前語り
高校一年の春休み、俺は神様に出会った。いや、出遭った。
文字通りそれは俺にとっては不運な出遭いであり、それとは逆に神様にとっては大層幸運な出会いだったそうだ。神様に遇うなんて前世の俺が人生何回やり直してどんだけの徳を積んだかは知らないが、今世の俺にとっては厄介事に他ならない。その出遭いが、平凡というほどでもないが特段おかしいものでもなかった俺の日常を瞬く間にトンデモナイやつらのトンデモナイ日常へと変えた。苦労に次ぐ苦労、時には苦悩、時には苦痛も伴って、まったくとんでもない出遭いをしてしまったものだ。
どうしてあんなことになったのか、それは今でもわからない。
運が悪かったと言えばそれで全てを片付けることも出来るのだが、普通に考えておそらく明日俺が事故で死ぬ確率や宝くじで一等当選する確率よりも低いだろう何億分の一以下を引き当てた悪運だと考えるとそれはそれで気が滅入る。
だから発想を変えてこう考える、あの出遭いは必然であったと、いわゆるところの運命、この世ならざる力によって引き合わされた絶対の巡り遭わせなのだと。それで何かが変わるわけではないけど、「運が悪かった」で済まされるよりは「運命」、英語で「Fate」と言えばそれとなく壮大、なんとなくロマンチック、そしてワクワクする響きでまだ納得が出来る。
だからあえて何が不運であったかを言えば、そういう星の下に生まれてしまったこと、つまり今ここにいることが不運ということになるかもしれないが、そんな親不孝なことを言うつもりはない。
そう、運命ならしょうがない。こう言えばなんだか全てを許せる気がする。しないか?
それに、もし俺がいうところの運命なんてものが無かったら。
なんてたらればの愚痴を言うことを俺はしない、する気もない、するべきでない。
結果的に人として客観的に見れば、神災とも言えないこともないあの出遭いは無かった方が良かった。現に今も偉い大人の人たちが無かったことにするために躍起になっているのだし、生み出したものよりは壊したものの方が大きかった。だから、こういうのは不謹慎だと思うのだが、俺はあの出遭いからの一連の出来事を不本意ながら楽しいと思っていた。もちろん全てが楽しかったわけではない、辛いことも悲しいこともあった、むしろそっちの方が多かった。時には怒りを通り越して憎悪や殺意と言った感情が芽生えることもだ。でも、学校の部活と一緒で「だりー」とか「休みてー」とか「やめよっかなー」とか言いながらも、って感じで終わった後にふと振り返ればやっぱりささやかな幸福がそこにはあって、かけがえのない思い出になり、輝かしい未来につながるものを得られた。
気がする。
だからまぁ終わった後に、あれが駄目これがダメと文句をつけるのはナンセンスだ。
結局のところ、選択したのは俺だったのだから反省はしても、後悔はしてはいけない。
それが責任を負うということかもしれないから。
これから、反省会という意味も含めて今までの出遭いと出会い、そんでもって出逢いに出遇いをと語ってみたいと思う。人に話すことで気が楽になるとよくいうだろう、俺は全くそうは思わないが。逆に今一度深く受け止めて、噛み締めて、そして俺が次へと進むために糧にさせてもらいたい。
正直に言えば俺が馬鹿だということをさらけ出すプロットなんて何もないオールアドリブの語りで、聞き苦しいかもしれない。まぁそんなことはどうでもいいか。の精神でやっていくので聞いてくれる方は聞いて欲しい。
とは言え最初に言っておくが、一連の「であい」を俺の視点から観測したものを、俺の主観で語るのだから、事の真実を正しく知ることは出来ないかもしれない、いや出来ない。極力客観的に語りたいところだが、非常に私情を挟んでしまうこともあるかもしれない、というかある。個人的には未だ納得していないことがどっさりだ。でもそれもご愛嬌。(高校二年男子の愛嬌の需要は知らない)
しかしだ、そもそも話の出だしから神様に出会う荒唐無稽な話に真実なんぞ必要なのか。
誰がそんな話を本気にするというのだ、ノンフィクション、ドキュメンタリー、レポート、真実を謳ういろいろな物語や文章が世にあるが、たいてい全てが真実ではなく面白くするためにところどころ盛っているんだから、特段そんなもの必要とも思えない。
それに神様なんてものは、
人によって姿が違い、人によって中身が違い、人によって意味が違う。
神様はあるのか、ないのか。
神様がいるのか、いないのか。
神様を信じるのか、信じないのか。
それは観測者によって違うのだ。
ならば、
真実はあるのか、ないのか。
真実が要るのか、要らないのか。
真実を信じるのか、信じないのか。
それも観測者によって違う。
真実ではないかもしれない、が、嘘ではない。
俺が観測した俺の俺による俺のための真実、そのぐらいの気持ちで考えてほしい。
受け止めて、考えて、そして自分の真実を見つけると良い。
無いなら無いで良いと思う、考えるに値しないなら捨ててもらって構わない。
見つかっても見つからなくても、それが運命だ。
真実はいつも1つ、と国民的少年探偵が良く言うセリフだがまぁ時場所目的人にもよるんじゃないかと。
十人十色、良い言葉だ。無色だって色だろう。
さて、話を戻すのだが、春休み直前に僕は神様と出遭った。
実に気の抜けた出遭いだったことが記憶に新しい、なにせ神様の第一声は「いや違うんだよ、ほんと違うんだよ、違うんだよ」だ、何が違うというのか。そもそも見た目が猫だし、普通ならば神様には見えない。敬意もへったくれもあったもんじゃない。
だがそもそも神様とは何だろう。偉いのか、強いのか、賢いのか、敬う必要があるのか、あれを敬えというのか、神様という説明だけでは些か抽象的すぎないか。そこで僕はシリさんに頼ったのだが、要約すると人知を超えた力を持ち信仰の対象である絶対的存在という答えだった。
それを考えると、俺があの時、あの場所で出遭った神様は本当に神様だったのか疑問だ。神もどきではないか、人知は超えていたが信仰はされていなかったような。いや俺が神様に遭いその時神様だと、特に何も考えず、何かしらの定義を持っていたわけでもないのだが、そう観た、そう思ってしまった。その時点で信仰の対象として成立したのだろうか。
何故そんなことを言うかというとその神様なのだが、神様はボロボロだった。もっと言えばバラバラだった。ボロボロバラバーラ。五体不満足というレベルではなく、手も、足も、胴体も、頭も、目も、耳も、鼻も、脳も、内臓も、血も、体温も、無かった。完全体を知らない身としては元々あったかも怪しかったりするのだが、とりあえず無かった。正しくは、失くした。
神様が持っていたのは魂だけ、つまり簡単に言えばアルフォンスなエルリックである。
では、無いものはどこにあるのか。持っていかれたらしい。神でありながら無能である。
実に間抜けだ、何の力も無いくせに偉そうに振る舞う姿は滑稽を通り越して哀れ、とまで言うつもりはないがまぁ敬意の対象にはし難かったなと。
ということで、神様にまつわるこの物語は、バラバラになった神様の身体を俺が全て集めてあげると、お礼として願いを一つだけ叶えてもらえるという、つっかもうぜ!龍玉!な話、ではないのだが、それに少し似た、変な話だ。
その前に、
一つ言ってみたいセリフがある、
フィクションのような話だが、俺にとってはノンフィクション、
信じるか信じないかは、あなた次第。




