三章 55冊目 ラッキーガール
それぞれがその場を支配し、繰り出したリジュの一撃をお見舞いされ、誰一人として声を上げる者はいなかった。最も、第一声を模索しているやつもいるにはいる。
ショウが支配者リジュから逃れたのは、リジュそっくりのやつに照準が向けられたためである。
「――って、キスよりもリーエだろ!」
第一声を取った。
リジュの支配から逃れ、今すぐにでもリーエの元へ向かおうと体は第一の壁。ドアへと向かって飛び出した。だが、すぐさまショウと壁の間に割って入ってきたメイドが一。
「ダメですっ! ここを通すことをお許しできません。まだ体は悲鳴をあげているはずです」
さっきまでの赤は引いている。通常フィアがその場に両手を広げて君臨した。最強の門番を前に自然と足は止まる。
――わけなかった。未来予知めいたことが的中してしまったからだ。
足の力が消え、前のめりで不可逆的な攻撃を繰り出す体勢を取らざるを得なかった。しかも結構な至近距離で。
避ける? それはない。だってメイドだから。それもフィアだ。受け止めてくれるはずだと、ショウは思った。
思った通りにそれは起こったが、不可抗力のことをしでかしてしまった。
いつもならばここでフィアの「大丈夫ですか?」の一言だが今日はない。それどころか体が勢いを殺せていない。そのことでドアへとフィアは激突した。
二人を支えきれなくなったドアが、廊下へと二人を引きずり出した。
「大丈夫か、お主ら。スゴい音じゃったぞ」
「ショウ様、姉様、ご無事で?」
再びの思考停止状態。ノロとロネイの言葉などあっという間にすり抜けた。
今度は口と口とが塞がれてしまった。しかもフィアと。すぐさま口を退かして、体を倒れ込むフィアから反転して座り込み、
「ちょ、ちょ、ちょちょちょちょっと待て。こ、これは、俺のせいじゃないから……リーエ。そうリーエのせい。よぉし、後でお仕置きでもしてやるぞー」
ことを誤魔化すように、部屋の中から見下ろすメイド達に身ぶり手振りの芸をお見舞い。それはリジュの時以上のあわてふためきぶりだった。
あのユニゾンは。頬と口とでは訳が違う。
「何言っとるんじゃ、主人様。壊れたか?」
「アハハハ、ショウ様面白いです」
「――え? お前ら……そうか」
見られていないことにホッと一息。出てもいないのに額の汗をぬぐいとる動作を行い、傍らにいるフィアへと目を向けると、そこにいたのはショウが見たこともないフィアだった。
目を覆うように腕を使って目隠しをし、ピクリとも動かないでいる。
「フィアさん?」
と、かしこまって名前を呼ぶが、返事すらない。
――少しの間があったあと、
「……ご主人様。忘れないですから」
口元が動きだし、まるで脅しのような言葉を羅列したが声色はというと、いつも通りでその脅しとは相容れない。
忘れないというのが、二つの意味で脳を刺激する。
一つは、そのままの意味。やられたことを根に持つということ。
もう一つは……
「……いや、忘れてください。ホントに、お願いします」
床に額を擦りつけ、ことに対する忘却を切に頼み込む。
やってしまったことは不可抗力といえど、それがどんなに重い罪であるかぐらい理解できている。興奮よりも何よりも、フィアへ『傷』を追わせたことへの贖罪で、助けることさえ疎かにしている現状。
事の状況を理解しておらず、何がなんだかわからないのか、ノロとロネイはただ黙ってショウ達を見ていた。
「……絶対にイヤです」
土下座の甲斐なくキッパリと拒否され、惨めさだけが残って顔が上げられない。ゆっくりとフィアの体が揺れ動く物音が、今使える五感のうち、最も頼りになる聴覚を伝う。
『……顔をお上げくださいご主人様』
「――!!」
ビクッとしたのが、フィアにも伝わっただろう。敏感になっている聴覚を、強すぎる刺激が耳元を駆け抜けていったのだから。
それでも顔は上げられない。上げたとして、どんな顔をすればいいのか分からなかった。
ごめんと、おちゃけた風に謝るのか。ごめんなさいと、誠意をもって謝るのか。それでも謝ることだけは曲げず、そのことしか脳には残されていなかった。
『ノロ様や、ロネイ様に不審に思われてしまいます。ですから、今は平然を装うことに努めていただけると助かるのですが……』
『だ、だけど……』
『たかがキスです。その行為自体あまり意味は持ちませんよ? それとも、今すぐお二人にこの事をお話ししても?』
今度のは間違いなく脅しだ。半ば強制的に顔は上がり、差し出された手に従うしか道はなかった。
平然を装うのもなかなか難しい心情であったが、罠は得意と言わんばかりに装うことに徹する。それが今、フィアに対してできる償いの一つだから。
「あはは、ドア壊しちゃったな……どうしようフィア」
「お任せを。すぐに直せますのでご安心ください――ご主人様にも手伝っていただきますので、ノロ様とロネイ様は少し外してもらえますか? もうすぐ朝食のご準備をしなければなりませんので、ほんの少しで構いませんので」
それなりの理由で二人になることに成功。ノロとロネイは廊下を歩いていき、見えなくなる前に部屋へと連れ込まれた。
バタンという音。一瞬のうちにドアは直され、その役目を再び取り戻していた。完全なる二人の空間。ドアの前に立つそのメイドとはまだ目を合わせられない。
「先ほどは、嘘を交えてしまいまして、申し訳ありません」
フィアなりの虚偽を見繕っていたようで、頭を下げて謝り、顔を戻して再び続けた。
「たかが……ではありませんよね。不可抗力とはいえど、ご主人様の許可なくしてしまいましたことをお許しください」
「……それは俺もだよ。本当にごめん――いや、ごめんなさい」
頭は深々と下げ、何もかもを投げ出してでも許しを得ようと必死にただ何度も、何度も……
「――ほんとうです! こんな初めては嫌でしたよ!」
うってかわってフィアは怒りを露にしだした。あまりにも唐突で、かわいらしい怒りの声で、その場の雰囲気がガラッと変わったのはいうまでもない。
下がっていた頭は上がりを見せて、その真意を問いただしてみた。
「……初めて?」
「聞きます!? 察して欲しいものですね、鈍感なご主人様!」
怒りをさらに増大させてしまったようであったが、声色はやはり相反してかわいさ混じり。ドアの向こう側への景色が開かれると、フィアは振り向き様に、唇に指を当てる仕草で、
「初めてなんですから――ぜったい、忘れないからね。ショウ」
それはメイドのフィアではない。魔性というものを出して現れ、そして消えた。
胸の鼓動がはち切れそうな勢いで押し寄せ、体が熱くなるのを抑えられず、ただ呆然と立ち尽くしかなかった。