第13章(幸成)終わらない夏と黴の匂い
8月も終わるというのに、それは真夏の太陽だった。空の所々にどっしりとした入道雲が堂々と浮かんでいる。汗をかいて歩く人々に、空の青と入道雲の白がコントラストを見せていた。
長い長い大学の夏休み、その半分が過ぎたある日。幸成は部屋のそこかしこに積み上げられた漫画の単行本をまとめていた。作品ごとに並べて、大きな紙袋へと放り込む。やがて紙袋4つに漫画達は全て収まった。
幸成は右手に2つ、左手に2つの紙袋をまとめて持ち、くたびれた赤いスニーカーを履いて部屋を出た。アパートの外階段を下り、そのまま歩いて近所の古本屋へと向かった。
目的地の古本屋はゆっくり歩いてもせいぜい10分程度の距離。とはいえその道のりは、空調を効かせた部屋に引きこもってばかりの幸成にとっては決して楽なものではなかった。足を進める度、背中に汗がにじんだ。
紙袋に入れた漫画達の大半は、その古本屋で買ったものだった。幸成は退屈をしのぐために気になる漫画を買っては部屋で読み、そうしてそれを繰り返すうちに漫画が溜まった。どうせ処分するのならば数百円にでもなった方がいい、そう幸成は考えたのだ。
数百円を甘く見てはいけない。2食分になり得る。査定によっては千円越えも夢ではないのだ。とにかくこうやって小銭を稼ごうとすると、お金の価値が身にしみる。どうして俺は新刊の漫画を何冊か買ってしまったのだろう。一冊買うだけで40分のコンビニバイトが無に消えるのだから。
幸成はやっとのことで古本屋に着いた。「ブックハウス中央店」と書かれた大きな看板。無駄に駐車場が広く、2階建のそれなりに大きな古本屋だった。まるで全国チェーンの店のような面構えだが、しかし幸成はここの他にブックハウスという古本屋を見たことがなかった。さらに言えば、何の中央なのかもよくわからなかった。この辺りは東京の西の方であるし、中央という地名もないのだ。
幸成は正面の自動ドアから店内へと入った。近くに店員の姿は見えない。入り口のすぐ横にある買取カウンターに4つの紙袋を置き、呼び鈴を鳴らした。
するとアルバイトであろう店員が買取カウンターへとやってきた。彼女は店内の陳列作業をしていたようだが、呼び鈴を聞いて駆けてきたようだった。
「お待たせしました」
彼女はそう言いながらカウンターの中に入り、顔を上げた。
「……え?」と幸成は声を漏らした。
「あ」と彼女は言った。
その店員はなつきだった。ここの制服であろう深緑のエプロンを身につけて、ポニーテールのように髪を後ろでひとつにまとめていた。
「なつきさん、ここでバイトしてたんだ? ここにはよく来るのに見なかったな」
「ああ、先週から始めたからさ。それと、この前は酔っ払いの私を泊めてくれてありがとうな。いや、もう何週間か前になるか」
「そうだね。あれは確か夏休み前だったから、少なくとも1ヶ月前」
「そんなに経ったんだな」
「あっという間に」
「で、これを査定でいいのかね」なつきはそう言って紙袋を指差した。
「うん、頼むよ」と幸成。
「結構あるな。15分くらいはかかる。終わったら店内放送をかけるよ。4番だ」
「わかった」
幸成は店内を歩いた。古本屋独特の妙な匂いがした。大学生らしき若者がぽつりぽつりと立ち読みをしていたが、店内にはそれほど客がいないようだった。
学習参考書のコーナーに、大学受験の赤本が並んでいた。幸成は今通っている大学の赤本を手に取り、ぱらぱらとページをめくる。
どれもこれも、何度も解いた問題だ。大学受験で一番大切なのは、志望大学の赤本を読み込むこと。過去の問題の傾向と対策を考えることより大切なことなど他にない。そうしてようやく、どうして基礎固めが大切なのかが見えてくるのだから。
そしてそれは、大学の期末試験も同じだ。それなのに俺は過去問をほとんど手に入れることができない。友達がいない、ただそれだけの理由で。
今回、会計学の期末試験は本当に簡単だった。何せ、なつきさんが過去問をくれたからだ。なつきさんが酔っ払って部屋に泊まったあの日、なつきさんはその過去問のコピーを部屋に置いていった。俺にとって、初めて手に入れた過去問だった。そして実際に受けた期末試験では、過去問と傾向は変わらなかった。それどころか全く同じ問題すら出たのだ。よくもまあ、俺は今まで過去問もなしに単位をとれていたものだと思う。
幸成は赤本を棚に戻し、漫画が並べられている棚へと向かった。幸成は青年漫画が好きだった。その理由を幸成が青年だからと言ってしまえばそれまでなのだが。
少年漫画は往々にして、友情や仲間がテーマになる。例えそれがバトル漫画でも、ファンタジーな冒険譚でも、スポーツ漫画でも。だからどこか楽しめない。それに比べて青年漫画はそうではない。主人公が孤独だったり、あるいは現実にもあり得るような悩みとぶつかる様を描いていたり、そういう共感できる切実さがある。そして青年漫画は少年漫画よりも自由だ。物語において性描写には意味があるし、暴力表現には必然性があるのだ。
幸成は『バタフライ・キル』の1巻を手に取った。表紙には血塗れの女の子が描かれている。高校生だろうか、学校の制服を着た彼女は幸成をじっと見据えていた。彼女の青い目は深く、暗かった。幸成はページを開いて読み始める。古本屋から、物語の世界へと入り込んでいった。
ページを開いてから15分程経った頃、店内放送が流れた。幸成は現実の世界へと引き戻される。
『ブックハウス中央店にお越しいただき、誠にありがとうございます。お客様のお呼び出しです。4番でお待ちのお客様、4番でお待ちのお客様。査定が完了いたしましたので、買取カウンターにお越しくださいませ』
ブツッという音がして、店内放送が切れた。なつきの声だった。敬語と丁寧語が使われているその放送に、幸成は酷く違和感を覚えた。
幸成が買取カウンターに戻ると、なつきがそこに立っていた。幸成の持ち込んだ漫画達は紙袋から出され、カウンターのレジの横に積み上げられている。
「どうよ、今の放送。なかなかいけてただろ」なつきは得意げにそう言った。
「なんだか不思議だったよ。なつきさんはあんな言い方をしないもの」
「いやいや、バイトとはいえ仕事だぞ。そもそもな、私だって敬語は使えるんだ。当たり前だろ」
「失礼しました」
「それで、査定はこれ」
なつきは幸成にレシートを見せる。そこには買取金額1950円と書いてあった。
「1950円? 確かに量はあったけれど、こんなに高くなるとは思わなかった」と幸成は言った。
「ちょっと色つけといたよ。この前のお礼だ」
「えっと、その、なつきさんにそんな権限はないのでは……」
「まあね。買取金額は作品毎に全部マニュアルで決められてる。ただ、状態の良し悪しは多少ごまかせるんだ。内緒だぞ」なつきは人差し指を自分の口の前に立てた。
「ありがとう」
「じゃ、ここにサインしてくれ」なつきはレシートの下にある空欄を指でとんとん、と叩いた。
幸成はカウンターに置いてあるボールペンを手に取り、サインする。なつきはそのレシートをレジの上に置き、そして1950円を幸成に渡した。
「確かに」幸成は受け取ったお金を財布にしまう。
なつきはそんな幸成をじっと見て、そして口を開いた。
「なあ、幸成はどうせ夏休み暇だろ」
「うん」
「来週の木曜、ちょっと付き合え」
「いいけれど、何するの?」
「お台場に行く」
「お台場?」
「そう」
幸成は言葉の続きを待ったが、なつきはそれ以上何も言わなかった。
「えっと、わかった」と幸成。
「それじゃあな。この時間は私しかいないから忙しいんだ。さっさと帰れ」
「うん、また」
なつきさんの言い方からすると、どうも2人だけでお台場に行くみたいだ。まさかデートっていうわけでもないだろうけれど、一体何をするのだろう。
幸成はなつきに背を向けて、その古本屋を後にした。そして再び気温と湿度に包まれながら、幸成は部屋へと帰るのだった。




