第26章(紗里)ただひとつの願い
4月。キャンパスや川沿いに咲く満開の桜も今は夜桜。大学3年次のオリエンテーションの後、塾のアルバイトも終え、紗里は家に帰る途中であった。街灯だけが点々と夜道を照らす、閑静な住宅街をゆっくりと歩いていた。
ああ。もう3年生か。もう就職活動の時期も近い。私はどうするのだろう。将来の夢だなんて大層なものは何もないし、どんな職業に就きたいのか、そもそもどんな業界に行きたいのかすらわからない。
私が好きなこと。私が情熱を燃やせるもの。そんなこと、今までには何もなかった。全てを捧げて打ち込んだことがないから、当然挫折だって経験していない。
加奈は違う。加奈は挫折を経験した。ダンスに打ち込んで、夢を持ち、しかしそれでもトップレベルには届かなかった。そういう経験という財産を持っている。ただそれだけで、私とはレベルが違うのだろう。
私の軸になっているもの。それはきっと、いや間違いなく、幸成君の存在だと思う。小学生の時、幸成君が私を連れて行ってくれた。透明人間だった私に色のつけ方を教えてくれた。だから私は幸成君を好きになった。私は幸成君に憧れた。
今、幸成君はどんな人になっているのだろう。もしかしたらもう社会人になっているかもしれないし、あるいは私と同じように大学生かもしれない。スポーツマンかもしれないし、何かの研究をしているかもしれない。あるいは家に引きこもるだけの人になってしまったかもしれない。
いずれにせよ、私の中の幸成君は色褪せない。顔はあまり覚えていないけれど、それでも幸成君という存在が私を育ててくれた。私の中の幸成君という価値は、少なくとも私にとっては絶対だ。
きっと幸成君のおかげで私は彰君と付き合ったのだし、そして今も良い関係が続いている。彰君は建築士になるという夢があるし、加奈は食品メーカーに行きたいらしい。私は大好きな2人に、相応しい友達でいたい。だから私も頑張らないと。
紗里はふと、夜空を見上げた。星が所々に瞬いていて、雲が流れている。静かに世界を包み込むその夜空に、紗里は吸い込まれていくような気分になった。
こんな夜空をいつかどこかで見たような気がする。きっとそれは夏だった。そうだ、夜の公園だ。幸成君と最後に会った、あの夏の。
私はたったひとりの小さな小さな人間で、私がどんな生き方をしようと、世界には何も関係ない。そんな当たり前のことに、なかなか人は気づけない。誰しも自分が主人公で、自分の見える世界の中だけで生きている。
でも、それの何が悪い。私は彰君が大好きで、将来に悩んでいて、過去の幸成君に感謝しながら今を生きている。私は私だし、私以外に私はいない。
さあ、早く帰ってすぐに寝よう。明日も1限があるし、とりあえずは自分なりに考えて生きていくしかないのだから。
その時、紗里に声が届いた。
『今回が最後になるよ』
紗里は驚いて周りを見回す。近くには誰もいない。50mほど先にサラリーマンが歩いているだけだ。
小人の声。やはり小人の姿は見えない。前にも意味のわからないことを言っていた。座標がどうだとか。
もはや小人の存在を、私は普通に受け入れている。最初は幻覚や幻聴の類だと思っていた。しかしこう何度も経験すると、あの謎の小人は実在すると信じざるを得ない。仮に私が何度も幻聴を聴いているのだとしても、小人の声が聴こえてしまうことは事実で、私にとっては現実と変わりないのだから。
私は少しずつ変わっている。彰君と出会って、彰君と付き合って、前向きになったというか、人間らしくなっている。そう、彼には不思議な力がある。彰君は暖かさを持っていて、周りの人にそれを伝播させていく。彰君が持って生まれた性格によるものなのか、のどかな琵琶湖の影響なのかはわからないけれど。
私はずっと、何かが欠けている感覚を持ち続けていた。何事も冷めていて、そしてそれを悪いことだと焦りもしなかった。でも今は、私にとっての大切な何かを欲しいと思っている。まだそれが何かはわからないけれど、少なくとも前には進んでいる。それはきっと、彰君のおかげだと思う。
でも、既に私が持っているものがある。それは彰君と出会えたこと、加奈と出会えたこと、幸成君と出会えたこと。家族に恵まれたことは勿論、私は出会う人に恵まれて育った。
だからきっと大丈夫。私は私を生きていくのだ。
紗里はやがて家に着くと、メイクを落とし、シャワーを浴びた。使ったバスタオルを洗濯機の中へと放り込む。スウェットを着て髪を乾かし、2階の自分の部屋へと上がった。電気は点けずにそのままベッドへと倒れ込む。スマートフォンを充電して、アラームをセット。そのまま目を閉じた。
意識が消えるまでそう時間はかからなかった。ただぼんやりと、静かに、眠りの中へと引きずりこまれていった。
そこは池のほとりだった。池の上で、雲が空を覆っている。それ故に木漏れ日は差していなかった。
幸成のこと、夢の中での出来事をすっと思い出す。しかし頭痛はしなかった。紗里は頭を傾げ、その場に腰を下ろした。
今まで頭痛がしなかったことなんてなかったんだけどな。随分スムーズに記憶が戻った。それに雲があるのも初めてだ。今までこの世界で曇りだったことなんてないのに。
そして紗里は思い出した。小人の言葉を。
『今回が最後になるよ』
紗里の中に感情の渦が生まれ、激しく暴れた。寂しさ、興奮、緊張、悲しみ、嬉しさ。今まで毎晩、長い時間をひとりで待ち続けたこと。幸成と会えた時の暖かさ。少しずつ暗くなっていく世界を眺めていた不安。記憶と感情が流れ続けた。
会える。私はこの後、幸成君に会える。そして、この世界で幸成君と会えるのはこれが最後。私はもう、この世界に来ることはなくなる。ひとりで膨大な寂しさを抱えることはもうないんだ。
それはつまり、今回が最後のチャンスということ。この夢から覚めた時、私が幸成君のことを思い出せなければあの約束は消えてなくなる。私は必ず幸成君のことを思い出し、現実で幸成君の彼女になる。その約束を実現する最後のチャンスなんだ。
私は結局、これまで幸成君を思い出すことはできなかった。あの小人は言っていた。この夢の世界の記憶を思い出すことはできない。そういう理なのだと。私は長い間この夢の世界にいたけれど、この世界についての情報は何も持っていない。あの小人の言うことを信じるしかない。
でも、それでも。
私は私を信じる。夢の世界だろうと、現実の世界だろうと、私は私だ。別人ではない。記憶を思い出せたことはないけれど、起きている時に胸がじん、と震えることはあった。それはおそらく夢の中の私が訴えかけたのだ。
私の記憶は必ず私の中にある。強く、強く願えばきっと、目が覚めた時にも私は幸成君のことを。
その時、足音が聞こえた。その誰かは森の草を踏みしめ、一歩ずつ近づいている。紗里は立ち上がり、音がする方向へと振り向いた。
「……紗里」
そこにいたのは幸成だった。紗里は意識するまでもなく、幸成に向かって走っていた。そのまま幸成に抱きついて、紗里は幸成の胸に顔を埋めた。
「やっと来てくれた」と紗里は言った。抱きしめる腕の力を、ぐっと強める。
「ごめんね」と幸成。
「誰も悪くないの」
「そうだった」
「ねえ、幸成君」
「ん?」
「これで最後なんだって」
「俺と紗里が会えるのが、最後?」
「この夢から覚めたら、私も幸成君も、もう二度とこの世界に来ることはない。そう小人が言ってた」
「……小人」
「そう、小人。私は時々小人に会うんだ。この世界の住人みたい」
「前にも言ってたね」
紗里は幸成から離れて、幸成の顔を真っ直ぐに見た。
「小学生の時、幸成君は私を変えてくれた。そして今の私は、幸成君を想っている。私にとって、何よりも大切な人」
「ありがとう。だから、俺と紗里は……」
「うん。約束した。必ず思い出して恋人になろうって。でも小人は言うんだ。どうしてもこの世界の記憶は持って帰れないって。こっちとあっちは交わらない。それが理なんだって」
「……俺は、忘れないよ。必ず思い出すから」
「私のセリフ!」
幸成は笑った。そうして紗里が日数を刻んでいた岩に向かって歩き、そこに座った。
「振られたんだ」と幸成が口を開く。
「誰に?」
「好きだった女の子に」
「それは残念。私以外の人のこと好きになるから、ばちがあたったんだよ」
「紗里も彼氏がいるんじゃなかったっけ?」と幸成は笑う。
「彰君のことは仕方ないでしょ! 誰も悪くないの!」
「……ん?」幸成は眉をひそめた。
「えっ、何? ごめんなさい、怒ってないよ」
「違うんだ。名前が同じで……。偶然だと思うのだけれど」
「名前?」
「いや、なんでもない。気にしないで」
「変なの」
紗里はトンボが1匹もいないことにふと気付いた。少なくとも数匹は常に池の周りにいるのが普通なのだが。
曇り空といい、トンボの皆がいないことといい、やっぱりこの世界は終わりに向かって変わっているんだ。あかくん達にも最後の挨拶、したかったな。
「そうだ。私ね、本名でSNSやってるから、目が覚めた時に思い出したらそこに連絡してね」と紗里は言った。
「そうするよ。紗里は?」
「まあ、思い出せさえすればどうにでもなると思う。多摩の大学に通ってるんだよね?」
「うん」
「幸成君の小学校の友達でまだ連絡取れる人何人かいるから大丈夫」
「問題は思い出せるかどうか、だね」
「私は私を信じてる。大丈夫。きっと」
その時、紗里は何かを感じた。
この嫌な感覚。終わりが来ているんだ。もう時間がない。あと少しで、私と幸成君は目が覚める。どうしよう。
私は今、何をしなくてはいけないのだろう。いや違う、やっと幸成君に会えたんだ。私は今、何をしたいのか。
なんだ。簡単なことだった。私は。
紗里は岩に座っている幸成に近づく。
「紗里?」
「私はずっと幸成君を待っていた。でもね、もう待つことなんてしなくていい。幸成君とは、きっとまた会えるから」
紗里は幸成に顔を近づけ、そうしてキスをした。短く、長いキスだった。
その瞬間、空の雲がさっ、と消えた。世界が明るく照らされ、池に木漏れ日が降り注ぐ。どこからかトンボがやってきて、池の周りを悠々と飛んだ。水面はキラキラと輝き、木々の葉っぱは太陽の光に包まれた。
キスを終えると、紗里は俯いて顔をそらす。幸成は驚いたように呆然としていた。
「……あ」
幸成は声を漏らす。紗里が幸成を見ると、幸成の体が少しずつ薄く、半透明になっていた。
「終わりなんだね」と紗里は言った。
「俺が先に戻るみたいだ」
「幸成君、ありがとう。幸成君のおかげで私は……」
そこまで言うと、紗里は言葉に詰まってしまった。涙が言葉を遮ってしまう。
「また、後で」
幸成はそう言うと、紗里の頭を優しく撫でた。紗里は目をつむり、幸成の手の感覚をじっと感じる。次第にその感覚は弱く、小さくなっていき、やがて。
「……幸成君」
紗里が目を開けると、そこにもう幸成の姿はなかった。再び涙が一粒、紗里の頬を伝っていく。
幸成君は現実の世界に戻った。私ももうすぐだ。もしかしたらもう二度と、幸成君には会えないかもしれない。幸成君の暖かさを、私はもう二度と。
ううん、だめ。私は必ず思い出す。きっと大丈夫。幸成君は、また後で、って言ってくれたのだから。
紗里は自分の右手が薄くなっていることに気づいた。指先はもう、ほとんど消えかかっている。
やめて。まだ、まだ待ってよ。私の幸成君への想いを消さないで。まだここにいる間は、私は幸成君のことを想い続けていられる。だからもう少しだけ、もう少しだけ。
もう少しだけ、幸成君のことを想わせて。
紗里の右手はもう肘まで消えていた。左手も、足も、次第に薄くなっていく。
忘れたくない。忘れたくない。私の、私の大切な気持ち。この寒い世界で、幸成君を想い続けていたこと。私のこの、幸成君への恋を。
絶対、絶対に思い出す。私は幸成君と恋人になる。幸成君、待っていて。私は理になんか負けないから。
私は私。記憶が消えてしまうなんて、その方がおかしな話、不条理な話だ。大丈夫。大丈夫だから。
私はこの後自分の部屋で目が覚めて、全てを忘れずに覚えている。そうだ。それから幸成君に連絡をとって、幸成君に会いに行く。連絡がとれなかったら、探しに行くんだ。彰君には申し訳ないけれど、彰君とはちゃんとお別れもしなくちゃ。
私の体が消える。消えていく。この世界から元の世界へ。まだ大丈夫。私は忘れていない。幸成君とのキスを心に置いた。幸成君の暖かさを今でも感じられる。
消えないで。忘れないで。私の想いなのに、どうして私から取り上げる権利があるの。たとえ幸成君と会えなくてもいい。恋人になれなくてもいい。私は幸成君のことを想えるだけでいいのに。
紗里の体はほとんど透明になっていた。池に差し込む木漏れ日が、紗里の体を通り抜ける。
忘れちゃだめ。私の大切な想い。強く願え、私。忘れない。忘れないんだから。
さよなら、幸成君。
紗里は目が覚めた。
窓の外から小鳥の鳴き声が聞こえている。窓から差し込む朝の光で、紗里の部屋は明るかった。
紗里はゆっくりと起き上がり、そのままベッドに座っていた。
あれ、私。
私、何か。
忘れたんだ。
紗里の目から涙が溢れ落ちた。ベッドのシーツにぽたりと滲む。
忘れちゃった、忘れちゃった。
忘れちゃいけない何かがあったはずなのに。なんだ。なんだかわからない。
私、とっても大切な夢を見ていて、それで私はきっと何かを忘れたくないと願った。でも。
忘れちゃいけないことだったのに。絶対に忘れちゃいけない何かがあったのに。何だ。何の夢を見ていたんだろう。
「何、何なのこれ……。悲しい、悲しい、どうして……」
そうしてしばらく、紗里の涙が朝日に照らされ続けるのだった。




