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竹庭  作者: 小川すみれ
2/4

 あのときどうして私はああもいて逃げたのかは分からない。ただ衝動のままに道を駆け、恐怖に突き動かされるままに泣いた。

「カヤちゃん、ごはんよ」

 私は心優しい老夫婦に拾われ、今はお屋敷とは似ても似つかない小さなぼろ屋でひっそりと暮らしている。

 あの苗の根には毒があるのだとか、この実は渋いから蒸して灰汁あくを取ったあとに練りものにして食べるのだとか、鳥が低く飛ぶときは雨雲が近づいているのだとか。おじいさまとおばあさまが教えてくれることはいつもこの世界で生きていくための大切なことで、私は必死になってそれらを頭の中に詰め込んだ。

 年は十六。あれから一年たった今でも、山から伝い降りてくる木々のざわめきを耳にすると落ち着かないものがある。

「最近はなんだか騒がしいわねえ。紺の一族の力が衰えてきたわけでもないでしょうに」

 私はここへやって来てから様々な常識を学んだ。

 私が今住んでいるのは山の谷間にある小さな村で、ここを含む広大な土地を三つの一族が統治しているのだそうだ。

 一つは紺の一族、一つは紫の一族、一つは紅の一族。本家であり一番大きな力を持つのが紺の一族で、その分家が紫の一族、紅の一族なのだという。みんな色にまつわるのね、と言えば、この三つはとても高貴な色なのだとおばあさまは教えてくれた。

「何が騒がしいの?」

「物の怪だよ。近ごろはどこもかしこも妙に落ち着きがない」

 おじいさまが粥をすすりながら私に答える。

「紺の一族に何かあったのかしら」

「いや、あそこはまだ力を失ってはない。むしろ今の(かしら)はこれまで以上に強いだろうよ」

 いままで平和だったのは、三つの一族がアヤカシの力を制御して従えさせていたからなのだと、御三家はそれぞれの方法でこの土地と民を瘴気から守ってくださっているのだと、ここに来て間もないころ、何も知らなかった私におじいさまは教えてくれた。

「じゃあ問題は紫の方かしらね」

「かもしれないな。このごろあそこの力が不安定なのは確かだ」

 すこしだけ訳あり顔で外の様子を仰ぎ見る二人は、私には見えないものが見えていて、若いころは祓いを生業(なりわい)としていたそうだ。それも今は息子夫婦が継いでいるという。

「なんだか不安ね。そうだわ、カヤちゃん、後で一緒に山へお参りしに行きましょうか」

「カヤ、日焼けは後が辛い。じいさんが編んだ藁笠をつけていきなさい」

「はあい」

 おじいさまとおばあさまは信心深く、頻繁に私を山へ連れ出した。

 石でできた小さな祠に手を合わせてからそばの湧水を一口飲む。それが二人のお参りの手順らしく、私もそれに(なら)って冷たい水を喉に通せば、不思議と木々のざわめきも夜の闇も怖くなくなり、凪いだ心でいることができた。

 そしてこのような日はいつも木の実を拾って家路につき、それを夕ご飯として食べるのだった。

 泥だらけの履物、建てつきのわるい引き戸、でこぼこの砂利道、伸びきった雑草。山にはたくさんの食べ物があり、のびのびとした空は小鳥が泳いで、水面(みなも)は太陽の光をきらきらと跳ね返す。

 ようやく慣れてきた外の世界は小説に描かれたものほど美しくはないものの、ミヤコ様が言うような地獄はどこにもない。


 ◆


 カヤ、と、竹の葉がさらさらと鳴る世界で、ミヤコ様が私を呼ぶ。

 あなたの名を教えて、と、その赤いくちびるが言葉を紡ぐ。

 あなたの名はどう書くの、と。

 竹が風に揺れ、木々の隙間から黄色い目をした蛇がこちらを見ているのが分かった。ただ物静かに、なんの表情もなくただ頭を(もた)げてこちらを見ているのが分かった。


 ◆


 ひたすら駆けたあの日から、時おり不思議な夢を見るようになった。ミヤコ様がくりかえし何度も私の名を呼び、けれど私は竹林の蛇に釘付けになっている夢だ。

「蛇の夢は吉兆を意味するのよ」

 おばあさまはしわを深めて頬笑み、私の不安を拭うように目もとをなでた。様々な苦労を経験した醜い手。ミヤコ様の白いなめらかな手とは大違い。けれどもおばあさまの手はとても優しく温かく、私はどうしようもないほど撫でられるのが大好きだった。

「あなたももうすぐ十七になるのね」

「うん」

「何が欲しい?」

「強いて言うなら、履物を」

 私を逃がしたヤエは元気にしているだろうか。あの日受け取った下足を見つめて、ヤエの顔を思い浮かべる。

「ああ、あれももうボロボロだものね。一年以上使ったものね。そうね、カヤちゃんに特別に、おばあちゃんが用意してあげるわ」

 それまではあの履物を大切に使うのよ、とおばあさまは私に語りかけた。


 ◆


 カヤ、と、竹の葉がさらさらと鳴る世界で、ミヤコ様が私を呼ぶ。

 どこにいるの、と、その赤いくちびるが言葉を紡ぐ。

 足跡を消しては嫌よ、と。

 竹が風に揺れ、木々の隙間から黄色い目をした蛇がこちらを見ているのが分かった。ミヤコ様に瓜二つの容姿をした、しかしその黒髪は短く、蛇のような黄色い片目を持つ背の高い青年が、ただ物静かに、何の表情もなくこちらを見ているのが分かった。

 カヤ、と、ミヤコ様が呼ぶ。あなたの名はどう書くの、と問いかけてくる。


 ◆


 もうすぐ、紫の一族の末の息子が成人の儀を迎えるらしい。

 それは私が十七になって十日の、おばあさまに新しく用意してもらった下足に履き慣れたころ、耳へはいってきた情報だった。

 村中がその話題で持ちきりで、みなどこか浮足立っているように見える。

「とてもめでたいことなの?」

 私の問いかけに、先ほど採ってきたつくしの(はかま)を剥きながら、おばあさまはとてもとてもめでたいことなのよと微笑んで見せた。

「成人の儀もめでたいことなのだけどね、末の息子は紫の一族の次の(かしら)になるのですって。紺の一族をも凌ぐ強い力をもっているというわ。きっと素晴らしい百鬼夜行が見れるでしょうね」

「百鬼夜行?」

「そうよ、夜の空をね、(かしら)になった者を先頭にしてその一族とたくさんの妖怪が列をなして渡るの。シヅ様にとっては民への顔見せの儀式よ。アヤカシにとっては、あなたを信頼し、従いますという意を表す――」

「シズ様?」

 シズ様。

 ――カヤ

 御膳の重み。

 廊下を歩く感触。

 障子の奥から感じる視線。

 竹の葉の音。

 ――カヤ

 それは一瞬にして全身の穴から汗が噴き出る感覚。

「紫の一族の末の息子の名前だ。紫に都という字で、紫都しづと読む」

 凍りついた私の背後で、おじいさまが籠を編みながら言葉を放った。おばあさまはつくしに夢中。動きを止めた私を見るものなど誰もいない。

 隠さなければ。

 私が紫都さまのもとから逃げてきたことを隠さなければ。

 かつて私はとんでもなく偉い人の下で使用人をしていたらしい。広い竹庭、大きなお屋敷。そんなところから逃げ出したということが二人に知れれば、私はまたあそこのお屋敷に戻されてしまうのではないだろうか。

 みなが尊敬する紫都さまが私を殺そうとしたと分かれば、二人は私をどう扱うのだろうか。

 震えを隠すのに必死だった。

「紫の一族の大きなお屋敷の塀にね、願いを書いたろうそくに火を灯して持って行くの。それを置いておくと、妖怪たちが百鬼夜行に持って行って、ほら、カヤちゃんはアヤカシが見えないでしょう? だからそういう人には、濃紺の空に提灯(ちょうちん)が浮いているように見えるのよ」

 おばあさまは手元を見つめたまま、なおも私に教え続ける。

 そうなんだ、見てみたいな。その言葉を紡ぐのにどれだけの神経を使っただろうか。

 知られてはいけない。決して。


 ◆


 カヤ、と、竹の葉がさらさらと鳴る世界で、ミヤコ様が私を呼ぶ。

 会いたいわ、と、その赤いくちびるが言葉を紡ぐ。

 顔を隠さないで、と。

 竹が風に揺れ、木々の隙間から黄色い目をした蛇がこちらを見ているのが分かった。ミヤコ様と同じような美しい容姿をした、しかしその片目は蛇のように黄色く鋭く、その瞳がある方の白い頬にまるで鱗のような繊細な模様を持つ青年が、ただ物静かに、何の表情もなくこちらを見ているのが分かった。

 やめて、と私は泣いた。もう怖いのは十分よ。

 するとミヤコ様は私の手を包み、耳元にくちびるを近付けて、まるで内緒話をするようにこういったのだった。

 一緒に遠くへ行きましょう。履物を脱いで、それを力一杯放り投げるのよ。傘も捨てるの。紫都さまの成人の儀の時がいいわ。きっと彼は忙しいから、そのすきに遠く遠くへ隠れるのよ。

 すきとおった声。竹の葉のささやき。白く綺麗な手。

 けれど彼女の手はとても冷たく、重くさびついた鎖のようだった。

 竹林の中、青年はその黄色い瞳を光らせて、ただじっと私のことを見ていた。


 ◆


「なんだかこのごろは嫌に静かね」

 おばあさまが晴天を見上げると、おじいさまもそれにつられるようにして空を仰ぎ、低く唸った。

「カヤちゃんが来たときは、どこもかしこもあんなに騒がしかったのに」

「あれは一つのアヤカシの瘴気にあてられた妖怪たちが浮足立っていただけだ。この様子をみるとみんな紫都さまが鎮めたんだろう」

 澄みわたった青空の中に二人は何を見ているのだろう。ときどき会話に出てくる紫都さまという単語に怯えながらも、それを知られまいとして天を仰ぐ。

「カヤは何も心配をしなくていい。ほら、日焼けは後が辛いから、ちゃんと藁笠をつけなさい」

 おじいさまが私に藁笠を差し出す。

「そうよ、おばあちゃんがあげた下足もちゃんとひもを結んで履くのよ。そうだわ、ねえ、山へお参りに行きましょうか」

 おばあさまが微笑む。

 この穏やかな時間がずっと続けばいいのに。

 トンビの鳴く声、木洩れ日、柔らかい土に降り積もった落ち葉、おばあさまの作ってくれたご飯、おじいさまのいびき。私はこの世界が大好きだ。とても大切な何気ない毎日。

 だから成人の儀の日が来るのが怖かった。一族の代替わりも兼ねたこの儀式を終え、強い力に加えて権力をも手に入れた紫都さまがまっさきに私を探しに来たら、という不安が大きくなるばかりだった。竹庭を抜け出して見つけた世界が奪われてしまうような気がして息が苦しくなった。


 ◆


「どうしても?」

「どうしても」

「私、気分が悪いの」

「それなら尚更一人にはできないわ」

 どれだけぐずっても、おじいさまとおばあさまは私を連れて行こうとした。

 今日は紫都さまの成人の儀。村の者はみな家を空け、願い事を書いたろうそくを持ってお屋敷へと足を運ぶ。

 並ぶ屋台、酒の匂い、笑い声、どこからともなく聞こえてくるお囃子。道という道は人であふれかえり、空間には活気に満ちた明るい音が響きわたる。

「妖怪たちもなんだかはしゃいでいるようね」

「滅多にないお祭りだからな。カヤ、ちゃんと笠をかぶりなさい」

「はぐれないようにね」

 足にはおばあさまが送ってくれた履物。頭にはおじいさまが用意してくれた藁笠をかぶって。この人込みの中で藁笠をかぶるととても動きにくく、あちらこちらの人に押されて目が回った。

 一歩を踏み出すごとに鮮明になっていく音色。

 竹の葉の音が近づいてくる。いいえ、近づいているのは私。どうして逃げだしたところへわざわざ戻ってきているのだろう。

 ヤエは元気だろうか。ミヤコ様は。

 竹の葉の涼やかな音が近づいてくる。

「少し休憩しましょうか。カヤちゃんの顔色が悪いわ」

 一度越えたことのあるお屋敷の塀を目前にして、私は強いめまいを覚えた。今にも倒れてしまいそうなのはきっと恐怖のせい。

 あの塀の向こう、あの竹林にかこまれたお屋敷でかつて紫都さまに御膳を運び、その視線に怯えた毎日。

 これ以上近づきたくない。怖い。とらえられてしまう。

「ごめんなさい、人の波に酔ったの」

 けれどそんな恐怖を素直に伝えるわけにもいかず、心配そうにこちらを見つめる二人に嘘をつくしかなかった。

 おばあさまに肩を抱かれながら、近くの屋台に置かれた椅子へと腰掛ける。おじいさまは手ぬぐいを濡らしに、人ごみの中へと消えていった。

 震える息、冷たくなった指先。

 落ち着かなければ。背中を撫でてもらい、深く深く呼吸をする。

「おばあさま、お願い、私のぶんもろうそくを置いてきてほしいの」

 それですぐに帰りましょう。家へ帰りましょう。

「カヤちゃん、もう少しよ、頑張って」

 けれどおばあさまは懇願する私を困ったように見て笑うだけで、差し出したろうそくを受け取ろうとしない。

 風が頬を撫で、さらさらと竹の葉が音色を奏でる。いやだ、聞きたくない。

「お願い、おばあさま、お願いよ」

「けれど、でもね、カヤちゃん」

 揺れるおばあさまの瞳。背中を撫でる優しい暖かな手。

 受け取り手のいないろうそくから顔をあげて、落ち着かない呼吸の中、お屋敷の壁に視線を移す。

 行き交う人のあいだ、白い塀の側へずらりと並んで取り付けられた棚にろうそくを立てては両手を合わせて拝む人の姿。みんなは何をお願いしたのだろうか。おばあさまとおじいさまはなにをお願いするのだろうか。

 竹林が涼しげな音を鳴らす。

「私たちはカヤちゃんを」

 背中を撫でる穏やかな手。大好きな手。

 さらさらと竹の葉が揺れる。

 目があった。人びとの隙間からこちらを見つめる一つの影と。

 それはミヤコ様と瓜二つの容姿をした、しかし高い背、黒く長い前髪で顔の片方を隠した青年。夢で見た、蛇の。

 私のおくれ毛が風に揺れる。それに合わせて彼の艶やかな黒髪が空気にたゆたい、ふわりと音もなく垣間見えた黄色い瞳、鱗のような細かい痣。

 彼は夢で見た蛇の青年。

 夢で。

 くちびるを動かす姿を初めて見た。カヤ、と。

 黄色い蛇の片目。

 異形。

 私がかつて使えた竹庭の(あるじ)

 紫都さま。

「私たちはカヤちゃんを紫都さまのもとまで連れて行かないといけないのよ」

 この幸せな毎日が続きますように。

 そう書かれたろうそくは硬い地面にぶつかり、ころころと転がってから、見知らぬ誰かに踏みつぶされた。

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