第20章(紗里)彼女の資格
「ねえ、ちょっといいかな」と紗里は言った。
紗里は彰の部屋にいた。時間は既に22時を過ぎている。紗里は水色のクッションの上に座っていて、彰はベッドに座っていた。紗里と彰の間には小さな丸テーブルがあり、その上にはワインのボトルとグラスが2つ、そして角チーズがあった。
「どうかした?」と言って、彰はチーズを口に入れる。
「私達は付き合ってる」
「うん、そうだね」
「手をつないだこともある」
「あるね」
「でも、それしかない」
「不満?」
「いや、私は少しも不満じゃない。それでいいと思ってる。本当に」
「じゃあ、いいんじゃないかな?」
「彰君はそれでいいの? つまりその、男の子としては、いろいろしたいのかもしれないと思って」
「ああ、そういうことか。そうだな。いつかできたらいいなとは思う。でも急ぐようなことでもないし、それにそういうことにはそれなりに責任が伴う。紗里がそれをしようと思った時、その時でいい」
「そういうもの?」
「人によるんじゃないかな。紗里のことはもちろんすごく好きだ。だから、それをしたいとも思う。でも俺にはそれなりに経験があるし、我慢できないっていうことはない。もし俺の彼女が積極的にそれをしたいのであれば、もちろんそれを受け入れる。でも紗里のようにさしてそれを望んでいないのであれば、別にそれは必要ない」
「へえ。なんだ、せっかく心配してあげたのに」
「ありがとう。気持ちは嬉しいよ。俺はもしかしたら他の人よりも、少しばかり性欲が少ないのかもしれない」
「いいんだか悪いんだか」
「俺としてはそんな感じ」
「安心した。それなら彰君の言葉に甘えさせてもらおうと思う。付き合い続けるのなら、いつかは私も勇気を出すよ。きっとその行為には、意味があると思うから。でも、しばらくはまだ待っていてほしい」紗里はそう言って、ワインを飲んだ。
彰は紗里に向かって微笑んで、言った。
「そうしようか。ところでさ、いつまで君付けなの?別に構わないけれど」
紗里は数秒黙っていたが、やがて口を開いた。
「……彰」
「はい。彰です」
「ああ、やっぱり何か違う。違和感がある。今更変えられないし、これからも彰君って呼ぶ」
「まあ好きに呼んでくれればいい」そう言って彰は携帯を掴み、そしてベッドに寝転んだ。
紗里は横になった彰を見やる。彰は仰向けになって、携帯の画面を見ていた。
きっとおそらく、彰君は本心を言ってくれたのだと思う。加奈と同じように、彰君もまた、人を気づかって嘘をつくようなタイプではない。彰君はもちろん気づかいはできる人だけれど、本心を隠してまでするべきじゃないと考えているだろうから。
彰君は私に何も求めない。私のことばかりを考えてくれる。どうしてそんなに優しいのだろう。私は彰君に何かを与えることができているのだろうか。私は付き合ったのだ。彰君の彼女になったのだ。彼女の役目を果たさなくては、彰君の愛を受ける資格がない。
彼女の役目とは何だろう。彰君は何か望みがあれば言ってくれるはずだ。でも言ってこないということは、おそらく彰君自身にも彰君の望みを理解できていないのだろう。
彰君は本当に何も望んでいない、という可能性もある。ただ私が彼女であるという事実と、私と遊んだり、私といろいろな話をしたりすることだけでいい、と。あるいはそうかもしれない。でも、それはいつか終わりがくる。いくらなんでも、私が私として存在しているだけで満足だなんて、そんな彼氏などいるはずがない。いていいはずがない。
それならば、性的な満足をさせてあげるのが彼女の役目なのだろうか。いや、それも浅はかだ。実際、それを望む男の子はたくさんいるのだろう。しかし彰君はそこに重点を置いていない。何より、私自身がそういったことに対して抵抗がある。そういうことはきっと、どちらかが我慢してまでするようなことではないはずだ。
つまり私の役目は、彰君本人でさえも自覚していない彰君の望みを探し出し、そして私がそれをフォローする、ということになる。
なんと大変なのだろうか。世の中の女子達よ、栄光あれ。
「そんな難しい顔して、どうしたの?」と彰が言った。
紗里はいつからか彰に見られていたことにようやく気がついた。
「いや、世の中の女子達は大変なんだろうな、って思ってたの」
「どうだろうね」
「一応きいてみるけれど、彰君にとって、彼女って何?」
「彼女とは何か……。そうだな、難しい。安心、かな」
「安心?」
「そう。俺が好きな人、つまり今は紗里のことだけれど、その人が俺のことを好きでいてくれているっている証だから」
「……そっか。そうか。なるほどね。なるほどだ」
ああ、私は恵まれていたんだ。彰君はずっと私のことを好きでいてくれて、でもそれは一方通行で。だから私が彼女になったということは、それが一方通行ではなくなったということ。彰君の立場にしてみれば、やっぱりそれは価値のあることなんだ。私は最初から彰君の気持ちを貰っていたから、その本当の意味は理解できていないのかもしれない。
でも、そう。それはあくまで一時的なもの。彰君だってやがて、それだけでは満足できなくなる。彼女として、私が彰君にとっての価値になれるように努力しなくてはいけない。それは間違いないはずだ。
「また難しい顔してるね」と彰。
「あ、ごめんなさい」
「いやいや。まあ、関係はゆっくり作っていくものだと思うよ。紗里が何を考えているのかはわからないけれど」
「彰君、エスパー?」
「はは、そうかもしれない。お父さんは手品師をやっていたことがあるらしいし」
「遺伝だ……。でもすごいね、お父さん。私マジック好きなんだ」
「今はお父さんにとって、手品は趣味らしい。もうそれを仕事にしているわけじゃないからね。いつか俺のお父さんに会うことがあれば、きっと何か見せてくれると思うよ」
「琵琶湖と一緒に」
「そう。紗里もきっと気に入る」
彰君は、私にとって初めての彼氏。だからどうしても考えてしまう。もしかしたら私は、彰君と結婚することだってあるかもしれない。もちろん現実的に考えているわけではないけれど、それでも現状、結婚相手として一番可能性が高い人なのだから。
でも、彰君と結婚した人はきっと幸せになれるような気がする。たとえそれが私ではなかったとしても。
「彰君は、いいお父さんになれるよ」と紗里。
「ん? 俺のお父さんじゃなくて、俺がお父さんになったらの話?」
「そう」
「ああ。子供と一緒に遊ぶのは楽しそうだ。でも、教育って考えたらどうだろう。子供を上手く導いてくれるお母さんが必要だな」
「そうやって皆、力を合わせるんだよ。きっと。だから夫婦なんだ」
「え、紗里、何かを悟ったの?」
「ふふっ、私もエスパーかもしれないね」
「エスパーだらけだ」
紗里はふと携帯の画面を見る。そして立ち上がって言った。
「もうだいぶ遅いね。私は帰るよ。30分の電車に乗りたいから」
「もう遅いし、泊まってもいいんだよ」
「彰君が良くても、私はその権利がないと思ってるから。泊まるなら、そういうことをする覚悟を持つべきなの」
「別に気にしなくていいのに」
「まあ、私の意地みたいなものだから。とにかく失礼するよ」
「それじゃ、駅まで送ろう」そう言って彰はベッドから起き上がる。
「いいよ、大丈夫」
「いや、歩きたいからさ。散歩ついで」
「……わかった。ありがとう」
紗里は厚手のカーディガンを羽織り、そして白のバッグを持った。彰は何も持たずに、そのまま玄関へと歩く。
紗里と彰はそうして部屋を出るのであった。




