1 序章(挿絵付き)
一日中、どんよりとしていた空だったが、なんとか雨が降ることもなく夕暮れになると藍色と茜色が二分し始め、徐々に藍色と闇色に変わってきている。
星は雲に隠れてしまっていて、ほぼ望めない。それでも12月も終わりの今日、雪が降っていなくて恵まれた日だと思う。例年であればちらちらと降り始めている年もあるのだから。
生まれて初めてこんな遠出をした私は、流れてゆく景色のどれもが珍しく目に映る。筈だった。
雪や雨が降らなくて良かったとも思うが、内心逆に大荒れになってしまえばいいのに、とも思った。そうすれば、これから向かう場所へ行かずに済んで、まだ暫くは猶予が与えられたかもしれないのに。そう思った。
午後から長時間馬車で移動している中から窓の外をそっと覗いては、私、エマ・マクレーンは誰にも分からない様にこっそりと溜め息を零した。
エマの他に馬車に乗っているのは二人。
一人目は父であるバシリー・マクレーン。年齢と共に多少質量に変化が見え始めた蜂蜜色の髪を丁寧に後ろへと撫でつけ、夜会用のフォーマルがややきつそうに見えるのは最近体重が更に増加したためであろう。
もう一人は、マクレーン家で働く侍女のメレーヌ・ポズナー。多分40才位だと思う。目つきがきつく、長時間馬車に揺られ続けているのに背中をびしりと伸ばしたまま、父と同じくずっと無言で座り続けている。
一つ同じ空間にいると、呼吸をすることさえ息苦しさを感じる。
エマは数年前に亡くなった母親譲りの金色の髪を綺麗に結い上げ、デビュタントとしての白のドレスを着用している。
乗り込んでからというもの、かなりの時間が経っているが父は一言も発しないまま、向かい側の席に腕を組んでしかめっ面で目を閉じている。その下にはエマと同じ緑の瞳が隠れている。瞳の色も母と同じが良かったのにと、誰にも言ったことはないけれどずっと思っている。
滅多に顔を合わせない父と顔を合わせるたびに同じ血を引いていることを突き付けられているようで心が痛い。
だから、狭い馬車の中、残り時間はどれぐらいか知らないが閉じられている父の瞳は開いて欲しくはなかった。
舗装された道を走るようになってからは、揺れも少なくなってきて苦痛は軽減されてきたが、反対に気分が滅入るばかり。
だが、更に気が重いのは今朝馬車に乗り込む直前に言われた一言だった。
『お前もようやくこれで成人となったのだから、身の振り方は私の指示通りに従ってもらう。なに、向こうには既に話は通してある。城の会場で顔を合わすことになっているから、失礼が無いように気をつけろ。いいな』
直接的な言葉は無かったが、言われていることは分かった。
―――今日の目的地で父から紹介される男性が私の夫となるべき相手という事だ。
予想していなかったから着なれていないドレスの窮屈さもあって衝撃的すぎる余り倒れそうになった。
座っている今でも気を抜くと体が震えそうな気がする。
いつかは嫁がなければならないことは分かっていたが、まだ成人したばかりだという時間的にまだ余裕があるだろうとの楽観と、醜い我が身を欲しがる相手がいるとは思わなかったのだ。
そんな静寂と欝々とした空間が占める馬車が向かっている先は、パリス国カリス州ディランザース城。パリス州はカリス州、マダラス州、ラドラン州三つに分かれていて、その中でも肥沃な大地と、豊富な資源、そして魔法開発に力を入れている州として有名だ。先の尖った尖塔が幾つもそびえる巨大な城。
そのディランザースで今宵開かれる新年の祝賀行事に参加するために向かっている。
突然告げられた今回の祝賀行事の参加は、数日前になって義母からようやく教えられた。
夕食をいつものように別邸と呼ばれる小さな建物で食べ終えた頃、義母に仕える侍女に本邸へと呼びつけられた。滅多にないことだったからなんだろうとは思った。
「お前も18になったのだから、社交界でデビューする日を決めたわ。年末の日にあの人と城の祝賀行事に参加しなさい。いいわね」
玄関近くの謁見室で義母からは言い終わると同時にドレスを投げられた。エマは慌てて受け取った。
「新しいものを用意する時間が無かったら、家にあったものを探させたわ。それを着なさい」
そう必要な事を言うだけ言って義母は部屋から出ていった。
1人取り残されたエマは冷えた床にしゃがみ込んだまま動けなかった。
エマ・マクレーン18才になってデビュタントの舞踏会に参加することが、嫁ぎ先である男性と顔合わせの為という事実がこの上もない失望となっていた。
***
そろそろ到着すると外から御者からの声がかかり、父の目が開かれた。目線が合う前に外をエマは見たこともない巨大な建物に圧倒された。
あれがディランザース城・・・。
闇の中へと姿が隠れることなく、篝火と場内から漏れ出る明かりで巨大な姿がぼんやりと浮かび上がっているのが見えた。
想像していた以上に大きな建物にエマはただ目を奪われた。
幾つもの尖塔がそびえ立ち、下から見上げればきっと首が痛くなる程に頭を反らせなければならない程高いのだろう。城の周りは堅牢な外壁で囲まれていて、近づけば近づくほどその巨大さに目を見張るばかりだ。
今日、私の運命が決まる。
夫となる予定の相手の事は何1つ知らされていない。階級も、年齢も何一つ。
父からは愛情を貰った記憶もない。そんな父親から今頃になって私が幸せとなれる相手を探してくれたとも思えない。恐らく自分の都合がいい縁談を取り付けた筈だ。
だから、結婚という未来が楽しいものだとはとても思えず、エマの心は明るくなることは無かった。