三章 65冊目 初めてその1
本来、妖精には人間のもつ『羞恥心』は無い。だからこそ、ヘキルは何故逃げ出したのか理解できなかった。
あれからイドと再開するまでの間、何度かキスをする機会があったが、あの時の感情は押し寄せては来なかった。
「……えっ!? あの国に行くの?」
四度目の脱出。回を重ねるごとに蔓たちは鈍くなり、今回に至っては妨害さえなかった。
イドから提案されたことを聞き返し、改めてその真意を問いただす。イドから放たれた言葉に内心、歯止めを失うほど抑えきれない興奮で溢れていた。
「行きたくないなら――」
「行く行く~絶対行くから! ねっ、早く行こ、ねぇ、早く早く~!」
イドの言葉を遮り、駄々をこねるように急かす。花畑をベッドに、寝っ転がるイドを何度も揺さぶった。その振り子に待ったをかけるように、
「わ、分かった、分かったから。落ち着けって……なっ?」
振り子によってブレブレになった声色は面白いものであったが、その感心よりも今はそうではない。ヘキルは言われるがままに振り子をおさめた。
人間の国には行きたいと思っていた。だが、イドと過ごす時間がそれよりも勝っていた。
「行くに当たって、条件がある!」
「条件? なに~?」
立ち上がったイドは指を立てて、三つの条件を並べた。
一つ目は、羽を広げないこと。
二つ目は、妖精だと言わないこと。
三つ目は、側を離れないこと。
「いいかヘキル。これを守ってくれないと、妖精王様に申し訳がたたないんだ」
「どういうこと?」
「はぁ……あのなぁ、お前は妖精の掟を破ってるんだぞ? それは分かるだろ?」
深いため息混じりに現状を事細かに説明するイドだが、響くものはない。そんなことなんとも思ってはいないのだから。
妖精族にある『概念』それはヘキルにとってただの紙切れと『解釈』されている。だから興味がない。逆に何故誰も破ろうとしないのかと、理解ができなかった。そんな紙切れに思いなどありはしない。
「だからなに?」
その答えは至ってシンプル。だが、『概念』に縛られている者とのギャップは、越えられない壁としてそびえ立つのをヘキルは知っている。母がそうであるから――。
そんなヘキルの答えにイドは高らかに笑い声を上げて腹を抱えて、苦しみだす。ヘキルが惹かれたのはこういうところである。
イドは何とか笑いを渇かすことに成功した様子。すると突然頭を撫でて、
「お前すげぇわ。やっぱりブッ飛んでるな」
「なんのこと?」
「お前にあそこは狭すぎるってことだよ」
首をかしげざるを得ないほど、その思考を捉えられなかった。
何を言っているのかと、イドは時々意味不明なことを言う。ただ頭を撫でられるのだけは、好きだった。
片腕にしがみつき、あの国へ二人は進み出した。
「ん~! イドの匂い好き~」
「変なこと言うなよ……あと動きにくいんだけど?」
「え~~だって離れるなって言ったじゃん」
「……」
それっきりイドは頬をかく仕草を残し、静かになった。そんなイドの顔を覗き込むと、赤を出しているのを確認できた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
建物がひしめき合い、雑踏の街中にヘキルの鼓動が速まる。ヘキルはただただ見とれていた。この光景に。その光景に――。
「これが『ティユ王国』『獣人族』の国だ」
「獣人? この毛むくじゃらが?」
純粋な感想だったのに、瞬く間にイドによって口を塞がれた。様々な目線を受けながらも、その光景に胸が踊る。
人間と見分けはすぐにつく。獣人族は首から上が獣のような姿であるから。もちろん全身獣の姿の者もいる。
獣の特徴がすぐに読み取れるほど色濃く残っている。耳や爪や足など――。
それでいて人間のような姿。二足歩行で歩き、言葉を話す。
『あんまり外見をいじっちゃダメだ。分かったな』
『う、うん。ごめん』
耳打ちで話すイドの言葉はいつになく真剣で、その重さにすぐさま訂正を提出。抱きしめるその片腕に力が入る。
「ハハ、大丈夫大丈夫。みんな優しいから。まぁ、たまに変なのはいるけど、人間とそんなに変わらないから。いいもの紹介してやる」
イドに連れられるがままに、街の奥へと歩み始めた。
街の奥へと進むといい匂いが辺りを包む。今までに嗅いだことのない匂いに「なんの匂い?」とイドへと投げ掛ける。
「この匂いな『パン』って言う食べ物なんだ。これがすげぇうまい。この辺りじゃ一番の店なんだ。ヘキルに食べて欲しくてさ。あれだよあれ」
イドの指差す方向には、茶色くて少々黒が混じった丸いものが、いい匂いを醸し出す。その誘惑を絶ちきれず、一目散にイドの腕を引く。
「これが『ばん』? っていうの」
「ああ、そうだ――四つほど袋に包んでもらえますか?」
「はいよ。五リンだ」
イドと店主の獣人とのやり取りに、ヘキルは目を奪われた。
丸い物を明け渡し、包まれた物を受けとる。買い物という普通の光景でさえ、ヘキルには新鮮な光景であった。
「ほら、食べてみろよ」
袋から出されたパンをヘキルは手に取る。思っていたよりもそれは柔らかく、ふわふわで、噛むのに苦労はなかった。あまりの美味しさに、顔がとろけ、食べる手が止まらず、あっという間に平らげた。
「ヘキル、パン大好き~」
恍惚なその表情にその場にいた誰しもが、その一人の妖精に魅了され、虜になった。
初めて尽くしのヘキル。だが、その初めてはこれから次々に襲いかかってくる。この『妖精、初めてのパンを食べる』は、まだ日の傾きが、頂点を向かえる前のことであった。




