第10章(紗里)好きにならざるを得ないでしょう
横浜のキャンパスに蒸し暑さの波が押し寄せる。蝉が鳴き始め、じりじりと肌を焼く。高い湿度と高い気温に、紗里は意識がぼんやりとしていた。
紗里は昼の講義を終え、加奈とキャンパスを歩いていた。
「紗里。最近、彰君と仲がいいんだってね?」加奈は言った。
「友達としてね」と紗里。
「彰君、もう随分長く紗里のこと好きじゃん。かっこいいし、彼氏としても悪くないと思うけれど」
「まあ、私もそう思うよ」
「それなら?」
「でも、いいと思うかどうかと、実際に付き合うかどうかは別の問題でしょ」
「同じ問題じゃない?」
「私にとっては別なの」
「ふぅん」
全く。加奈は弘樹君と付き合い始めてからずっとこんな調子。恋する乙女なのは結構なことだけれど、それを私にまで当てはめようとしないでよ。そりゃ、確かに恋人がいることは素敵なことなのかもしれない。でも、私は私のペースがあるんだから。
紗里と加奈はカフェスタイルの学食へと入ると、それぞれサンドイッチとアイスコーヒーのセットを買った。そして窓際の2人テーブルに向かい合わせになって座る。そうして期末試験の話や、アルバイトの話をした。それらの話題がひと段落ついた頃。
「弘樹君とはどうなの?」紗里はアイスコーヒーを一口飲むと、加奈にそう問いかけた。
「まあまあかな。この前は2人で原宿に行ったんだ。お買い物デート、ってやつだね。それなりに楽しかった」加奈は何故か少し得意げだった。
紗里はそんな加奈を見て、ふふっ、と笑った。
「え、私なんかおかしなこと言ったかな?」と加奈。
「何でもないよ」
それなりに楽しかった、だって。きっとすごく楽しかったのね。気持ちを隠す気があるのかないのかわからないくらいだ。まあ、加奈らしいと言えば加奈らしい。恋は盲目だなんて言うけれど、こうも見事なものなのか。
私は確かに彰君を気に入っている。でも、流石に私は加奈のようにはなっていない。つまりそれは、恋ではない、ということなのだろう。
「私、サークル辞めようかな」と加奈は言った。
「どうして?」
「なんだか、私の居場所がなくなってきたような気がして……。どうしてかはわからない。ただ、なんとなく居心地が悪いような」
「サークルなんて勝手な集まりなんだから、そう思うなら辞めた方がいいよ。また他のところに入ったっていいもの」
「そうだよね。うん、そうしようかな」
加奈は本当にその理由をわかっていないのだろうか。いや、加奈のことだから本当にわかっていないんだろうな。
加奈のサークルには参加していないけれど、加奈に頼まれて一度だけ集まりに顔を出したことがある。それだけでも加奈の立ち位置は十分に理解できた。
加奈はサークルのお姫様だった。サークルの中には加奈よりも可愛い女の子はいなかったし(男子にも個人的な女の子の好みはいろいろあるだろうが)、誰とでも気さくに接する加奈は、サークルの男子からちやほやと担ぎ上げられていた。男達の下心がはっきりと見て取れて、少し嫌な気分になったくらいだ。ところが加奈は、サークルの一員である弘樹君と付き合った。結果として、男子達にとって加奈はお姫様ではなくなり、1人のサークル員となった。おそらくはただそれだけなのだろう。
でも、気持ちはわかる。加奈のような女の子にとっては、所属しているコミュニティの中で自分の価値が下がっていくことに耐えられないのだ。その理由や原因がわかっていても、あるいはわかっていなくとも。
「よかったら、私のサークルに遊びに来てみたら?」と紗里は言った。
「うん、そうしてみる。都合のいい時、連絡くれる?」
「わかった。きっと加奈にも合うと思うよ」
私のサークルには、加奈のような女の子はいない。男の子達はあまり女の子を意識していないし、あるいはサークルの外に彼女がいたりする。女の子は女の子で、私のように色恋に対して排他的なタイプや、やはり既に恋人がいるような子しかいないのだから。
加奈がお姫様になることはできないかもしれないけれど、最初から単なるサークルの一員であれば価値が下がっていく嫌な違和感を感じることもないだろう。
「私さ」と加奈。
「うん」
「紗里に憧れてるんだ。紗里は綺麗で可愛くて、しかも頭も良くてさ。でも私は普通だよ。だから、誰かに求められないと不安になっちゃう。もし弘樹に振られたりしたら……、なんて考え始めたら、なかなか眠れない。どうしたら私も紗里みたいになれるんだろう?」
「加奈はすごいよ」
「何が?」
「普通はそんなこと、その本人を目の前にして言えないと思う」
「それがすごいの?」
「私は加奈のそういうところが好きだし、見習いたいといつも思う」
「……ありがとう、なのかな」困惑したようでもあったが、加奈は嬉しそうに髪を耳にかけた。
私は本当に加奈のことをすごいと思う。加奈が言ったことは、決してお世辞の類やコミュニケーションを円滑にするための嘘ではなく、まるごと加奈の本心なのだ。
こうして加奈は時々、驚くほど素直に物を言う。だからこそ私は加奈のことを信頼しているのだ。例え女同士で親友だとかなんだとか言っていたって、それほどまでに本心をそのまま口に出す女の子はそうはいない。憧れと弱みと不安。そんな気持ちを素直に直接さらけ出されたら、好きにならざるを得ないでしょう。
加奈の言う通り、確かに私は多少容姿に恵まれているのかもしれない。だからそれなりに人の目を引く。けれど本当にモテる女の子というのは、加奈のような女の子のことを言うんだろうな。
「私はこのあと塾のバイトがあるから帰るよ。加奈は?」
「弘樹と待ち合わせてるんだ。それまでに少し時間があるから図書館でレポート片付ける」
「そう。それじゃまたサークルのこと連絡するね」
「うん。またね」
「また」
そう言って紗里は学食で加奈と別れた。紗里は1人でキャンパスを横切る。そして駅に向かおうと、大学の正門を出ようとした時だった。
「紗里?」
紗里が顔を上げると、目の前に彰が立っていた。彰はベージュのコーチシャツに細身のジーンズ、黒のデッキシューズを履いて、リュックを背負っていた。
「彰君。こんにちは」
「こんにちは。今、帰り?」
「そうだよ。これからバイトがあるんだ。彰君は?」
「今大学に来たところ。サークルの集まりがあるから」
「あのサークル、彰君に合いそうもないのに意外だな」
「そうかな。楽しくやってるよ」
「加奈は辞めるかもって。多分今日もその集まりには行かないと思う。あと弘樹君も」
「ああ。俺も気にしてはいたんだけれど、仕方ないな」
「そういうわけだから。それじゃ」
「うん。気をつけて」
「ありがとう」
そう言って紗里は歩き出したのだが。
「あ、それと」紗里の背中に彰が声をかけた。
「何?」紗里は振り返らず、そして歩くのを止めずに言った。
「一目でも会えて嬉しい。今日、大学に来てよかったよ」
「……全くもう。よくそんなことが言えるよ」
加奈といい、彰君といい。私の周りにはこんな人ばっかりだ。
そのまま紗里は彰を見ずに、駅へと向かって歩いた。その時紗里の鼓動は普段と比べて少しだけ早かったのだが、紗里はそれに気付いていなかった。




