三章 66冊目 初めてその2
国。当たり前のようにそこで過ごす時間が退屈だった。そんな日常は見事に破壊され、非日常へと突入中のヘキル。
石造りを基礎とし、それでいて木造も入り交じる街並み。幾度ととなく踏みしめられているはずの大地は、怯むことなく強靭さを示し今もなお雑踏を耐え凌ぐ。足が悲鳴を上げるほどの強度だ。
国を裂くよう流れる水の道。せせらぎなど皆無。情緒を廃棄し、利便性だけを要求されたその水は、従順に流れ続けている。意思を持たぬ物のように――。
非日常が訪れているのはヘキルだけ。皆が皆、何も感じないのか、何とも思っていないのか、日常の道のりを淡々と歩み進んでいる。非日常の道のりを共にするイドは、一体どちらを歩み進んでいるのか――。
「イドイド! 次はあそこ! あそこ行こ?」
それは体だけで、返事など求めるつもりはない。ただ着いてきてくれればいい。
腕を引き同調を促すが、イドはびくともせず、
「そっちはダメだヘキルっ! 戻ろう」
顔色を取っ替えたように、ひ弱なイドはどこへやら。いつにも増して真剣な表情で、その先にあるものに向けられているのは間違いなかった。
「イド……やめて。そんな顔しないで」
「……あはは、ごめんごめん。そっちは怖い怖いなんだ――そろそろ帰ろっか」
取っ替え引っ替え忙しいイドであったが、いつものひ弱さを出し、笑顔の表情に戻った。
今までのイドとは何かが違っていた。その方角へと向けたものは、また別の非日常を起こしうる可能性に秘めたものであると、それはまた悩む種になりえると、この関係が壊れてしまう――そんな気がしてならなかった。
振り返り、イドの脇腹へと顔を埋める。
イドの匂いとパンの匂い。それに混じった嗅いだことのない臭いが、その場に流れ込んできたことに、嫌悪感を抱かざるを得なかった。
世の中、知らなくてもいい事柄は山ほどある。
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澄みきっていた空は嘘のように、黒く厚い雲で覆われ、涙のような雨が地を埋め尽くす花を濡らす。
三人組の獣人が突如として、花畑へと帰る道すがら表れ、それに襲われた。抵抗する暇を与えられず、強靭な獣達によってなすすべなくヘキルとイドは引き離された。
「てめぇら、ヘキルに手を出してみろっ! 絶対に殺してやるっ!!」
獣人に二人係で抑えられ、地面に伏せることを強制されたイド。必死に顔を持ち上げ、殺気のようなものを纏わせた怒号を投げつけてきた。
肩から背負われ、連れ去られるヘキルが見たのは、そんな獣以上に感情を爆発させたイドだった。
「ほぉー、そんなにこいつが大事か?」
ふいに体が宙を舞い、上空からの降り注ぐ水を浴びた。
――――瞬間、走った強烈な一閃。
何が起こったのか理解できなかった。しかし、体は素直にその事実を受け止めている。
腹部へ一閃が繰り出され、そのまま地へ叩きつけられた。あまりの衝撃に地はヘキルを受け止めきれず跳ね返す。そして再びの地へとご対面。
吐物は赤黒さを持って吐き出され、花へと手向けられた。
一閃を繰り出した獣人は、ヘキルのそのダメージとのギャップからか、手の感触に納得はいっていない様子。開いては閉じを繰り返している。
――あれ……なに……これ……死ぬの……かな…………
突如として『死』が脳裏をよぎり始めた。目は霞みを見せ始め、体の感覚は無くなり、温かみのある吐血物の上で、一人冷たさに苛まれた。
これが本物の痛み。それを初めて味わった。
ヘキルがこれまで経験した痛みは、不慮の事故での物理的ダメージでの経験しかない。
前方不注意による木への激突。よろけた際のすっころび。等々……。
自然とそれは起こる現象であり、世の理。回避する術はない。
「イ……ド……」
かすれきったその細い声が届いたかは分からない。だが、それは必死に紡ぎ出した言葉。一人の人間に対しての呼び掛け。
――特別を……くれた。
――初めてを……たくさんくれた。
――まだ……一緒にいたい。
「……しにたく……ない……よ」
一人の男の引き金は、妖精の涙をきっかけに引かれた。