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夢の中だけで恋をした  作者: サワヤ
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第17章(幸成)恋愛

「お疲れ様です」


 幸成はそう言って名札をトートバッグに入れる。そこはコンビニのレジの裏、事務室と呼ばれている場所だった。22時までの夕勤のシフトを終えた幸成は、そうして制服を脱いだ。


 オーナーは帰り支度をしている幸成を見ることもせず、パソコンのモニターに映ったグラフをじっと見つめている。幸成はオーナーの年齢を知らなかった。大柄な男で、肌が汚い。顔つきは若く、しかし頭頂部の髪がやたら薄かった。30代だと言われても、50代だと言われても俺は信じるだろうな、と幸成は思った。


「オーナー。10月から……」と幸成が言いかけると。


「ああ。最低賃金だよね。ちゃんと上げてあるから安心してくれ」オーナーはモニターから目を離さずにそう言った。


「ここのところ、客足が悪いような気がします」幸成はそう言ったところで、言わなければよかったとすぐに後悔した。


 大柄な男ははようやくモニターから目を離し、幸成を見る。彼の表情からは怒りが読み取れた。


「わかってる。交差点のところの新規出店さえなければ……。道路工事の影響だってある。ああ、すまない。当たり散らすつもりはないんだ。気をつけて帰れよ」彼はそう言って机に肘をついた。


「失礼します」


 幸成はそそくさと事務室を出るのだった。


 幸成が店から外に出ると、すっ、と風が通り過ぎる。もう暑くはなかった。幸成は自転車の鍵を回し、それから跨ってゆっくりと漕ぎ出した。


 星が綺麗な夜だった。雲が流れ、星が瞬き、月がぽっかりと浮かんでいる。静かで、壮大で、ささやかなコンサートだ、と幸成は思った。


 街灯の少ない夜道を自転車で10分程走り、幸成はアパートへと帰ってきた。自転車を停めて鍵をかけ、かごに入れていたトートバッグを持って外階段を上る。部屋の前に着くと財布から部屋の鍵を取り出して、そして玄関を開けた。


 暗闇に包まれた部屋はしん、と押し黙っていた。赤いスニーカーを脱いで電気を点ける。幸成は服を全て脱ぎ去り、そのままシャワーを浴びた。


 それを終えた幸成はバスタオルで体を拭いた。ドライヤーで髪を乾かしてからグレーのスウェットを着る。トートバッグから携帯を取り出し、そして電気を点けたままベッドに倒れた。


 幸成はベッドに寝転んだまま、携帯の画面を見る。そこには時間が表示されているだけだった。


 ああ、いつからだろう。なつきさんから連絡がきているんじゃないかと確認するようになったのは。なつきさんと連絡先を交換したのはもうそれなりに前のことだけれど、メッセージのやりとりをしたことはない。お台場に行く日の前日、時間が送られてきただけだ。なつきさんはいつだって突然に現れる。連絡なんてくるはずがないのに。


 幸成は携帯を枕元に置いて、それから目を閉じた。電気を消したい、と幸成は思ったが、体が動かなかった。眠りはすぐそこにあった。すぐに意識が薄れていき、幸成は深く眠りに落ちていった。




 頭痛がした。


 幸成は目を開ける。寝ていたはずなのに立っている。足下を見ると、本革でローカットのブーツは砂漠の砂の上にあった。しかし目の前には森があった。砂漠の砂と、森の土の境界線は5mほど先だった。


 ああ。久しぶりだ。この夢の世界に来たのは何ヶ月ぶりだろう。3ヶ月ぶりくらいではなかろうか。


 幸成は森の中で紗里と抱き合っていたことを思い出す。涙を落としていた紗里が脳裏をよぎった。


 そうだ。紗里だ。俺の初恋の人。そして今も大切な人。この夢の世界で特別に想い合う、紗里が俺を待っている。会いに行かないと。


 こんなに長くひとりにさせてしまった。もう、会えなくてもいい。だからどうか紗里がもう、この夢を見ていませんように。どうか寂しい思いをしていませんように。


 幸成は砂漠の砂を蹴って走り出す。しかし森へと入ろうとした時、幸成の足が止まった。


 待てよ。おかしい。何かが違う。この違和感は、そうだ。前回もあった。


 まず、今までは砂漠の真ん中からだったはずだ。石の塔と砂漠を数十分歩いて、ようやく森に着いていた。今回は森の目の前からだ。


 幸成は振り返り、砂漠を見た。所々にある石の塔と砂漠がどこまでも続いている。しかし、何かが違った。その違和感の正体に、幸成はようやく気付いた。


 そうだ。暗いんだ。いや、確かに太陽は輝いている。雲もない。明るいと言えば明るい。それでも最初にこの世界に来た頃と比べると、明らかに暗くなっている。おそらくは少しずつ、少しずつ。最初にこの世界に来た時は、眩しくて仕方がないくらいだった。でも今や、目を細める必要はない。


 そしてもう一つ。靴がおかしい。夢の世界に来る時はいつも、昼間に着ていた服を着ている。今回もそれは変わらないのだが、靴だけがブーツだ。今日履いていたのはスニーカーなのに。


 この謎だらけの夢の世界が変化しつつある。これはどういうことだろう。まあ、本来ならば明るさは変化しない方がおかしいのだけれど、しかしこの不思議な世界に限って言えば、どうにもこの変化はあまり良いことではないような気がする。


 ただ、それはそれとして。紗里が待っているかもしれないんだ。とにかく池に行かないと。



 幸成は再び森を進む。やがて池に着いた。トンボは相変わらず飛んでいたが、池の木漏れ日は明らかに少なくなっている。それでも池を照らす木漏れ日が水面にきらきらと輝いていた。


 そして、彼女はそこに立っていた。しかし彼女は幸成に背を向けていて、まるで誰かに声をかけられるのを拒んでいるようにすら見えた。


「紗里」と幸成は言った。


 紗里はその声に気付いたようだった。それでも紗里は振り返らない。


「紗里?」


 幸成はそう言いながら紗里に近付いた。紗里は頑なに振り返ろうとしない。そして幸成が紗里の肩をとんとん、と叩く。紗里はその場に座り込んだ。


「……ごめんなさい」と紗里は言った。


「どうかしたの?」と幸成。


「私、私は、幸成君のことを想っていますって。いつか幸成君の恋人にしてくださいって、私はそう言った」


「うん。俺もそう言ったよ」


「それなのに、それなのに。私は彰君と付き合ってしまった。私は本当に、どうしてこんな……」


 紗里の声は震えていた。紗里は背を向けて座り込んでいて、幸成からはその表情が見えない。


「彰君?」と幸成は言った。


「そう。同じ大学の男の子。私のことを長いこと好きでいてくれて、それで……」



 幸成は拳をぐっ、と握った。


 彰、という人は紗里を彼女にした。こんな夢の中じゃなく、現実の紗里を。俺は紗里のことを思い出せず、紗里もやはりそうだった。そしてあの約束は、そう、果たされなかった。


 俺の初恋の人。今も大切な人。紗里を奪った彰。俺は……。



「私、汚いよ。現実の私は、幸成君のことをどうしても思い出せないんだ。ただ幸成君のことだけを想っていたいだけなのに。ごめんなさい、ごめんなさい。彰君は悪くない。私だけが……」そこまで言って、そして紗里は何も言わなくなった。



 ああ、俺は何を考えているんだ。一番苦しいのは紗里なのに。誰も悪くないのだ。


 紗里はこの寒い夢の中で俺のことを大切に想ってくれていた。きっとやはり、毎晩毎晩、ずっとひとりで待っていたのだろう。それでも、夢から覚めればそんなことは全て覚えていない。紗里は現実でその人と付き合って、そして夢に来るとそれを悔やんで、そうして紗里は苦しんできたのだろう。


 でも、それならばこの気持ちはどうしたらいい。紗里をとられたのだ。俺の大切な人を。たとえ夢の中だけであっても、俺は紗里のことだけを想って……。



 その瞬間、幸成の脳裏になつきの笑顔が通り過ぎた。そしてランドムを見上げるなつきの横顔が、酔っ払ってベッドで眠るなつきの寝顔が、まるで走馬灯のように。


 幸成は崩れ落ちた。幸成もまた紗里の横に座り込み、呆然と池に注ぐ木漏れ日を眺めた。


「幸成君?」


 そう言って、紗里はようやく幸成を振り返った。自我を失ってしまったかのような幸成の様子を見て、紗里は驚いているようだった。


「俺は紗里のことを大切に想っている。誰よりも。でも、俺にも好きな人ができてしまった」


「……そう」と紗里は言った。


 幸成は紗里の表情を見た。しかし彼女が何を考えているのか、その表情からは読み取れなかった。


「紗里が一番苦しんでいるんだ。紗里は悪くない。でも俺は、彰君という人ともし出会ったら殴ってしまうかもしれない。紗里のことを特別に想っているから。そして俺には、なつきさんという好きな人がいる」


 俺は何を言っているのだろう。まるで筋が通っていない。自分でも意味がわからないのだ。紗里もこうして、夢の中で悩み続けたのだろうか。自分を責め続けたのだろうか。


 誰が悪いんだ。いや、誰も悪くない。俺は誰のことが好きなんだ。俺はなつきさんに惹かれていて、そして夢の中では紗里が大切で。それなら紗里は誰のことが好きなんだ。現実の彼氏か、それとも俺か。


 どうしてこんなことになった。どうして。



 どれくらい時間が経っただろうか。長い間2人は沈黙していたが、やがて紗里が口を開いた。


「この夢の中で、幸成君と会えて嬉しかった。私にとって、幸成君はずっとヒーローだったから」


「ヒーロー?」


「そう、ヒーロー。透明人間だった私に、色のつけ方を教えてくれた」


 どういうことだろう。おそらくは教室で俺が暴れて、紗里と一緒に学校を抜け出した日のことだろうと思うけれど。


「俺は何もしてないよ。必死だっただけで」


「私の初恋の人、それが幸成君だった」


 そう言って紗里は、ようやく笑った。木漏れ日が紗里を柔らかく照らして、その笑顔は眩しかった。



「紗里」と幸成は言った。


「ん?」


「いつか必ず思い出そう。この夢のことを。お互いのことを。だからその時までは、現実の自分を責めるのをやめよう。紗里は悪くないんだ。そして俺も」


「……わかった。うん、そうしよう」


 紗里は立ち上がって、体をいっぱいに伸ばす。一匹のトンボがやってきて、紗里の頭の上にとまった。


「トンボが来たね」と幸成。


「見えないけれど、あかくんかな?」


「あかくん?」


「そう、この子の名前」


 幸成はそのトンボを見る。確かに他のトンボよりも体が赤い気がする。


「ああ、多分あかくんだと思うよ」と幸成は言った。


「私の頭の上にとまるのは、あかくんくらいしかいないから。他の子は指先にしか来てくれない」


「本当に仲が良いんだね」


「そりゃあね。私がどれだけここにいると思っているんですか」紗里はまた笑った。


 あかくんと呼ばれたトンボが、紗里の頭からふっ、と飛び立つ。


「今も毎晩この夢を見るの?」


「そうだよ。本当に毎晩、ずっとひとりで。ねえ、幸成君。お願いがあるんだ」


「何?」


「抱きしめてください」


 幸成は目を丸くして紗里を見た。紗里は恥ずかしそうに俯く。そして紗里は続けた。


「まだ私を許せないかもしれないけれど、でも、幸成君に会えるのは今だけだから」


「……誰も悪くないんだ」


 そう言うと、幸成は立ち上がって紗里を抱きしめる。紗里は頭を幸成の肩にとん、と乗せ、そして目を瞑った。


「ありがとう、幸成君。本当に長かった。次は一体どれだけ会えないんだろう」


「ごめんね」と幸成は謝った。


「誰も悪くないんでしょう?」


「でも……」


「今日、会えてすごく嬉しい。私はそれだけでいい」


 木漏れ日がゆっくりと広がって、幸成と紗里を暖かく包む。その夢が終わるまで、幸成は紗里を抱きしめ続けるのであった。

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