第25章(幸成)一歩
幸成は目を覚ました。普段と変わらぬオフホワイトの天井。ゆっくりとベッドから体を起こす。窓の外は黒かった。目覚まし時計を見ると、あと数分で20時になろうかという時間であった。
ああ。もう夜か。昼過ぎまでは起きていたはずだから、6時間くらいは寝たのかな。春休みに入ってまだ2週間だというのに、まさかここまで昼夜逆転するとは。
昨日はバイト終わりから夜を徹していたから、寝る前はかなり眠かった。にもかかわらず、たった6時間で目が覚めた。どうしてだろう。10時間くらい眠り込んでいてもおかしくない眠気だったのに。
幸成は立ち上がって、部屋干ししていた服をハンガーから外し、雑に畳み始める。そして3枚目のTシャツに取り掛かろうとした時、インターホンの音が部屋に鳴り響いた。
誰だろう。まだ20時とはいえ、もう夜だ。宅配は何も頼んでいないし、インターネットで買物もしていないはず。受信料の集金か何かだろうか。
幸成は玄関へと歩いた。一歩進む度に、幸成の中に表現し難い感情が生まれていく。
この気持ちは何だろう。不安なような、暖かくなるような、寂しいような。でも、確信がある。今、玄関の向こうにいる人は俺の知っている人だ。集金人でも宅配ドライバーでもない。誰かはわからない。それでもドアスコープを覗く必要がないことは確かだ。
幸成は玄関のドアノブに手をかける。しかしドアを開けることはなく、そのままじっと止まっていた。
俺はこのドアを開けた時、何かが変わる。そんな予感がする。開けてはいけない。しかし、開けなくてはならない。これから起きることは、きっと俺にとってとても大切なことで、とても重要なことだ。どうしてそう思うのかわからない。しかし、そういった直感が俺の中で暴れまわっているのだ。
その瞬間、幸成の脳裏に1人の女の子の姿がよぎった。
彼女は夜の公園にいた。星が瞬く夜空に向かってぐっと伸びた滑り台の頂上。まだ幼い彼女はそこで座っている。
その一瞬の映像から、幸成は突然に現実へと戻る。目の前には見慣れた玄関。蒸し暑くて、しかし夜風の流れるあの公園ではない。
どうして今、あの記憶が出てくるのだろう。あれはただの初恋。彼女は俺のことなんて覚えていないだろうし、俺だって彼女のことをさして覚えていない。あの夜の公園で最後に彼女を見てから、その後一度だって彼女を見かけたことはないのだから。
彼女の名前は、そうだ。
紗里。赤間紗里だった。
幸成は目を瞑り、そして再び目を開けた。それからドアノブを握る手に力を入れ、そのままゆっくりとドアを開けた。
そこにはなつきが立っていた。赤いダッフルコートを着ている。なつきは幸成を見ると、ふっ、と微笑んだ。
「……よう」となつきは言った。
「なつきさん」
「上着、とってこい。散歩でもしよう」
「うん」
幸成は玄関を開けたまま部屋へと戻り、グレーのコートを手に取ると急いで玄関へ。なつきに買ってもらったブーツを履いて、外へ出る。なつきは既に外階段を下りていて、じっと立ち止まって幸成を待っていた。
幸成も階段を下りると、なつきは何も言わずに歩き出す。幸成は彼女の横顔を見て、そうしてやはり何も言わずに彼女の隣を歩いた。
そのまま数分歩き、2人はやがて近くの小川沿いの土手へとやってきた。なつきは3m程の土手を下り、小川へと近づく。かと思いきや、土手の下ですとん、と座った。幸成もまたなつきの隣に腰を下ろす。幸成となつきの目の前には、夜の暗闇に包まれながら静かに流れる小川だけがあった。
「私と幸成は、ただの友達なんかじゃない」となつきは呟いた。
「それはどういう……」
「幸成もわかっているはずだろ。恋人ではない。でも、友達でもないんだ」
「うん。俺にとって、なつきさんは特別な人だ」
「私にとってもそうだよ。だから私と幸成は手を握ったんだ」
言わなくてはいけない、と幸成は思った。
俺はなつきさんのことが好きだ。そしてなつきさんはもう、そんな俺の気持ちに気付いている。この前のなつきさんの言葉、そして今の言葉。でも、伝わっているからといって言わなくてもいい、ということにはならない。俺はなつきさんに、言葉で形にして気持ちをぶつけなくてはいけない。
そう。それが礼儀だと思う。俺がなつきさんに告白したとして、なつきさんがそれをどう扱うかはわからない。門前払いで振られるかもしれないし、あるいは受け入れてくれるかもしれない。しかしそれは、なつきさんの権利だ。俺がどうこうできることではない。
そうだ。俺がすべきことは、ただ伝えること。
「なつきさん」幸成は小川を眺めたままそう言った。
「ん?」
「俺は、なつきさんのことが……」
「言わなくていい」となつきは幸成の言葉を遮る。
幸成は驚いてなつきを見る。なつきはそんな幸成を見て、再び口を開いた。
「ごめん。せっかく幸成が言おうとしてくれたのに。でもな、だめなんだ」
「どういうこと?」
「前に言ったことがあると思う。私は今でも、好きな人がいるんだ。報われる可能性なんてない。というより、片思いだなんて呼べるほどのものですらない。私はただ、とらわれているだけ」
「とらわれている」
「そう。だから私は幸成を受け入れられない。でも、私にとっても幸成は特別なんだ。幸成と一緒に生きたい。それが正直な気持ち。でも」
「とらわれているから駄目だと」
「うん。だからな、私は私の権利を確認しに行く。だから戻るんだ。私が育った場所に。もし私が自由になれたら、いつか幸成のところに戻ってくる」
「それはつまり……」
「その時はさっきの続きを言ってくれ。もしその時もまだ幸成が同じ気持ちでいてくれたのなら、だけどな」
「待ってるよ。なつきさんのこと」
「ありがとう。でも待たなくていい。おそらく私は戻ってこられない。これはそう簡単な鎖じゃないんだ。私の中でがんじがらめになって、どう抜ければいいのか見当もつかない」
小川を眺めていたなつきはゆっくりと俯く。そして体育座りをした膝に顔を埋めて、続けた。
「……私は、私は! いつまで経っても彰の幻想から卒業できない。私は少しも成長なんてしてない! 何もしない、何もできなかった癖に、いつまでも、いつまでも!」そう言うなつきの声は震えていた。
「その人に、会いに行くの?」
「……いや、違うんだ。私はもはや、現実の人間である彰のことが好きなんじゃない。私の中に育った、幻想の彰を追いかけ続けているだけなんだ。全ては私が作り出した鎖。だから私は、私の意思で、幸成のところへ行きたい。私が決める。私の権利を取り戻しに行く。でも」
「それはとても難しいことなんだね」
なつきはようやく顔を上げて、そして幸成を真っ直ぐに見た。
「難しい。一生かかっても、鎖は絡みついたままかもしれない。だから、きっと幸成と会うのは今日が最後になる。奇跡でも起きない限り」
そうか。なつきさんはお別れを言いに来たんだ。自由になって、それから俺と恋人になりたいけれど、でも実際にはそれは難しい。きっと自由にはなれない。それでもやるだけやってみよう。そうなつきさんは覚悟したんだ。そしてその覚悟をあるがままに、俺に伝えてくれた。
なつきさんの言い方から察するに、なつきさんが俺のところへと戻ってくる可能性は限りなく低い。実質上のお別れだ。私のことは忘れてくれ、そういう意味なのだろう。
俺はなつきさんのことを忘れられるだろうか。いや、できはしない。今度は俺に鎖が生まれる。でも、なつきさんは自分と真摯に向き合っている。そして、俺にそれを止める権利はないのだ。
幸成は立ち上がって、言った。
「話してくれてありがとう。体に気をつけて」
なつきは何も言わず、座ったまま小川をぼんやりと眺め続けていた。数十秒が過ぎた頃、なつきはゆっくりと立ち上がる。それから幸成を見つめて。
「さよなら。幸成。またいつか」
なつきはそう言って顔をそらし、幸成に背を向けて歩き出す。その瞬間、すっ、と夜風が通り抜けた。なつきの涙がその風に乗って、小川へと運ばれていく。
幸成はただただ立ちつくして、小さくなっていくなつきの背中を見続けるのだった。




