまでしてくれるからなぁ。実は面接の時からそうだったんだ」
「面接の時に?なにをやらかしたんだよ」
「うちの店、来たことあるだろう。ぐるりと周りを見回して、ここをもっと整理すると仕事がしやすくなるとか、こんな不要なものは早めに捨てたほうがモノのためになるとか。雇う側にアドバイスをする面接なんて初めてだよ」
なんとなくイメージできるな。彼女ならやりかねない。
「それが面白くて雇ったんだが。彼女を入れて正解だったよ。実は、彼女の言うとおりに店の中を整理したら、不思議と仕事がどんどん舞い込みはじめてね。これは驚きだったな」
「どんなふうに変わったのか、そっちに行ってみないとな。この仕事終わったら遊びに行くわ」
ちょっと楽しみになってきた。オレは快適になったパソコンを駆使して、依頼された仕事を早々にこなしていった。にしても、今までこんなに快適に仕事が進んだこと、なかったな。
夕方になって仕事も終わったので、木下の事務所に足を向けた。
「おい、いるか?」
扉を開けてビックリ。今まではいかにも「パソコンの修理やってます」と言わんばかりに、丸裸にされたパソコンやパーツが山積みにされていた。しかしそんな影はひとつもない。受付カウンターがきちんとできており、そこに木下がいた。
「しまぶっちゃん、驚いたろう」
「いやぁ、来るところを間違えたのかと思ったわ。でも、修理はどこでやってるんだよ?」
「このパーテーションの裏側。見てみるか?」
木下に案内されて裏側に入る。きっとここがごちゃごちゃしているのだろうと思ったが、これがまたビックリ。確かに作業中の机の上はパーツがごちゃごちゃしているが、乱雑に置かれているわけではない。ネジをおく箱、工具を置くところ、分解したパーツを一時的に置く場所などが決められている。これなら作業もやりやすそうだ。
「あ、島渕さんいらっしゃい」
作業机には宗田さんがいて、ノートパソコンを分解修理していた。
「彼女のお陰で、うちはこんなに変わったよ」
木下が自慢げに言う。確かにこの事務所なら、お客さんが来て仕事を頼もうという気になるな。前の事務所は雑然としすぎて、ちょっと怪しい雰囲気があったからなぁ。
「ねぇ、宗田さんって家で厳しくしつけられたの?」
ふと湧いた疑問を口にしてみた。するとこんな答えが返ってきた。
「実は違うんです。私の親って片付け下手で、家の中は雑然としているんですよ」
「じゃぁ、どうしてこんなふうに?」
「実は、私の高校の頃の先生が教えてくれたんです。物には命があって、大切にすると長生きしてくれるんだって」
「物には命がある?」
思わず聞き返してしまった。
「はい。先生、ちょっと変わった人で授業中にこんな話をよくしてくれました。先生がその頃に乗っていた車、結構古いものだったんですけど、毎朝声をかけるようにしたら調子よく動くようになったそうです」
「あ、なるほど。それでパソコンに語りかけていたんだ」
「はい。そうしたら私も、パソコンの声が聞こえてくるような感じがするんです。実際に、どこが悪いのかがすぐにひらめくようになって」
不思議な話だが、現実に目の前でそれを体感したので否定はできない。
「その先生にぜひ会ってみたいものだな」
なにげにそう口にした。すると宗田さんはパッと顔が明るくなってこう答えた。
「ぜひ会いに行ってみて下さい。先生、今は学校をやめて喫茶店をやっているんです。そこできっと、不思議な体験ができますよ」
「不思議な体験?」
「はい。これは行ってのお楽しみです。場所はですね…」
宗田さんが熱心にそう言うものだから、オレはその喫茶店に行く羽目になってしまった。まぁ、仕事も一段落付いたし、少しくらいぶらりとしてもいいかな。
「夜は七時までだから、今日はもうあまり時間がありませんね。朝はモーニングもやっていまず。きっと気にいると思いますよ」
そう言って宗田さんは地図を描いたメモを渡してくれた。カフェ・シェリーというのか。場所はだいたいわかるな。
「じゃぁ、明日の午前中にでも行ってみるとするかな。宗田さん、ありがとう」
ニコニコ顔でオレを見送る宗田さん。木下もこんなにハキハキとした若い女の子がいれば、仕事に身が入るだろうな。うらやましい。
にしても宗田さん、その先生と会うことをそんなに勧めてくれるとは。これはオレにも何か起こるかもしれないな。そんな期待を胸に明日を待つことにした。
翌朝、めずらしく早起きした。早起きといっても朝七時ではあるが。いつもは夜中まで仕事をして、朝は十時くらいに起きる生活をしていたからなぁ。こんなに早起きできたのは、カフェ・シェリーに行くからでもあるが、それ以前に仕事が早々と終わったからでもある。
オレはタブレット端末を片手に、早速カフェ・シェリーへと向かう。朝からこうやって歩くのもいつ以来だろう。通勤している人たちの流れとは逆に、オレは街の方へと向かう。
「ここか」
地図を片手に確認。間違いない、このお店だ。すると、ちょうどオープンしたてなのか、きれいな女性が看板を出しているところだった。
「あ、こちらカフェ・シェリーですよね」
「はい。このビルの二階がそうです。ちょうど今お店を開けたところですのでどうぞ」
髪が長くてかわいらしい人だな。オレ、朝からついてるな。
カラン・コロン・カラン
お店の扉を開けると、心地よいカウベルの音。同時に低くて渋い声で「いらっしゃいませ」の声が聞こえる。この人が宗田さんの言っていた先生か。
「お一人ですか。よかったらカウンターへどうぞ」
カウンター席を案内されて、そこに腰を下ろす。
「モーニングがあるって聞いてきたんですけど」
「はい、ございます。ではモーニングセットでよろしいですか?」
「はい、お願いします」
「お飲み物は何になさいますか?ホットコーヒー、野菜ジュース、グレープフルーツジュースがあります」
「じゃぁ、ホットで」
店の中を見回す。窓側には半円型の大きなテーブルがあり、四つの席がある。店の真ん中には丸テーブル。そしてカウンターは四席。とても小さな喫茶店だが、狭さは感じない。
壁は白と茶色でまとめられて、とてもシンプルなつくり。余計なものがなく、とても落ち着く空間だ。でも、これどこかで見たことがあるな…あ、木下の事務所がこんな感じだった。色合いは違うけれど、余計なものがなくてこざっぱりしていたんだ。
「こちらがモーニングセットです」
出されたのはホットサンドとコーヒー。それなりにうまそうだ。こいつをパクつきながらマスターに話しかけてみる。
「マスターは以前高校の先生だって聞いたんですけど」
「はい、駅裏の学園高校におりました」
「教え子に宗田さんっていたの、覚えていますか?」
「はい、はっきり覚えていますよ。女性ながらパソコンに強くて、今はパソコン修理の会社に入っていると聞いています。私も以前お世話になりました」
「その宗田さんに、物には命があると教えたのがあなただと聞いてきまして。ぜひ先生に会いに行ってくださいって熱心に勧めるものですから」
「あはは、宗田さんらしいな。彼女は一つのことに熱中すると、とことん突き詰めるタイプでして。私の話に対しても、後からこれはどういう意味なのかと質問をされることが多かったですよ。特に熱心だったのは、物には命があるって話でしたね」
「それと、このお店では不思議な体験ができるとも言っていました」
「不思議な体験、ですか。うぅん、困ったなぁ」
「どうしたんですか?」
「実はですね、魔法のコーヒーというのがあるんです。けれど、モーニングのセットでお出ししたコーヒーはそれじゃないものですから。別にご注文をいただく形になるのですか」
「かまいませんよ。じゃぁ、モーニングを食べてしまったら魔法のコーヒーを注文させていただきますね」
魔法のコーヒー、一体どんなものなのだろう。ちょっとワクワクしてきた。オレはさっさとモーニングのホットサンドをたいらげて、ついてきたコーヒーを飲み干す。このコーヒーだけでもそこそこおいしいのだが、魔法のコーヒーとなるとどんな味がするのだろう。期待が高まってきた。
「ごちそうさまでした。マスター、その魔法のコーヒーというのを淹れてもらえますか?」
「かしこまりました。しばらくお待ちください」
ふと見回すと、お店の中には数名のお客様がいる。窓際には若い女の子。真ん中の丸テーブル席には老人と若い男性。そしてその二組は互いに会話を交わしている。どうやらこのお店の常連さんのようだ。その会話の仲立ちをしているのが、お店の前で会ったきれいな女性店員さん。
「なかなかきれいな方ですね」
ふとそんな言葉が出てしまった。
「マイのことですか。まぁ、おかげさまで彼女のお陰でこのお店がもっているようなものです。私も尻に敷かれていますよ」
笑いながらそういうマスター。尻に敷かれているって、ひょっとして…
「あの子、マスターとはどういうご関係で?」
「実は私の妻なんです。見たとおり、年の差婚なんですけど。私の元教え子だったんですよ」
「へぇ、マスターも隅に置けませんね」
「まぁ、気が合ったというか。彼女も宗田さんと同じように、私の変な話に食いついてきた一人です」
「そうそう、その話ももう少し聞きたかったんですよ。物は生きているって話。実はそのおかげで、うちのパソコンが生き返ったんです」
「さすが、宗田さんですね。彼女はパソコンに語りかけながら修理していたでしょう?」
「えぇ、医者が患者を診るように、会話をしながら修理をしていました。おかげで私も、パソコンに向かって『よろしく頼むよ』なんて言いたくなりましたよ」
「それ、ぜひ言ってあげて下さい。そして仕事が終わったら『ありがとう』とも。これはパソコンだけではなく、今扱っているもの全てに対してです。はい、シェリー・ブレンドです」
そう言ってマスターはコーヒーを私に差し出してくれた。これが魔法のコーヒーか。
「飲んだらどのような味がしたのか、聞かせてくださいね」
早速そのコーヒーを口にしてみる。さっきのコーヒーもそれなりに美味しかったが、今度のはさらにコーヒーの味と香りが私の舌と鼻を刺激する。
うん、これはさらにうまい。うまいだけじゃない、生きているという感じがする。コーヒーそのものがいきいきと私の口の中を刺激する。なんなんだ、この感覚は。
「このコーヒー、生きてる」
つい口にしてしまった。言ってから恥ずかしいと思った。コーヒーが生きているなんて、馬鹿げた表現だ。
「なるほど、コーヒーが生きているか。これは今までにない初めての感想ですね」
「えっ、どういうことですか?ここのコーヒーって、そういう味がするものなんじゃないんですか?」
「実はこのシェリー・ブレンドは飲んだ人が今望んでいる味がするのです。まれに望んだものがイメージとして頭に浮かんでくる人もいらっしゃいます」
飲んだ人が望んだ味がする。ということは、私が望んでいるのは「生きる」ということなのか?いやいや、そりゃ生きていたい気持ちはあるけれど、そんなものを望んでいるわけじゃない。
私が頭をかしげているのを見たからなのか、マスターはこんなことを言った。
「ひょっとしたら、お客様の場合『生きる』ではなく『生かす』ではないでしょうか」
「生かす?」
「そう。たとえば宗田さんに修理してもらったパソコンのように、その物の本来あるべき姿、あるべき働きをやってもらう。そのように物を生かすことを望んでいる。そう感じました」
確かに、マスターの言うとおりなら納得だ。
「そうか、昨日宗田さんに言われたのが、家の中が不要なものであふれているってことだったな。ボールペンだけでもたくさん転がっている。けれど、使わないものもある。物を整理すると、みんなが喜んで力を貸してくれるって宗田さん言っていたな」
「はい、実は捨てるというのも物を生かすことになるのです」
「捨てるが生かす?オレは小さい頃から、最後まで大切に使いなさいって教えられてきましたよ。だからうちには貰ったボールペンや文具があふれているんだよなぁ」
ふと我が家の状況を思い浮かべてみた。考えてみれば、中途半端に使ったものがたくさんあふれている。
「その教えは間違いではありませんが、使わないものをずっと置いておくとどうなると思いますか?」
「ずっと、ですか。だんだんものばかりがあふれてしまいそうですね」
「そうなると、それを全て使えると思いますか?」
「あ、いや、つかわない、よな」
「つまり、物を生かしていないということですよね」
「確かにそうだな。使わないものをそのままにしておくことは、大切に使っているとはいえないか」
「はい。だから思い切って捨てることも大切なのです。そして必要なものだけをとっておく。すると、無駄に購入したりすることもない。不要なものは人にあげてつかってもらうということもできます」
「あ、なるほど。人にあげれば使ってもらうこともできるのか」
「えぇ、そうすると、今度は必要なものや人がどんどん集まってくるようになりますよ」
ここでふと思った。
「ということは、お金も大切に扱えばどんどん集まってくる、ということか?」
「もちろん。たとえば財布の中のお札、きれいに並べていますか?種類ごとに分けていますか?ある人はお金を使う時には一言、言葉をかけているそうです」
「どんな言葉なのですか?」
「今度は仲間を連れて帰っておいでね、だそうです」
「なるほど、そうすりゃ仲間を連れて財布に帰ってくるってことか。そりゃいい、今度試してみるか」
「まぁ、そうやって楽しみながら物を使うといいということですよ」
さらにふと思ったことがある。
「オレの仕事はフリーのグラフィックデザイナーなんですよ。今はこういう仕事は、デジタルデータで納めるようになっているんです。こういうデータを大切に扱う場合って、どうすりゃいいんですか?目の前に実際に取り扱うものってないんですよね」
「なるほど、今の時代を象徴するような、あたらしい物の形ですね。じゃぁ、それをどうすればいいのか、シェリー・ブレンドに聞いてみませんか?」
「シェリー・ブレンドに聞く?」
「はい、このコーヒーは今欲しいものの味がしますから。その答えがきっと見つかりますよ」
マスターは微笑みながらそう言った。
私は早速、マスターが言うようにシェリー・ブレンドに口をつけてみた。さっきよりも少し冷めたコーヒー、今度はどんな味がするのだろうか。
コーヒーを口にして目をつぶる。味をしっかりと確認するためだ。
すると、私の目の前にはいきなりデジタルの世界が広がった。0と1が高速で私の目の前を通り過ぎていく。いや、私がその世界の中に突入して、高速で移動しているような感覚だ。しかも、その流れはとてもスムーズである。高速道路を飛ばしている、そんな感覚だ。
ふと見下ろすと、下の方では渋滞が起きている。何かが詰まっている感じがする。まるでネズミが迷路をあちらこちら迷いながら進んでいる、そんな感じを受けた。そのときふと思った。
「ははっ、普段から通りやすくするために、いらないものを整理していないからだよ」
このとき、パッと目を開いて現実の世界に戻ってきた。まるで映画の一場面を見ていた。そんな感じを受けた。
「いかがでしたか?」
マスターがそう言う。このとき、オレはここが喫茶店だということにあらためて気づいた。今見ていたものはなんだったのだろうか。
「いやぁ、ちょっと驚きの光景が目の前に広がりました。なんだったんだ、今のは」
「どんな光景が見えたのですか?」
オレはマスターに、今見たことを話した。まるで映画を見てきたような感想。けれど、それほどオレにとっては衝撃的だった。
「そうですか。気になったのはネズミが迷路を迷いながら進んでいる状況。これについてはどう思いますか?」
「デジタルデーターということを考えたら、CPUが処理をしようとした時にハードディスク内のデータを探そうと思ってあちらこちらさまよっている感じですかね。ということは、さっきの自分はCPUの立場だったのか。データがきれいになっていれば、見つけるのも早くて処理速度が格段に上がる。そういうことか」
話しながら今見たことの意味を自分で感じ取ることができた。このとき、宗田さんがパソコンに話しかけている意味がとても理解できた。オレがパソコンの立場だったら、そうやって励まされたら頑張ろうっていう気持ちになれる。
「マスター、なんとなくやるべきことが見えてきました。パソコンの中のデーターは常に整理をして使いやすくする。そして感謝の言葉をかけてあげる。そうするとパソコンもオレの期待に応えてくれる。そういうことですよね」
マスターはにこりと笑って首を縦に振った。
「ついでですから、物には命があるというさらに根本のお話をしましょう」
「ぜひ聞かせてください」
そう言うと、マスターの顔はさらに笑みがこぼれてきた。マスター、どうやら話したくてうずうずしていたようだ。
「すべてのものは振動しているというの、ご存知ですか?」
「振動している?」
「そうなんです。原子レベルで見ると、原子核の周りを電子が回っている。これはどのような物質も同じです」
「なんか高校くらいに習ったような気がしますね」
「つまり、ものは常に動いているのです。しかも周期的に。その周期は構成されたものによって異なります。これが固有振動数と呼ばれています」
そういや、そんな言葉どこかで聞いたことがあるな。
「もう一つ、振動するものは全て共鳴という現象が起きます。同じ固有振動数のものを近づけて、一方を激しく振動させると、もう一方もそれに合わせて動き始める。これは音叉の実験というので見たことがあるかと思います」
「あ、一方の音叉を叩くと、なにもしないのにもう一方も音を鳴らし始める、というやつですね」
「はい。あれが共鳴です。物体の固有振動数が自分の発している言葉と共鳴すると、面白いことが起こるのですよ」
「共鳴で面白いことって、どんなことなのですか?」
「お互いに似た固有振動数を持った者同士が集まり始めるのです。人で言えば、類は友を呼ぶという状態。あれは人と人だけではなく、人と物でも同じことがいえます」
確かに、似た者同士は集まるという。その経験はオレにもある。それが人と者でも同じことがいえるのか。
「まるでオレが磁石みたいですね」
「まさにその通りです。実は人は磁石になれるんですよ。そこから発する振動が似た振動を持ったものを集めてしまう。最初は意図して集めていたものが、自然と同じものを引き寄せてしまいます。コレクターがいい例ですね」
「あ、その感覚わかります。最初は自分が欲しいと思って買っていたけれど、徐々に勝手にそれが集まっちゃうんですよね」
「お客さん、何かコレクションしているものがあるのですか?」
「えへへ、実はですね、某アイドルの写真をたくさん集めていまして。最初はネットから拾っていたんですけど、自分でも撮影したものを持っていて。それをファン同士交換するようになってから、たくさんになっちゃいました。あ、写真と言っても今はデジタルデータですけどね」
ここでふとあることが頭に浮かんできた。
「マスター、わかった気がします。デジタルデーターにも波長があるってこと。同じアイドルの写真を並べると同じ感じを受けるけれど、たまに違和感を感じるものがあるんです。それをよく見ると、確かにそのアイドルは写っているんですけどあまり好きじゃない人と一緒に写っていたりするんです。そういう写真はすぐに捨ててしまいます」
「そうそう、その感覚です。波長って見えないけれど感じることはできるんですよ。よく、この人とは気が合うなぁってあるじゃないですか。あの感覚です。それが物にもあるんです」
「そうか、物に愛着が湧くなんてあるけれど、それは物と自分の波長が合っているってことなんですね」
「そうなんですよ。私もこのお店のカップを磨いていたら、カップに愛着が湧いてきて。今じゃ大切なパートナーだと思っています。そうすると、このカップでコーヒーを飲んでもらいたいと思うお客様がどんどん増えてきましたよ」
今ならマスターの言うことが理解できる。それこそ理屈じゃない、感覚で、だ。
「なんか早速、部屋の片付けとパソコンファイルの整理をやりたくなってきました。善は急げだ。マスター、ごちそうさま。いい話をありがとうございました」
なんだか身体がうずうずしてきた。マスターと話をしたおかげで、やってみようという気持ちが心の奥から湧いてきた。
オレは早速部屋の大掃除からスタート。いるもの、いらないものを分けていらないものは徹底的に捨てることにした。そうすると、まぁ出てくる出てくる。こんなものがあったのか。なくなったと思ったのがこんなところに。そんな感じで部屋の片付けだけで一日過ぎてしまった。
翌日はファイルの整理。今まで乱雑にフォルダに入れていたものを、宗田さんのアドバイス通りに仕事以外の趣味のものも整理整頓。ほとんど使わないけれど、念のためにとっておくものは外付けのハードディスクへ移動。
「うん、すっきりしたな」
部屋もパソコンも、なんだか見違えるようになった。なんとなく全体が輝いて見える。すると不思議な事が起き始めた。
なんと、その日の夜に新しい仕事の依頼がメールできた。しかも今までになく高額だ。いつもご贔屓にしてもらっている会社から、新しいパンフレットを作成するのでそのデザインを、ということ。
だが不思議な事はそれだけでは終わらなかった。その翌日のことである。
「はい、島渕です」
携帯電話が鳴る。見たことのない番号だ。
「島渕さんですね。あなたが応募した弊社のデザインコンクールの最優秀賞に選ばれました。おめでとうございます」
一瞬、なんのことだかわからなかった。ようやく記憶の底から、半年以上前に知り合いから勧められて、ついでで応募した清涼飲料水のラベルデザインコンクールに出品したことを思い出した。
「あ、ありがとうございます」
感激というよりは、おもわぬところからの棚ぼた的な出来事にあっけにとられてしまった。
「つきましては、商品化に向けてこのデザインを採用させていただきますので、そのお手続きをさせていただきたいのですが」
電話口で担当者と思われる人は淡々と事務的なことを話す。まるで他人事のようにしてその話を聴くオレ。どうやら関係書類が送ってくるらしいので、それに目を通して契約書にサインと捺印をして送り返してほしいということ。
そして、この採用にあたり賞金が百万円。さらに、今後その会社のラベルデザインの一部を任されるとのこと。突然降って湧いた話に、ただ驚くだけの私。
電話を切った後、あわてて応募したデザインを確認する。昨日ファイルの整理をしたばかりなので、それをすぐに取り出すことができた。
「そうだ、これだ、これ」
そのデザインデータを見てやっと思い出した。このデザインはなぜか突然ひらめいたものだった。今までのオレの作風とはちょっと異なる。
あのときはどうしてそうなったのか、そしてどうしてこのデザインで応募しようと思ったのかなんてこと、考えていなかった。ただなんとなく、という感じだった。
そのデザインが必要となる時を経て、今命を吹き込まれたのだ。いや、今までも命はあった。けれど眠っていた状態だったのかもしれない。それが、オレの波動が変わったことにより眠りから覚めた。まさにそんな印象を受けた。
「デジタルの中にも命ってあるんだな」
ふとそんな言葉を口にしていた自分に気づいた。忘れないうちにツイッターでつぶやいておくか。
そんなことがあってから、オレの仕事は徐々に順調になり始めた。パッケージデザインに採用されたこと、これが徐々に広がっていき、それならばうちの商品もやってくれということで、オレは商用ロゴデザイナーとして認知が高まっていった。
認知が高まると、勝手に報酬も高くなっていった。これはオレが言い出したことではない。依頼主が勝手に依頼額を上げていってくれたのだ。実際、オレも仕事が多くなりすぎて困るくらいだ。
こうしてオレはいつのまにかいろいろなことが順調になりはじめた。これも宗田さんが、そしてカフェ・シェリーのマスターが言っていたことを守ったから。
そうだ、二人にお礼を言わなきゃ。ということで早速木下の会社へと足を運んだ。
「こんちはー」
「はい。あ、島渕さん、いらっしゃい」
奥から現れたのは、作業中と思われる宗田さん。オレは早速あれからの経過とお礼を伝えた。すると宗田さん、さらに興味深いことを話し始めた。
「先生から波長の話をお聞きになったのですね。これ、人も同じだってこと。だから私も同じ波長の人を引き付けたんだなって、そう思っています」
「同じ波長の人?」
「はい。社長の木下さんもそうですが、島渕さんもそうです。私、島渕さんのパソコンのメンテナンスをしていて、なんとなくそう感じたんです。あ、この人私と同じ匂いがする人だって」
宗田さん、ここでちょっと照れ笑いをする。その笑顔がとてもかわいらしい。
いかんいかん、何考えているんだ、オレ。見たところ彼女はオレと一回りも違う年齢だし。それに木下のところの社員さんなんだぞ。でも、今までつきあってきた女性とは違う感じがする。彼女が言うように、波長が合うって感じ。
「あ、島渕さんのツイッター読みましたよ。デジタルの中にも命があるっていうの。あれ、私も共感しています。やっぱり島渕さんって、私と同じだ」
「あ、あのさ、今度一緒にカフェ・シェリー行きませんか?」
あれっ、オレどうしたんだ。こんなに急にかしこまってしまって。しかも宗田さんを誘うなんて。これってデートの申込みじゃないか。
「はい、ぜひ!」
明るく笑顔で答える宗田さん。ってことはオーケーってことか!?
「い、いつなら大丈夫?」
「ここのお仕事は基本土日は休みなので、どちらかだったら大丈夫です」
「じゃぁ今度の土曜日に。えっと、十時くらいでも大丈夫?」
「はい。じゃぁ駅前の噴水のところで待ち合わせましょう」
なんか話がトントン拍子に進みすぎている。けれど、違和感がない。これが波長が合うってことなのかな。
「あれっ、しまぶっちゃん来てたんだ。最近順調そうじゃない」
木下が外出から戻ってきた。そして宗田さんの方を向いてニヤリと笑った。なにか意味ありげだな。
「宗田さん、物も人も大切にすると惹かれ合うんだったよね?」
「えっ、あ、そ、そうです」
なんか照れながらそう言う彼女は、さらに可愛く感じる。やべっ、惚れそうだわ、オレ。
そうして土曜日、宗田さんとカフェ・シェリーへ向かう日がやってきた。この日、オレは柄にもなくシャレたジャケットにネクタイを締めて待ち合わせ場所へと向かった。ちょっと心臓がドキドキしている。
「おまたせしましたー」
そう言って息を切らして駆けてきた宗田さん。いつもの作業着とは違い、とても女の子らしいじゃないか。さらにドキッとしてしまった。
「あ、と、とてもかわいい…な」
「えっ、あ、ありがとうございます」
照れる宗田さん。やべっ、これ、本気になりそう。
「そういえば先生の奥さんって見ました?」
「えっ、奥さん?ひょっとしてお店にいたきれいな女性がそうなの?」
「はい。私の一つ上の先輩です。先生、年の差婚なんですよ。たしか二十歳くらい差があったんじゃなかったかな」
「宗田さんって今いくつ?」
「あー、女性に歳を聞くなんて失礼ですよー」
そう言って笑いながらおどける宗田さん。でも、今の年の差婚の話はオレに勇気を与えてくれた。よし、今日はマスターにその辺の話を突っ込んで聞いてみるか。
デジタルの中の命が結びつけてくれた宗田さんとの関係。これから先も大切にしていかなきゃな。こんな縁をつくってくれた神に感謝です。
<デジタルの中の命 完>