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夢の中だけで恋をした  作者: サワヤ
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最終章(幸成)グレーのカーディガン

 なつきさんがいなくなってから、1年と少しが過ぎた。もちろん連絡も来なければ、姿も見ない。もしかすると大学も休学か、あるいは退学してしまったのかもしれない。


 幸成はスーツを着たまま、夕暮れの小川沿いの土手を歩いていた。遠くに桜が咲いている。空は茜色と燃えるような赤が混じり合っていた。


 前から思っていたけれど、この小川は土手が必要なほど大きな川には見えない。どうして土手があるんだろう。


 明日も説明会か。確かランドムの制作会社。全く、俺は案の定なつきさんの鎖でがちがちに縛られているんだな。


 まあ、それも悪くない。俺には何もなかったのだから。いつになるかはわからないけれど、いつかなつきさんの存在が俺の中から消え去るまでは甘んじて鎖に巻かれておこう。そうでもなければ、俺はどの企業の説明会にも行かず、部屋に引きこもっていただろうから。


 1年前のあの時、なつきさんは泣いていた。なつきさんにとっては、鎖は本当につらいものだったのだと思う。そしてなつきさんは、今もその鎖に苦しんでいるのかもしれない。


 俺がなつきさんの力になりたい。なつきさんがいなくなってから、何度もそう思った。けれど、それは俺のエゴでしかない。なつきさんは全てを自分で決める。自分だけの権利を持っているのだ。そして何より、そのためになつきさんは俺の前から姿を消した。だからそれを侵犯することなんて、俺にはできやしない。


 なつきさんは帰ってこない。なつきさんはわかっていた。鎖から抜け出すのはそう簡単なことではないと。そして俺は、なつきさんの伝えたいことをすんなりと理解することができた。おそらくはあの握手のおかげだろう。あの雪の日、俺となつきさんは握手をしたからこそ、なつきさんは俺の気持ちに気づいた。そして俺もまた、なつきさんの苦しみや覚悟を受け入れることができた。なつきさんを信じることができた。


 なつきさんは今、どこかで鎖と戦っているかもしれない。あるいは、彰という人と結ばれたかもしれない。鎖から抜け出すことはできたけれど、俺のことなど忘れているのかもしれない。


 どれでもいい。いずれにせよ、なつきさんが帰ってこないということに変わりはないのだから。俺が望むのは、なつきさんができるだけ楽しく過ごせていればいいな、ということだけ。


 自分で決める権利がある。なつきさんが教えてくれたこと。確かになつきさんは俺と同じ側の人間だった。孤独ではないはずなのに孤独だった。けれども、俺とは決定的に違う部分もあった。なつきさんはなつきさんだったのだ。俺は自分がなかった。俺はまず、自分を手に入れることから始めないと。


 そう。だから俺は、鎖に巻かれていてもいい。たとえなつきさんと一緒にいられなくとも、俺はなつきさんのことを想う。それは俺の権利なのだから。


 いつか俺も、なつきさんのように、鎖から抜け出したいと思うことがあるかもしれない。その時は俺も戦おう。なつきさんは前に進んでいる。俺もゆっくりであれ、前に進み始めている。焦ることはない。進んでいることが大切だと思う。



 幸成は土手を下り、小川へと向かった。水の流れる音。草を踏む音。幸成の足下で、小さな虫がぴょん、と跳ねた。


 確かこの辺りだった。なつきさんと話をして、そしてなつきさんはいなくなった。俺はただ、なつきさんの背中を眺めることしかできなくて。


 ふう、と幸成は息をついた。そして夕暮れの空を見上げる。


 これでいい。これでいいんだ。俺はなつきさんに力をもらった。なつきさんは前に進んだ。1年も経って、俺はそれほど変われてはいないけれど、しかし確かに変わりつつある。


 あの時もし、なつきさんが俺の告白を受け入れてくれたとしたら。そう、きっと俺はそのありがたみも大して理解できず、ただなつきさんに甘えていたに違いない。あの時の俺は、今の俺よりもさらにどうしようもなかったのだから。


 なつきさんにとっても、俺のような男につかまることは良い事ではなかったはずだ。きっと俺は、なつきさんの足を引っ張っていただろうから。


 わかっている。わかってはいるけれど。俺はどうしようもなくなつきさんの面影を求めてしまっている。どうして俺はここに来た。鎖に巻かれているからだ。それでもいい、それでもいいのだけれど、しかしみっともないことに変わりはない。


 あの時の俺が、もう少し度量があったなら。そうであればこんなことにはならなかったのかもしれない。俺自身がなつきさんを鎖から解放させてあげられるような、そんな男であったなら。


 そうだ。もうこんな思いをしないように、俺は前に進む。もしいつか、なつきさんに再会できたとき、胸を張れる男になろう。なつきさんはもう、俺に興味なんてないだろうけれど。それでも、なつきさんが俺と手を握ったことを、恥ずかしく思わないように。


 俺は、もう孤独ではないのだから。




「おい」


 それは聞き覚えのある声だった。


 幸成はその声の方向へと顔を上げる。彼女は夕暮れに包まれながら、土手の上に立っていた。


 彼女はグレーのカーディガンを羽織っていた。長めの黒髪はさらさらとしていて、まるで空気や重力を気にしていないかのような軽さをしたたかに備えていた。


「……嘘だ」と幸成は声を漏らす。


「さぞ私のことを考えながらあれこれしたんだろうよ」そう言ってなつきはにやりと笑った。



 幸成は土手を駆け上がった。幸成は息を切らして、なつきの目の前に立つ。なつきはそんな幸成を見て、穏やかに微笑む。



「なつきさん。言いたいことがあるんだ」


「何だ」



「好きだ。付き合ってください」



 なつきはまるで無邪気な子供のような、輝く笑顔を見せた。



「もちろん」






 あの世界での出来事を、俺も紗里も何ひとつ思い出すことはなかった。


 2人は、夢の中だけで恋をした。



(了)

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