写真
フェアリーが大学2年の春、僕の夢だった本が出版された。
予想通りだが売れ行きはよくなかった。
ところがフェアリーが大学で宣伝してくれたことが
きっかけで、意外なヒット作となった。
この後から、ある場所を訪れて紹介する
という紀行文の仕事がボツボツ来るようになった。
秋となり冬が近づいた。
その日は土曜日。
フェアリーは久しぶりにチアがなく、
朝からのんびりしていた。
朝食後、二人でコーヒーを飲んでいた。
今日こそはと覚悟して、フェアリーの前に
僕の本、「心の中の井の頭」を置いた。
「フェアリー、改めて礼を言うよ。
君がいなかったら、この本は形になっていなかったと思う。
出版なんて夢のまた夢だった。本当にありがとう。
今日は僕の中でわだかまっていたこと、
クリアしようと思うんだ。」
一枚の写真を取り出して本の隣に置いた。
少女といってもおかしくないくらいの女の子。
花柄のワンピースを着て、涙目でこちらを見ている。
「古い写真ですね。」
フェアリーが言った。
「20年ちょっと前だよ。」
「この人のこと好きだったんですか?」
「初恋の相手だからね。」
「今でも好きなんですか、この人のこと。」
「好きっていうか、なんていうか。」
「ヤダな。昔、付き合ってた人の写真とっておくなんて。
まだ気になっているってことでしょう。」
フェアリーは横を向いた。
「フェアリー、その写真の女の子、だれか分かってる?」
「知ってるわけないじゃありませんか。
自分が生まれる頃の話ですよ。あれ?
旦那様の初恋って母さんじゃなかったんですか?」
「そうだよ。よく見てごらん。」
フェアリーは写真をじっくり眺めた。
「あーほんとだ。確かに。母さんだ。
イメージが全然、違いますね。」
「フェアリーは今の智美ちゃんしか知らないから無理ないよ。
でも僕が知り合った頃の智美は、こんな可愛い文学好きの
お嬢さんだったんだよ。」
僕はゆっくり説明を始めた。
僕が智美ちゃんと出会ったのは大学の文芸サークルだった。
僕はサークルにはあまり入るつもりはなかったんだけど、
佐藤に誘われたんだ。奴も好きになった女の子が、
そのサークルにいただけのだけど。
ある日、佐藤がその子をデートに誘ったら、二人だけじゃ
嫌だと断られた。それじゃあ、それぞれの友達を呼んで
ダブルデートにしようという話になって、奴は僕を、
そしてその女の子は智美ちゃんを誘って井の頭公園に来たんだ。
着くとすぐに佐藤はその子と一緒にボートに乗ってしまった。
僕も特にやることなんて考えてなかったから、智美ちゃんに
一緒に乗ろうと誘ったんだ。でもどうしても乗らないって言って、
最後には泣き出したんだ。それがあまりにも可愛くて撮った
写真が、これなんだ。
後で聞いたら「ボートに乗ったら別れる」っていう噂を
信じてたんだって。今の姿からは想像もできないよね。
仕方がないから、その辺歩こうかって歩き始めた。
弁天様のほうを回って、林を通って、神田上水に沿って歩いて、
井の頭公園の駅のそばにあった喫茶店で休憩して、また歩いて。
結局、その日は夕方までずーっと散歩。
その間、好きな本や作家、それに映画、話が止まらなかった。
二人とも似たような趣味で好きな作家も重なってたんだ。
この本について初めて話したのも、その時だった。
「こんな散歩をそのまま本にしてみたいな。」って。
智美ちゃんも「一緒に作ってみたい」って言ってくれた。
その日のうちに「一緒に映画見よう」って約束をして、
次の週には智美ちゃんが書庫を見に来た。
僕が高校生のときに親は二人とも事故で亡くなっていたから、
そのころには、僕はこの家に一人で住んでいた。
そのうち智美ちゃんが泊まるようになり、その回数が増え、
2年の春には、僕と彼女はこの家から一緒に学校に通うようになった。
今考えると随分、幼稚な生活をしていたと思うよ。
ままごとの延長のような暮らしだった。
そしてその年の夏、彼女が妊娠した。
僕は結婚を許してをもらうため、彼女の父親に会いに行った。
彼女の父親は簡単には許してくれなかった。
1回目には会ってもらえなかった。でも3回目には、
僕が普通の会社で働くという条件で結婚を許してもらえた。
僕は勤め先を見つけ、学部を夜間に変える準備をはじめた。
それで彼女との生活が続けられると信じていた。
でも違った。
ある日、彼女は黙って家から出て行った。
もちろん僕は探した。でも見つからなかった。
3日後、彼女から電話が入った。今、実家にいる。
中絶手術を受けてきたってね。
慌てて僕が彼女の実家に行くと、智美ちゃんは
僕と彼女の父親を部屋に呼んで説明してくれた。
その春、僕と一緒に住むようになると、彼女は親に知られる
ことを恐れはじめた。知られたら別れさせられると思ったんだ。
彼女は子供ができれば、結婚できる、一緒にいられると考えた。
そこで僕が知らないうちに、避妊具に穴をあけたたらしい。
やがて目論見どおり、彼女は妊娠し、僕と結婚することになった。
ところが、そのために僕が会社員になることは予想していなかった。
僕を縛り付けてしまうって、僕を邪魔しているって自分を責めた。
それに耐えきれなくなって子供を堕した。
彼女の父親は僕に申し訳ないと激怒した。
彼女は騙したと自分のことを許せなかったし、
僕は彼女の気持ちに気付かなかったことを悔やんだ。
智美ちゃんは名古屋から戻っても、僕を避けた。
それまでとは全く別人のようになった。
乱暴な言葉遣いになり、それまでとは全く違う派手な服を着た。
それまで飲まなかったお酒を、朝まで飲んでいるという話も聞いた。
僕も彼女が痛々しくて会うことができなかった。
そして文章を書けなくなり、イラストを描き始めた。
大学卒業後も、智美ちゃんとは全く連絡を取らなかった。
ところが33歳のとき、智美ちゃんから急に連絡が来た。
出版社で10年の経験を積んできた。社内に発言力を
持つようにもなった。今なら僕の本だってできるはず。
彼女にそういう自信があった。
『あなたの本を形にして他の人にも見てもらうよう
一緒にがんばろう』
二人とも本が出来れば前の生活に戻れる気がした。
彼女の期待に応えようと僕も頑張った。
でもはっきり見えていた僕の中のイメージが、どんどん
あやふやになっていった。僕は焦った。でも焦れば焦るほど、
さらに見えなくなっていった。僕は自分の不甲斐なさに怒り、
プレッシャーをかける智美ちゃんを恨むようになった。
彼女も結果を出せない僕に不満が募り、昔、自分がやったことを呪った。
3年間、そうしているうちに僕たちは二人とも疲れきってしまった。
「これ以上、一緒にいても何も出来ないよね。」
そう言って彼女は出て行った。
「この本が出版されて半年経った。
もう20歳の頃の智美ちゃんときちんと別れようと思う。
僕一人でやるべきかもしれない。
でもフェアリーにも智美ちゃんと僕のこと
知っておいて欲しかったんだ。」
僕は大きな金属のボウルをテーブルに置くと、
写真に火をつけ、その中に入れた。
写真は燃え続け、次第に黒い灰に変わっていく。
僕とフェアリーは、じっとそれを見ていた。
フェアリーがつぶやいた。
「私、堕ろされた子の代わりなんでしょうか?」
「いや、それはない。
フェアリーの母親は今の智美ちゃんだよ。
あの頃の智美ちゃんとは別なんだ。」
写真が灰になってしまっても、すぐには動けなかった。
やがてフェアリーが明るい声を出した。
「旦那様、散歩に行きましょう。
天気いいし、家にいるのはもったいないですよ。」
その微笑みに救われた。




