第1章(幸成)あの時、夜の公園で
夢は人間に何を伝えたいのだろう。朝起きると、どこか寂寥感に包まれていたり、あるいは心を激しく揺さぶられていたような気分になる。どんな夢を見ていたのかすら覚えてはいないのだけれど、それでも心に何かが残っている。俺は、そういう朝が少しだけ嫌いだった。
幸成は目を覚ました。普段と変わらぬオフホワイトの天井。所々に原因不明の小さなシミがある。どこからか小鳥の声が届いていて、窓からは陽の光が差し込んでいた。
仰向けであった体をぐっと横に傾け、すると目の前には目覚まし時計。8時45分だった。
あれ。そうだ。火曜日だ。1限だ。まずい。会計学は講義の最初に出席を取る。10分後には部屋を出ていないと間に合わない。
幸成は起き上がり、掛け布団を投げ捨てる。机の上にある鏡を見やると、いつも通り髪の毛が爆発していた。スウェットを脱ぎ散らかし、ボクサーパンツ1枚の姿でシャワーへと向かう。パンツが濡れないように頭からシャワーを被り、濡れて大人しくなった癖毛の黒髪をかきあげ、タオルで水分を吸い取った。
部屋に戻り、ドライヤーでそのミディアムショートの髪の毛を乾かせながら、幸成は再び鏡を見る。
なんとも覇気のない顔つきだ。まあ仕方ない。それが俺なんだから。彼女でも出来たら変わるのかもしれないけれど。友達と呼べるような人もいないのに彼女なんて出来るわけがない。
幸成はハンガーにかけられていた茶色のシャツとジーンズを着て、床に放り投げられているくたびれたトートバッグを掴み、赤いスニーカーを履いて玄関を出た。
日差しがそのアパートを暖かく照らす。幸成は外の階段を駆け下り、自転車に跨って勢いよくこぎ出した。
今日は、きっと何かの夢を見ていたんだろうな。夢の内容は少しも思い出せないけれど、そんな気がする。どことなく不安で、何かを失ってしまったような感覚。いや、不安なのは遅刻しそうだからか。
あれ。俺、鍵閉めたっけ。まあいいか。泥棒が入っても、特に取られて困るものなんてないのだし。ああ、パソコンは困る。もし泥棒さんが女の人だったら、頼むから履歴だけは見ないでほしいな。
幸成は大学に着くと、自転車置き場に自転車を停め、それから少し早歩きで6号館へと向かった。自転車置き場から6号館までは少し距離があり、それ故に6号館で行われる1限の講義は、絶対に遅刻をしたくない幸成にとって危険なものであった。
実際には、一度遅刻して出席を逃したからといってどうということはない。毎回遅刻するわけでもないし、テストを受ければ単位は取れるだろうから。でもそうじゃない。会計学の中教室は出入り口が教室の前方、教壇のすぐ横にある。遅刻して入ったりすれば、まさに注目の的だ。いや、きっとそんなこと誰も気にしていないのだろうけれど、例え一瞬でも多くの視線を集めるあの状況は辛い。ああ、せめて会計学が大教室だったらな。
幸成は小学校の朝のホームルームで、日直が行う3分間スピーチのことをふと思い出した。
皆が幸成を見ている。皆が幸成の言うことを聞いている。いや、正確には幸成のスピーチなど誰も聞いてなどいなかったのだが(他のクラスメイトのスピーチならばともかく)、しかし教師の手前その場は皆、その振りをしていて。
ああ、思い出しただけでお腹が痛くなる。小学生の俺にとっては、3分間スピーチなんかよりも遥かに深刻な問題がたくさんあったのだけれど、しかし人前に立つあの恐怖の方が印象に残り続けているのはどうしてだろう。
幸成は会計学の中教室に着いた。まだ学生の姿はまばらだった。適当に後ろの席に座る。時計を見ると、9時15分。幸成は暴れる心臓を落ち着けようと、ただじっと座っていた。
あと5分で講義が始まるというのに、他の人は随分と悠長だ。あの視線が集まる恐怖を恐れていないのだろうか。いや、恐れてはいないんだろうな。出席にさえ間に合えばいい、それが普通なのかもしれない。
すると教授が教室に入ってくる。9時20分。講義が始まった。
幸成は気の向いた時にノートを取り、しかしさして教授の話は聞いていなかった。遅刻は恐ろしい。だが、勉学に熱心なわけではなかった。友達がいないから、単位を楽に取得するための情報は持っていない。経営学にも会計学にも語学にも興味はない。それでも幸成の大学生活に問題はなかった。テストやレポートの類で高評価を得るのは、昔から得意だったのだ。
教授の話を聞き流しながら、幸成はふと右斜め前に座る女の子の後ろ姿に目をやった。知らない女の子であった。というより、知り合いの女の子などほとんどいなかったのだが。
彼女はグレーのカーディガンを羽織っていた。長めの黒髪で、その長さは肩を過ぎ、背中にふわりと垂れている。色素が薄いのか、あるいは髪の毛が細いのかはわからない。その髪はさらさらとしていて、まるで空気や重力を気にしていないかのような軽さをしたたかに備えていた。
幸成はあの夜の公園を思い出す。蒸し暑く、しかし透き通る風が気持ちの良い夜。
幸成は小学5年生だった。
夜空には風に乗る雲がすうと浮かんでいて、ぽつりぽつりと星が瞬いている。近くの神社からかすかに祭囃子が聞こえていた。
幸成が公園の前を通りかかると、そこには滑り台の頂上で座っている彼女がいた。
赤間紗里。それが彼女の名前だった。
その小さな公園には他に誰もいなかった。鉄棒と、ブランコと、滑り台。少しの公園灯。そして紗里。それだけだった。
彼女は髪をさらりと風に任せていて、そうして夜空を見上げていて。まるで星や雲と会話しているようにすら見えた。
幸成は公園の外から彼女の姿を見ていた。だからいくら小さな公園と言えども幸成から見えるはずはないのだが、しかし紗里は涙を流しているようだった。どうしてか幸成にはそれがわかっていて。
紗里はやがて、立ちつくしている幸成に気がついた。立ち上がり、コンコンと音を立てながら滑り台の階段を降りる。そうしてゆっくりと歩き、幸成に近づいた。
幸成もまた、数歩進んで公園の中へと入る。幸成と紗里は向き合った。紗里は俯いていて、じっと押し黙っている。幸成はただ、紗里の言葉を待っていた。どうしてかはわからない。しかし、紗里は何か言おうとしている、幸成はそう感じていた。
数分が過ぎただろうか。ふっ、と紗里が顔を上げた。涙はなかった。紗里はかすかに微笑むと。
「またね」
紗里はそう言って、幸成の横を通り過ぎ、そして公園を出ていった。幸成はただそこに立ちつくしていて、そうして祭囃子に耳を傾けていた。
夏休みが明け、最初の登校日。クラスに彼女はいなかった。転校だった。
あの時以来、彼女の姿は一度も見ていない。話にも聞かない。連絡先もわからない。どこで何をしているのか、どんな19歳(20歳かもしれないが)になっているのか、そもそも生きているのかすらわからないまま。
1時間半の講義が終わると、幸成は一旦部屋に戻ることにした。次の講義は4限で、それまでに大きく時間が空いていたから。
トートバッグにノートやら文房具やらを詰め込み、幸成は教室を後にした。他の学生達はがやがやと何かを話しながら廊下を歩いている。幸成は少しも急いでいないのだが、しかし自然と早歩きになっていた。
友達は欲しい。1人でもいいだなんて、そんなことを幸成は考えているわけではなかった。大学に入ったばかりの頃、バスケや色々な球技で楽しむサークルに入った。けれどもそれは、中学や高校のバスケ部とは違うものだった。確かに球技をしたりはするものの、しかしそのサークルの主な活動は飲み会であった。未成年なのだからお酒は飲めない。そんなことを考えるのは幸成だけだった。飲み会は楽しめなかった。皆の中に入っていけなかった。幸成はテーブルの端で、皆が見向きもしないシーザーサラダをつまんでいた。
バスケ部では、中学であれ高校であれ、下手でも、センスがなくとも、真面目に練習をしていれば皆が認めてくれた。試合には出られないことが多かったけれど、それでもバスケをすることは楽しかった。
とはいえ、今になって考えてみれば。中学のバスケ部でも、高校のバスケ部でも、友達と呼べる人はいなかったのかもしれない。バスケ部の一員として存在はしていたけれど、彼らと遊びに行ったりすることはなかったのだから。
それもそうか。俺は所詮、俺。小学生のあの頃から、何も変わっていないのだろう。
自転車置き場に着く。幸成はうなだれながら自転車に乗ろうとすると。
「あの」
幸成は振り返る。声の主は女の子であった。グレーのカーディガン、長めの黒髪。少し低めの身長。
それは斜め前に座っていた学生だった。
「えっ」
幸成は困惑した。誰かに、ましてや異性に話しかけられることなど、滅多にない出来事であったのだ。
「これ、あなたの?」
彼女はそう言うと、右の手のひらにキーホルダーのひとつすらついていない裸の鍵を乗せ、幸成に差し出す。それは確かに、幸成のアパートの部屋の鍵であった。
「あ、えっと、ありがとう」
「何の鍵?」
「家の……。アパートの部屋の鍵なんだ。その、一人暮らしだから」
「だめでしょ、そんなの落としたら」
「……うん」
すると彼女はにこっと笑って言った。
「ま、気をつけな。あなた、会計学にいたよね? 2年生?」
「えっ、そうだけど……」
「同じ。私、櫻井なつきっていうんだ。なつきでいいよ。それじゃ、また」
なつきはそう言ってくるりと背を向けると、幸成のものよりすこし小さなインチの自転車に跨った。
彼女もこの近くに住んでいるのだろうか。
「あ、あの」幸成は彼女に声をかけた。
「あ?」何気ない返事。怒っているわけではないようだった。
「俺は、唐木。唐木幸成」
彼女はぽかんとした表情で幸成を見る。そうしてすぐに、笑い声を上げた。
「あはははっ。そりゃそうだ。私、自分だけ自己紹介してさ。あなたの名前も聞かなきゃだめだよね」
「本当に」
「いやいや、失礼失礼。よろしくな、幸成」
「よ、よろしく?」
「そうでしょ。同じ学部で2年。それに近くに住んでるんだから。単位なり生活なり、助け合える人は1人でも多くいた方がいい。違う?」
「違わない」
「だろ。じゃ、今度こそまたな」
言葉はなんだか荒いけど、フランクな人だな。それに、ちょっと可愛い。
自転車に乗って遠ざかる彼女の後ろ姿を、幸成は呆然と眺める。女の子と会話をしたという緊張が、鼓動の異常なスピードに残っていた。




