第7章(幸成)権利がある
15時。雨雲が空を覆っていて、雨が降っていた。柔らかな風に揺られて、水滴がなびく。濡れたアスファルトの匂いが漂っていた。
幸成は6号館の入口で、トートバッグから折りたたみ傘を取り出し、そうして傘を開いた。歩き出すと、スニーカーが水をぐいと踏みしめる音。
そろそろゼミの募集が始まる。どうしよう。経営学科らしく、経営コンサルタントの研究をしているようなゼミにでも入ってみようか。
ああ、だめだ。上手くいくわけがない。10人や20人の集団にわざわざ自分から入りに行くなんて。中学生の俺は、よくバスケ部に入れたものだ。
かといって、このままゼミにも入らなければ、いよいよ卒業まで俺は1人のまま。今更どこかのサークルにも入れない。せっかく東京に来てまで大学に入ったのに。でも、無理なものは無理なんだ。こんな俺は、果たして就職なんてできるのだろうか。
幸成が俯きながら歩いていると。
「あ」
その声に、幸成は顔を上げる。なつきが立っていた。彼女は紺色の傘を差して、幸成を見ている。
「えっと、なつきさん?」幸成は言った。
「久しぶりだな。あの、ごめん、名前……」
「唐木幸成」
「ああ、そうだ。幸成」
なつきは細いシルエットの黒いTシャツに、やはりグレーのカーディガンを羽織っていて、ロングスカートを履いていた。
「ちっとも会計学で見かけないけれど?」と幸成。
「期末テストさえ受ければ大丈夫らしいから」
「解けなくない?」
「過去問貰う。幸成もいる?」
「いる」
「それなら連絡先、交換するか」なつきはそう言うと、携帯を取り出す。
「あ、うん」それを見て幸成もまたポケットを急いで漁った。
そうして連絡先を交換した後、なつきが言った。
「何? 帰るとこ?」
「そうだよ。4限が終わったから」
「部屋どこ?」
「あの、正門から出て坂降りたところの、ガソリンスタンドの近く」
「ちょっと部屋にいさせてくれないかね?」
「……俺の?」
「そうに決まってるでしょ。夜に飲み会があるんだけどさ。それまで居場所がないのよ」
「あ、ああ、構わないけれど、何もないよ」
「いいよ別に」
幸成となつきはアパートの外階段を上がっていた。
どうしよう。こんなことになるとは。あ、片付けないと。空のペットボトルが放置されてるのは流石に見せられない。
「あの、片付けるから、ちょっと玄関の前で待っててくれる?」
「あ? 別にいいから。とりあえず入れてよ」
「いや……」
「いいんだよ」
幸成の部屋の前に着くと、幸成は鍵を開けて玄関扉を開く。するとなつきが。
「お邪魔しまーす」
「ちょっ……」
なつきは幸成よりも先に、部屋へと入った。靴を脱いで、ずんずんと歩いていく。
「ほう。確かに汚い」
床には脱ぎ散らかしたスウェットやTシャツ。机の上にはコンビニのビニール袋が2つ。それから空になったペットボトル。ベッドの上は台風のような姿になった掛け布団。
なつきはベッドに腰掛け、そして幸成もまた部屋へと入ってきた。
「だから言ったのに。すぐ片付ける」
「いいんだって。一人暮らしはそうなるもんな」
「え? あ、そうだよ。なつきさんも一人暮らししてるんじゃ?」
「この雨じゃ、自転車にも乗れないでしょ。歩いて帰るには面倒な距離でさ」
幸成は椅子に座ると、言った。
「なつきさんは、ゼミには入るの?」
「まだ決めてなくて。ただまあ、どこかには入ろうかなと」
「そうなんだ」
「幸成は?」
「入らないかな。多分ね」
「ふーん」
「そういうのに、馴染めなくて。だから本当は入れたらいいなとは思う。でも」
「は? 何それ」
「いや、だから……」
「あのな。自分を決めるのは自分だ。自分は何者か、それを決める権利がある」
「それはどういう……」
「幸成。好きに生きろよ」
そう言うと、なつきはベッドに横たわった。
「あの、変なにおいとかしないかな」と幸成。
「わからん。とりあえずちょっと借りる。2時間後に出ていくから、それまで寝さして。昨日寝てないんだ」
「あ、うん、わかった」
なつきは携帯でアラームを設定して、そうしてすぐにすうすうと寝息を立て始めた。なつきが眠りに落ちるまで、ほんの数秒しかなかったのだ。見事だ、と幸成は思った。
なんて人なんだろう。なつきさんみたいな可愛い女子に部屋を貸すことはむしろ嬉しいくらいではあるけれど、普通に考えれば図々しいにも程がある。会って2回目だというのに。
彼女は横向きになって眠っていた。幸成は眠るなつきの顔を見る。綺麗な横顔だった。長めの黒髪がしとりと顔を横切り、ベッドの上に垂れている。
俺も一応男なのに。ましてやついさっきまで、なつきさんは俺の名前を覚えてすらいなかった。それなのによくもまあ俺の部屋で、こんなに堂々と眠れるものだ。フランクで、言葉が荒くて、それでいて外見は女の子らしくて、どこか普通ではない。こんな人、見たことがない。
全く、台風みたいな人だ。俺はわけもわからず彼女のペースに乗せられている。それでも、こうして誰かと話せることは嬉しいのだけれど。
なつきさんはそういう俺を見通しているのだろうか。どうだろう。何も考えていないようにも見えるし、まるで全てわかっているかのようでもあって。
幸成は毛布を取り出し、そして彼女にかけるのだった。
2時間後、なつきの携帯からアラームが鳴り響いた。なつきは煩わしそうに寝返りを打つ。幸成はノートパソコンでマクロ経済学のレポートを書いているところであった。
「ん……。ああ。んー」
なつきは目を開けようとしない。
「なつきさん、飲み会があるんでしょ」
「……起きる」
なつきは突然に起き上がった。そしてベッドの上で座ったまま、呆然としている。すると毛布がかけられていることに気付き、幸成を見た。
「そのまま寝ちゃってたからさ」幸成は言った。
「あ、ああ。ありがとう。世話になったな」
なつきは毛布を畳み、立ち上がってすたすたと玄関へ。そして靴を履きながら、なつきが言った。
「いつか礼はする」
「いいよそんなの。何もしてないから」
「幸成のこと、気に入ったよ」
なつきはそう言い残して、部屋を出ていった。
女の子の友達なんて、初めてできたかもしれない。ちょっと変わった人だけれど。
台風一過。幸成の心は晴れ渡っていた。




