さよならの定義
さよならが言えない
人類が簡単にコミュニケーションが取れる環境になって数十年。さよならはもはやどこかに行ってしまったと思う。本当にさよならをする時は死ぬ時だけ。会おうと思えば会える。話そうと思えば話せる。僕らはその手段を持っている。だからさよならから遠い場所にきてしまった。
さよならと言っても、また来年、このお祭りで会えてしまう。高校の時の同窓会、地元の集まり、たとえ時は過ぎようと、永遠のさよならからは遠くなってしまった。
その事実に安心する。どこかで繋がっている状況に。その事実に悲しくなる。さよならという言葉が美しくなくなるから。
さよならという言葉は美しいと思う。またねでもない。さよならと言われれば、もう一度がない気がする。もう二度と、会えない気がする。そんな切なさを孕んでいる。この言葉が好きだ。
本当のさよならが遠ざかったから、遠方の誰かを想い馳せる事がなくなった。文字にして便箋に入れ送る、あのドキドキもなくなってしまった。それが悲しい。もう二度と来ない時代になってしまったから。
僕等はどんどん大切なものを失っていく。簡単に繋がれるから、言わなくてはいけない言葉を言わないままで後悔する。いつか言えるから。離れても繋がれるから。そんな訳がない。本当に言わなくてはいけないことが言えずになったのは、僕らのせいではない。時代のせいだ。
言い訳ならいくらでも出来るから言い訳させてくれ。どれだけ言っても、悪いのは自分だって分かっているから。時代のせいだと言い放って、僕は自分の傷を隠している。誰かを傷つけた事を、ひた隠しにしている。
産まれてから今まで、沢山の人を傷つけてきたと思う。その分、笑わせてきたと思う。それでも、自分が言った言葉が誰かの心に残り続けている事だってあると思う。そんな事、数え始めたらきりがない。口が悪いから尚更。
軽いノリで暴言を吐く癖がある。直そうと思っても、いつしかそれを言うのが当たり前になってしまった。言わなかったら君じゃないと言われた事もある。これが私の悪い所。そして良い所。
誰に対しても仲良くなれる。軽いノリで話す事が出来る。けれど、慣れ始めると思わず口が動いて言ってはいけない言葉を言ってしまう所がある。だから年上とは仲良くなれるけれど、年下とはいまいち仲良くなる事が出来ない。これはもう諦めている。
直そうと思った。直したら別人みたいだと言われた。けれど口を開いて、誰かを傷つけてしまう事だってある。どうすれば良いのか。実際傷つけた。痛いほどに心に残っている。最低な言葉で、最悪なタイミングで、私の軽口が災いを招いた事も。
それ以来、他人とは一線を置くようになったと思う。中途半端な距離感の人は、その距離を埋めないようにした。埋めてしまえば言ってしまうから。これは私の中で出来る、精一杯の自衛だった。
許してくれる人も沢山いる。こういうキャラだからという人も、そうじゃないと調子が出ないという人も。
『お前』と言うのを止めるようにした。出来る限り、相手の名前を呼ぶようにした。自分も、お前と呼ばれ続けたら腹が立つから。
暴言を吐くのを止めた。ふざけたノリで言う事はあっても、『ふざけるな』『死ね』『馬鹿』『くそ』。そういった類の言葉を発さないようにした。いつしかそれが普通になり始めた。
心が少し軽くなっていった。他人の事を憎む心が減った。誰かに優しくなった。
きっと、そう変われたのも本当のさよならを知ったから。
私の中のさよならって、きっと、もう一生関わらないと確信してしまった時だと思う。たとえどこかで会ったとしても、話したとしても、その後はもう無い。次は続かない。好きも嫌いも、ありがとうもごめんねも言えないまま手を振る事だと思う。一生関わらない。関わる事が出来ないと、心のどこかで確信した時、それは希望的観測でも何でもない、本当に先がない事になる。
さよならってきっとこういう事だ。繋がれるはずの現代で、それでも繋がれないと確信してしまった時だ。けれど、そのさよならを味わったからこそ、今ここに立っているのだと思う。
さよならが遠くなって、さよならが近くなった。