第8章(紗里)蝋燭
恋愛など、狂気の中にしか存在しない。自意識と性欲と混乱の狭間で、人は不安なのだ。悩まなければ恋愛は生まれず、それが生まれたからといって悪夢ばかりが待っている。
紗里は仲條圭の『狭量な線路』に栞を挟むと、そのハードカバーに包まれた小説を机に置いた。
何がなんだかわからない。これだから小説家ってのは。芸術気取りで文章を書いて、そのくせそこにどんな中身があるのかどうか、それは読者の皆々様が解釈してください、だもの。大体、どうしてあんなに偉そうな物言いなのかな。
目覚まし時計が17時40分を示している。
紗里は小さなショルダーバッグを肩にかけると、自分の部屋を出て階段を降りた。玄関でパンプスに足を入れる。鍵を回し、ドアを開けた。
雨は降っていなかった。まだ暗くはなかったが、やがて来る夜に空気が備えているようであった。紗里は駅へと向かって歩き出す。
やっぱり私には読書は合わない。文字から伝わる心なんて本当にあるのだろうか。確かに私とコミュニーケーションをしてくれる本はあるのかもしれない。でも今までに私が読んだ本はいつだって、筆者の独りよがりだった。
大学受験の現代文は苦手だった。評論問題はまだいい。評論は論理が通っているし、筆者は何らかの主張があり、その裏付けもある。ある程度決まり事があり、システマチックな文章だから。でも小説問題はそうではない。まるで筆者のやりたい放題だ。そんなものに取ってつけたような問題を作り、それで答えろと言うのだから。
国語のコマはできるだけ持ちたくないな。
やがて紗里が駅に着くと、改札の前で彼は待っていた。紗里の姿を見て、スマートフォンをポケットに入れる。
「やあ」と彰は言った。
「わざわざここまで、本当に来てくれたんだね」
「まあね。デートしてくれるならそれくらい、なんてことはない」
「デート? 違うでしょ」
「そういうことにしておいて」彰は笑った。
「ご飯だけね」
「わかってる。さ、行こうか」
彰君のことは、正直よくわからない。大学に入って最初のオリエンテーション、彼は隣に座っていた。彼は持ち前の眩しくなるような笑顔で挨拶してくれた。それから私と彰君は話すようになった。だから彼と知り合ってからもう1年ほどは経つというのに。
それもこれも、全ては彰君のせいだ。別に友達ならいい。なのに、彼は私に惚れてしまった。そうなれば私は彼を遠ざけなくてはならない。私は恋愛に興味がなかったから。そうすればそのうち彼も私に興味を無くすだろう、と思っていた。私のことを気に入ってくれた男の子達も、だいたいそうだったから。
けれども困ったことに、彰君はそうではなかったらしい。今でも週に一度は連絡が来るし、そしてさらに私を困らせたのは、私が彼のことをそれなりに良く思っているという事実だった。
男女に友情はないのかな。いい友達になれればそれでいいのにな。
10分ほど歩いて、紗里と彰はイタリアンカフェへと入った。20席ほどの店内は、女性客やカップルでそこそこ埋まっている。照明は抑えめで、テーブル毎に小さな蝋燭が置いてあった。落ち着いていながらどこか幻想的な雰囲気がある。扱っているのは正統派のイタリアンだが、このあたりではちょっとした有名な店だった。
案内されて席に着くと、メニューを見ながら彰が言った。
「紗里はもう成人していたよね」
「うん。だからグラスの白ワインで。それと、ジェノベーゼ」
彰は頷き、店員を呼んだ。
「お待たせしております」と若い女性の店員。
「この白ワイン、グラスで2つと……」
「え? 彰君、大丈夫?」
「俺も誕生日4月だったからね」
そう言って、彰は注文を続けた。
嘘じゃない。彰君は私に合わせるためにわざわざそんなことをしたりするような人ではないと思う。彰君は2ヶ月前、私の誕生日を祝ってくれたけれど、私は彰君の誕生日すら知らなかった。
注文を全て終えると。
「……以上でよろしいですか? メニューをお預かりします」
店員はそう言ってメニューを抱えて、裏へと戻っていった。
「ごめんなさい、私は祝ってもらったのに……」紗里が申し訳なさそうにそう言った。
「何をそんな。お祝いしたかっただけだよ」
「彰君は、どうしてそんなに私を気に入ってくれているの?」
「どうしてだろう。俺にもわからないんだよな。紗里が可愛いからだとか、まあそれはそうなんだろうけれど」
「よく恥ずかしげもなくそんなこと言えるよね」
「とにかく、好きだと思うから好きなんだ。それじゃ駄目かな?」
「私にはわからない。恋愛がどういうものなのか、人を好きな気持ちがどんなものなのか。私は彰君をそんなに悪くは思ってない。でもね、だからといって恋人になんてなれないでしょう」
「誰かを好きになったことはないの?」
「小学生の時」と紗里。
「それだけ?」
「それだけ」
「その人のことは今でも?」
「まさか。顔さえあまり覚えてない」
「なるほどね」そう言って彰は椅子に深く座り直した。
「偉そうに。彰君はさぞ恋愛経験が豊富でいらっしゃるんでしょうね」
「そうでもないよ。紗里と一緒で結構モテる方ではあるけれど」彰は冗談を言ったつもりではないようだった。
まあ、確かに。彰君は実際、かなりモテるのだろう。身長は高いし(180cmくらいあるのかな)、スポーツマンだし、顔つきは可愛らしいけれどどこかきりっとしているし、何より素直で真っ直ぐな人だから。
「とにかく。今日お誘いに乗ったのは気まぐれだから。勘違いしないように」と紗里が言った。
「結構。でも、嬉しいよ」
「全くもう……」
パスタとワインを挟んで、紗里と彰は様々な話をした。お互いの高校の頃のこと、ゼミに入るか迷っていること、サークルのこと、レポートのこと、共通の友達のこと。
「……それで部屋中大荒れだったからすぐ警察呼んだらしいんだけど、結局犯人はわからないままだってさ」彰はそう言った。
「弘樹君も大変だね。泥棒なんて入られたら私、どうしよう。やっぱり一人暮らしはまだちょっと怖いなあ」
「でも何も盗まれてなかったらしい。その数日前に加奈と付き合い始めてたから、サークルの奴にやっかまれたんじゃないかな」
「男の嫉妬は見苦しい」
「本当に」
あれ、なんだろう。私、楽しいかもしれない。特別面白い話をしてるわけじゃないのに。女の子の友達だって、こんなに楽しく話ができる人なんてそういない。彰君もあれやこれやと気を回してくれているわけでもないと思う。これはどういうことだろう。
「……ねえ。ご飯だけなら、また付き合ってもいいよ」と紗里が言った。
「いいね。それなら今度はお酒でも飲みに行こうか」
「お酒ね。いいけれど、変なこと考えてない?」
「あんまり」
「あんまりって何」
「失礼」
「4文字しか喋れないの?」
彰は驚いたように紗里を見た。
「それ、面白いね」
「……どうもありがとう」
紗里と彰は目を見合わせて笑うのだった。




