第2章(紗里)初恋、そして扉
私の大切なものってなんだろう。私はどうしてここにいるのだろう。私は何のために生きているのだろう。
紗里は哲学史の講義を受けていた。キャパシティ50人程度の小さな教室。そもそも紗里の大学キャンパスには、講堂のような大教室はほとんどない。穏やかすぎる教授の声がマイクに乗って、学生達を睡眠へと誘っていた。
紗里はショートカットの髪をくるくると指でいじりながら、ボールペンでとんとんとん、と机を叩いていた。
ソクラテス。プラトン。アリストテレス。哲学の偉人達は本当に色々なことを考えていたんだろうな。果たして、偉人になっているわけだから。
サークルの皆も、ゼミの皆も、やれアルバイトだ、やれ彼氏とどうだ、やれ飲み会がいついつだ、そんなことばっかり。ううん、違う。きっとそれが大学生の本当にあるべき姿なんだと思う。私はそれらを楽しむことすらできないだけ。
紗里はいつも、何かが欠けているような感覚を持っていた。いつからそれが現れたのか、どうしてそれが心に引っかかっているのか、そもそもそれは何なのか、ひとつとしてわからないまま。
紗里には恋愛経験がなかった。とはいえ初恋のような記憶は確かにあって、しかしそれはあくまで淡い、ただそれだけの記憶であった。そしてそれを除けば、本当に一切の恋愛経験がなかったのだ。
同級生達と比べて、紗里の容姿はいつだって飛び抜けていた。透き通るような肌、すっとした輪郭、明確な小顔、はっきりとした可愛らしい二重、主張しすぎない鼻の高さ。紗里は男子から、数え切れないほど好意を寄せられてきた。何度も告白された。けれども紗里は、その全てをはねのけた。恋愛をしないという堅牢な意思があったわけではない。心に決めた人がいたわけでもない。ただ、彼らのことにも、恋愛のことにも、興味が無かっただけだった。
私も、彼氏の1人でも作ってみたら何か変わるだろうか。男の子と付き合ったことすらないから、私は普通になれないのかもしれない。
でも、今更。いい加減な気持ちで誰かと付き合うことなんてあってはならないと思うし、これまで私を好きになってくれた人達にも失礼だ。
「赤間さんは、その、レズビアンなの?」男女問わず、様々な人にそう質問された。あまりにも頑なに誰とも付き合おうとしないものだから、そして誰かに片思いしているわけでもないのだから、それならば性的少数者であるのだろうと誰しもが思うらしい。要するに私は、やはり普通ではないということだ。
誰かを好きになったことはある。ただ一度だけ。けれどもそれはずっと以前のことであるし、そして今もその気持ちを持ち続けているのかといえば、別にそういうわけでもない。あれはただの初恋。それ以上でもそれ以下でもなかった。
きっと彼は私のことなど覚えていないだろう。正直なところ、私だって彼のことをあまり覚えていない。彼と写真を撮ったことはないし、クラスの集合写真やなんかも持っていない。彼はどんな顔つきだったのか、どんな声色だったのか、どんな性格だったのか。そもそも会話すらまともにしたことがないのだから、覚えている方が不自然だ。
そして何より、私は現在の彼について何も知らない。最後に見た彼は小学5年生で、私も小学5年生だった。19歳なり20歳なりの彼は、当然あの頃とは大きく変わっているだろうから。
それでも私は、彼に惹かれた日のことをとてもよく覚えている。
紗里は小学4年生の秋、転校してとある学校にやってきた。いつものことだった。転校は3回目だったけれど、すぐにクラスメイトと馴染んだ。紗里ほどの美少女はそうはいない。女子からは憧れや好奇の目を向けられ、男子からは好意を寄せられた。
そうして数日が経つと、紗里はそのクラスの異常な部分に気が付いた。そこまで明らかな「それ」を目の当たりにするのは、紗里は初めてだった。
いじめだった。
悪ふざけの域ではないとすぐにわかった。彼の名前は唐木幸成といった。クラスで彼だけは人間性を認められていなかった。どうしてそんな状況に陥ってしまったのか、紗里には知る術がなかったが。
休み時間になる度、先生の目を盗んでは、彼は鉛筆射的ゲームの的になった。ボクシングの試合がテレビ放送されれば、翌日彼はサンドバッグになった。けれども彼に対する陰湿な嫌がらせ、精神攻撃は無かった。人間として扱われていなかったのだから。
彼と話すクラスメイトはいなかった。男子にとって彼はおもちゃにすぎず、女子には彼の姿がまるで見えていないようであった。
紗里には何もできなかった。恐ろしいと思った。先生達はそんな状況を確かに把握しているようだった。それでも何も変わらない。以前に彼らをしかったのか、それとも対策をし続けているのか、あるいは見て見ぬふりをしているのか。
一方紗里は、クラス内で注目の的になっていた。けして目立ちやがりでも、変わった性格でも、ムードメーカーでもなかったのだが、その整い過ぎた容姿だけで。
あの男子も、あの男子も、あの男子も、紗里を好きだという。それは紗里本人の耳にすら入ってくるほどであった。しかしそれは、前の学校でもそうだった。つまりは紗里にとって、いつものことであったのだ。
ある日。紗里は同じクラスのとある女の子に呼び出された。放課後、誰もいない理科室で、彼女は紗里に言った。
「あのね。紗里ちゃん。雄介君に何かしたの?」
紗里はその時気付いてはいなかったのだが、その彼女は雄介君のことが好きだったのだろう。紗里は何もしていなかった。ただ存在しているだけで、多くの女子の恋敵になってしまっていたのだ。
運の悪いことに、彼女はクラスで最も力を持っている女の子であった。別のベクトルで影響力を持つ紗里を除けば、ということではあるが。
「何か、って?」
「わかってるでしょ!?」
「わからないよ」
「お前……。もういい」
彼女はそう言って、理科室を出て行った。紗里は今でも、その時の彼女の表情を覚えている。
紗里は、段々とその影響力を失っていった。紗里がまず違和感に気付いたのは、どうも皆が素っ気なくなったことから。咲ちゃんも沙羅ちゃんも明里ちゃんも話しかけてこなくなった。男子達が紗里を好きだという話も聞かなくなった。
理科室での一件から1ヶ月が経った頃。紗里は透明人間になっていた。誰も紗里に話しかけない。紗里が話しかけても、一言二言しか返してくれない。男子は誰も紗里のことを好きではなくなっていた。おそらくは紗里のことを好きだと言えなくなり、そうしているうちに本当に興味がなくなっていったのだろう。
やがて紗里は5年生になった。クラス替えがあったけれど、同じ学年には2クラスしかなかったから、半分以上は同じメンバー。ほとんど状況は変わらなかった。
クラスに存在しているけれど、存在していない。紗里と幸成だけが、クラスの中でクラスメイトとして認められていなかった。
紗里と幸成はお互いを意識していた。しかし少なくとも紗里からしてみれば、それは憐れみであり、同情であり、共感であった。2人で話すことはなかったし、時々目が合う程度でしかなかった。
ある日。教師が教室を出て15分休みになると、教室の後ろで男子数人による失神ゲーム遊びが始まった。勿論犠牲者は幸成であった。吸え、吐け、吸え、立て、そんな声が聞こえてくる。幸成はぐっと深く胸を押され、しかし上手くいかないようで何度も繰り返されていた。紗里はそんな様子を見て見ぬふりをしていて、ただじっと席に座っていたのだが。
突然。
幸成が甲高い奇声を上げた。言葉ではなかった。いじめっ子達は面食らったようで。そして紗里は、いや、紗里だけではなくクラスにいた皆が振り返ってその様子を見ていた。
幸成の意識はしっかりとしていた。幸成は後方ロッカーの上にあったはさみを掴んで、振り回した。幸成が抵抗のような行動をするのは初めてのことだった。そして幸成はそのはさみをいじめっ子の1人に向かって投げた。運良くそのはさみは誰にも当たらず、教室右側の掲示物が貼られている壁にぶつかり、コン、と音を立てて床に落ちた。
いじめっ子達、その様子を見ていたクラスメイト達、全員が動けなかった。突然の幸成による反撃に、困惑、嫌悪、恐れ、不快、そのような感情がクラス全体に渦巻いているのを紗里は感じ取った。皆にとって、幸成は人間ではなかったのだ。ただのおもちゃが人間に、そのような反撃をすることなどあってはならないのだから。
幸成は肩で息をしている。クラスは静まり返っていた。
すると幸成はずんずんと紗里に向かって歩く。どうしてかはわからない、しかし紗里は立ち上がっていた。
幸成は紗里の手を掴むと、教室を出よう、そう無言で紗里に訴えかける。紗里は頷いた。
紗里と幸成は手を繋いだまま、駆けて教室を飛び出した。幸成の手は暖かかった。優しく、そして強かった。追ってくるものはいなかった。その日はもう教室には戻らなかった。紗里と幸成は小さな公園でただブランコに揺られて、そうしていつしか家に帰っていた。
その翌日から幸成へのいじめはぱったりと止んだ。そして不思議なことに、何故か紗里もまた、クラスメイトとして接してもらえるようになっていった。
その日から数ヶ月後に私が再び転校するまで、私は幸成君に恋していた。きっとあれは恋だったと思う。どうして好きだったのかはよくわからない。私の恋愛経験なんてものがあるとすれば、ただそれだけだ。
哲学史の講義を終え、紗里はアルバイトに向かおうと電車に揺られていた。そうして大和駅で降りて、相鉄線に乗り換える。端の席に座り、カナル型のイヤホンを耳に付けた。アルバイト先は家の近くにある個別指導塾だった。
相鉄線の車内にはそこそこの乗客がいたが、立っている人はいなかった。紗里は携帯で時間を見る。16時12分。まだ帰宅ラッシュの時間帯には早かった。
紗里はイヤホンをしたまま携帯をリュックに入れ、ぼんやりと周りを見渡した。ぐんぐんと入れ替わる窓の外の景色。スーツを着たサラリーマン。可愛らしい制服の女子高生2人組。普段と変わらない光景だった。
しかし。
あれ。何かおかしかったような。
紗里はイヤホンを外し、それもリュックの中に入れた後、もう一度周りを見渡す。その違和感は確かだった。
紗里の正面。小人が座っていた。身長30センチくらいだろうか。頭が大きく、手足は小さい。大きいとはいっても人間のそれよりは遥かに小さいのだが、しかしせいぜい3頭身くらいしかない。スタイルの悪い小人であった。足をぴんと伸ばして座席に座っているが、勿論その足は床に届いていない。性別はわからない。短い黒髪で、ぱっちりとした両目。可愛らしいといえば可愛らしいが、気持ちが悪いといえば気持ちが悪い。
他の乗客は何も気にしていないようだった。彼のことが見えていないのだろうか。それとも私がおかしくなってしまったのだろうか。あれは、明らかに人間ではない。
紗里がその小人をじっと見つめていると、小人はくるりと目玉を動かして、そして紗里を見た。彼が何を考えているのか、紗里にはわからなかった。あるいは何も考えてなどいないのかもしれない。
すると。
『僕が見えるの?』
不思議な声だった。空気を通じた音の振動ではないような。しかしそれは確かに車内に響き渡り、紗里はその重さにびりびりと体が震えた。
車内の他の乗客に変化はない。彼の姿にしろ声にしろ、それを認識しているのは紗里だけのようだった。
紗里は黙っていた。彼とどう会話をしていいのかわからないし、そもそも会話をしていいものなのかどうか、判断がつかなかった。
あまりの不自然な出来事に、紗里は困惑していた。しかし恐ろしくはない。根拠はないけれど彼は害を加えるような存在ではない、そう感じていた。
『声も聞こえているんだね。もしかすると、君は僕達の世界に来たことがあるのかもしれない。迷い込んだら大変だから、気をつけて』
そう小人は言い残すと、ふっ、と消えた。紗里は目を瞑り、そしてもう一度正面を見る。小人が座っていたはずのその場所には、やはり何もいなかった。
ふう、と紗里はため息をついた。背もたれに体重を預けて、天井を見上げた。電車はガタガタと揺れる。背中と脇に汗が吹き出てくるのがわかった。
私、疲れてるのかな。
電車が海老名駅に着くと、紗里はリュックを背負って電車を降りた。




