第4章(紗里)必要な時、適切な量を
「赤間せんせ。これは?」問題集の問を指差し、男の子が紗里に質問する。
「りんごの代金をyにしてみたらどうなるかな?」
「あ、そっか」
紗里は中学生に数学を教えていた。開けた教室にはあちらこちらに机があり、2人の生徒に1人の先生。ガラス張りの正面入り口の外では、しとしとと地面を濡らす雨が少し早い梅雨入りを告げていた。
いくら2コマしかないバイトとはいえ、さすがに4連勤は堪えるなあ。明日は土曜。講義もバイトもないからゆっくりしておきたいけれど、ああ、レポートやらなくちゃ。
紗里に質問をした中学1年生の男の子は問題に集中していて、もう1人の中学2年生の男の子もまた連立方程式と睨めっこをしていた。
よし。とりあえずはこのまま解いてもらおう。今、変に声をかけたら集中を切らせることになりかねない。
塾講師としてお金を貰っているからといって、時間内にたくさん教えればいい、というわけじゃない。私が彼らに力を添えるのは、必要な時、適切な量だけ。私の役目は生徒に公式を覚えさせることじゃないのだから。大切なのはプロセスだ。どれだけ自分で問題を解く経験をさせることができるか、それを私は考えなくては。
それにしても、昨日の小人は何だったのだろう。やっぱり疲れているのかな。ここ最近、少し眠りが浅い気がする。枕を変えたのがよくなかったのかもしれない。
紗里は胸の奥がじん、と震えるのを感じた。
それにこれ。一昨日の朝にもこの感覚があった。心が寂しがっているような、でも暖かいような。
何かがおかしい。今までそれとなく過ごしてきた私の中で、何かが変わりつつある。それが何かはわからないけれど。
「赤間先生は、彼氏いる?」
連立方程式に観念したのか、2年生の男の子が紗里にそう質問した。
「関係ないでしょ」紗里は言った。
「生徒とのコミュニケーションも大切だよ」
「またそんなこと言って」
「俺さ、昨日クラスの女の子に告白されたんだよね」
「あら。モテるんだ」
するとりんごの問題を解いていた1年生の男の子が。
「さすが浅川先輩!」
告白された浅川先輩は少し得意げに。
「まあね。でも、付き合うってわかんなくて。だからどうすればいいか、先生にきいてみようかなって」
紗里は斜め上に目線を飛ばし、少し考えてから言った。
「ごめんね。実は私にもわからない。どうなんだろうね?」
「なんで教えてくれないのさ」
「違うの。本当にわからないんだ。そんなことより、問題の続き!」
「はーい」
確かに、恋愛って何だろう。どうして皆、恋愛をするのだろう。誰かを好きになって、そうしたらその人と付き合いたい、と思うのだろうけれど。
わからない。もし仮に、私の初恋の彼と再会できたとしたら、私はどうする。告白をしたりするのだろうか。
いやいや。私が幸成君のことを好きだったのは小学生の頃。幸成君が今、どんな人になっているのかなんてわからないのだ。再会したとしても、また好きになるとは思えない。
そもそも皆、どうしてそんなに好きな人がいるのかな。かっこいい先輩に憧れたり、同級生と付き合ったり、よくわからない大人の男とデートしたり。
私だってそれなりに告白もされたんだけどな。でも、好きじゃない人とどうやって付き合えと言うのだろう。
数学に苦しめられる生徒達と、恋愛がわからない紗里は、そうして時間を共にしているのだった。
「お先に失礼します!」
授業を終えた紗里はそう言って教室を出ると、ビニール傘をさして歩き出した。
雨が降っていた。風はなく、雨粒は真っ直ぐに、しかし柔らかに落ちている。点々とした街灯が暗い夜道を照らしていた。
携帯の電源を入れ、画面を見ると彰からのメッセージが届いている。紗里はメッセージを開くことなく、その画面を消してポケットに携帯を入れた。
紗里はふう、と小さくため息をつく。
彰君か。私のことを気に入ってくれているのだろうけれど、でも私はそれに応えることはできないよ。
彰君が悪いわけじゃない。恋愛、ということになれば、私にとっては誰でも同じ。私自身がそれを必要としていないのだから。
必要な時、適切な量を。きっとそれは、何事もそうだと思う。それなら私が恋愛を必要とする時はいつだろう。そしてまだそのタイミングではないのなら、適切な量も何もない。
もし私がひとりぼっちで、そうしてどこかで寂しがっていたら。そんな時には隣に誰かがいてほしいと思うに違いない。でもそれは家族でもいいし、友達でもいい。それなら恋人は、好きな人は、どんな時に必要になるのだろう。
あれ。私、最近こんなことばかり考えているような気がする。つい1週間前くらいまでは、恋愛なんて私とは関係のないもので、でも別にそれでいいとしか思わなかったのに。もしかすると必要な時とやらが近づいているのかもしれない。
『でも、付き合うってわかんなくて。だからどうすればいいか、先生にきいてみようかなって』
こと恋愛に関して言えば、私は教え子の子達と変わらないレベルだ。いや、むしろあの子達の方が私より恋愛のなんたるかを知っているかもしれないな。ちょっと生意気だけれど。
どうすればいいんだろうね。先生もわからないよ。でも、そうだなあ。
たまには返事、してみようかな。
紗里はポケットから携帯を取り出し、彰からのメッセージを読むのだった。




