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私がここに連れてこられたのは、五つのころ。
私と同じくらいの年の子どもが他にも四、五人ほどいた。
挨拶は杜若の間で行われた。私たちは畳の上でただ正座をしているだけでよく、御簾の向こうにいる誰かに顔を見せるだけの儀式だった。
◆
このお屋敷にはシズ様と呼ばれる異形がいるのだそうだ。私たちはその使用人。
ここの使用人はみんな共通するものがある。それは、このお屋敷を抜け出せば行く当てがないこと。親もなし、きょうだいもなし。幼い頃からこの高い塀の中で過ごしてきた私たちにとって外の世界は未知であり、ここ以外で生きていくすべを知らない。
私たちは誰に教えられるでもなく、先輩の姿を見て振る舞いや常識を学ぶ。だから私は、菖蒲の間にいるのが異形の者で、とても恐ろしいモノノケだということを、実際にこの目で見たことなど無いのに知っていた。
できるなら、こんな恐ろしい所なんてさっさと出ていきたかった。外の世界で生きるすべさえ分かれば。行く当てさえあれば。
私は菖蒲の間へ行ったことはない。あそこに近づいていいのは、使用人の中でも見目が麗しい者だけだと、とうの昔に学んだ。
私はいつも影の仕事。誰にも目につかないような場所で、今日は豆のすじ取りをしている。
囲いの外は竹が生い茂り、初夏の風にあおられてさらさらと音を立てる。私はこの音色が好きだ。
この竹林をぬけるとどのような景色が見えるのだろう。たくさんの人がいて、たくさんの家があって、広い空があって、どこまでも続く川があって。
そう思いを馳せているとき、私の近くで砂利を踏む音がした。
少女だった。
そこに立っていたのは私と同じくらいの年の美しい少女。胸元までまっすぐ伸びた黒髪に、桜色の頬、麗しい黒曜石の瞳、瑞々しい赤いくちびる。
初めて見る。使用人だろうか、それとも貴い身分の方だろうか。
私はどうすればいいのか分からず、不躾に美少女を見つめたまま、手には豆を持ったまま。ただその美しさに釘づけになってしまった。
珠のような輝きを放つ少女は、そのまっすぐな黒髪を風になびかせ、私へと歩み寄った。
「お名前は?」
彼女の口から放たれたのは、耳心地の良い声だった。聡明さがにじみ出るような美しい声だった。
「カヤと申します」
私はあわてて豆をざるへと戻し、手をついて頭を下げた。この少女はきっと高貴なお方なのだ。なぜここにいるのかは分からないけれど、もしかしたらシズ様と何かご縁がある方なのかもしれない。不躾に見つめてしまったことにヒヤリとしながらも、額を床へとつける。
「カヤ、カヤ……」
少女は私の名を繰り返し呟く。彼女が次に何を言うのだろうかと、私の心臓が音を立てる。
「カヤはいま何をしているの?」
「豆のすじ取りをしております」
少女が近づいてくる。竹の葉が風に揺れてさらさらと音を立てる。
「豆のすじ取りを…」
頭をあげて、と言われて体勢を元に戻すと、上げた視線の先にいる彼女はひどく豆に興味津々な様子だった。これは何だろうか、とその美しい瞳が雄弁に語り。
「やり方を教えてくれない?」
躊躇う私をよそに少女は私の隣へ身軽に腰かけ、豆をひとつ手に取ると、なんだかとても楽しそうに笑いかけてきた。その笑顔がなんとも愛らしくて可憐で、微笑み返さずにはいられなかった。
少女はミヤコ様といい、年は私より一つ上の九歳。それ以外は何も教えてはくれなかったけれど、彼女の手はあかぎれ一つ知らない綺麗なもので、丁寧に研がれた爪先がその身分の高さを少しだけ語っているようだった。
「カヤはシズ様のこと、どのくらい知っている?」
「何も。あの方の性別さえ存じておりません」
「そう。シズ様は男性よ。他にはなにか知りたいことはある?」
大抵はミヤコ様が質問をし、私がそれに答える。そのような形で私たちは様々なことを話した。単純なやりとりではあったけれど、お互いが初対面なことや普段話すことのない話題であったことが原因なのか、とても新鮮で色鮮やかな時間だった。
「おはよう、カヤ」
五日に一回、三日に一回、二日に一回、ついには毎日の頻度で彼女は私のもとを訪れるようになった。それは決まって誰もいないとき。彼女は人目を憚るようにして私に会いに来る。
「今日はずいぶん不安そうな顔をしているけれど、カヤ、どうかしたの?」
「御膳を」
「御膳?」
「シズ様に運ぶことになったのです。それが何だか不安で」
そう。今朝、使用人の長から私に命が下ったのだ。晩御飯の御膳を私が運ぶことになった、と。それは見目の麗しい使用人たちの仕事であり、私には縁のないこと。そう思っていたのに、なぜ。
ああ、そのこと、とミヤコ様は鈴を転がすように愛らしく笑い、その次には私の手をその白魚のようななめらかな手で包んだ。
秋風に揺れて竹の葉がさらさらと音を立てた。とても静かな空間。
「大丈夫、心配しないで。シズ様もカヤに興味があるだけだから」
「シズ様が? 私に? ミヤコ様が私のことをシズ様にお話しになったのですか?」
「そうそう、そういうこと」
竹の葉がさらさらと鳴り、それに合わせてミヤコ様の黒髪がたゆたう。彼女はどういうつもりでシズ様に私のことを話したのだろうか。
◆
夜が来るのがとても長く感じられた。その一方で、出来上がった豪華な御膳を目の前に、時が来るのはとても早いと感じている自分もいた。
「カヤ、行きましょう」
御膳を運ぶのは私一人ではない。私と同じ年のヤエはその見目の良さから御膳運びに抜擢され、もう二年もこの仕事をやっている大先輩だ。
「ぼさっとしないで。一つでもお椀を倒せば殺されるわよ」
ヤエは見た目の可愛さとは相反する厳しい性格をしている。だから私は少し苦手だけれど、彼女から作法を学ぶしかなく黙って言うことを聞くしかなかった。
二段に重ねた御膳を抱えて長い廊下をひたひた歩く。思った以上に重い。ちゃんと菖蒲の間まで持って行けるだろうか。
そうやって不安に駆られているうち、いつの間にか菖蒲の間にたどり着いたようで、立ち止まったヤエにぶつからないように私も歩くのをやめる。そして無言の命令に従い御膳を置き、彼女を真似して正座をし、三つ指をついて首を垂れれば。
「御食事をお持ちいたしました」
ヤエの凛とした声が廊下を駆け、しばらくの沈黙。
とてもどきどきした。それは闇から物の怪がでてくるのを待つ恐怖だった。心臓の音に混じって竹が風に揺れる音色が聞こえる。緊張のあまり、気が遠くなってしまいそう。
そうして幾ばくかしたとき、すっと障子が開く音がした。
ひた、と、私たちの前で大きな人間が動く気配がする。ことりと御膳が音を立てて浮き上がる感覚。それはとても静かで奇妙な時間で、しかし目の前の気配よりも私は開け放たれた障子の奥から漂う気迫に手に汗握るようなものを感じた。
見られている。視線を感じる。
きっとこの障子の向こう、菖蒲の間には異形と呼ばれるシズ様がいるのだ。
◆
「どうだった?」
膝に猫を乗せながら、ミヤコ様が私に尋ねてきた。
「とても緊張しました。部屋から出てきたのは御付きの方だったのでしょうけど、その奥にシズ様がいると思うと…」
昨晩のことを思い出して、私はぎゅっと手を握り締める。
「こわかった?」
「正直なところ、とても」
「そう」
シズ様を怖いと敬遠した私をミヤコ様はどう思ったのだろう。けれども彼女は慣れっこだと言うように気に留める風でもなく、穏やかな表情で猫をなでるのだった。
◆
たった一度だけだと思っていた御膳を運ぶ仕事。しかし、八つのあのときから十二になった今でもそれは終わらなかった。
「カヤ、これをシズ様へ持って行って。重いから慎重に行くのよ」
ヤエはいつしかその仕事を後輩に引きつぎ、今は料理の盛り付けをしている。私は毎夜のようにシズ様の視線に怯え、綺麗な後輩と共に黙って御膳を運んだ。
シズ様の視線に耐えつつ御膳が菖蒲の間へと消えていくのを待つとき、私はいつも竹の葉が風に揺れるのを聞きながら、どうしてこんなところにいるのだろうと考えた。
「ぼうっとしてどうしたの?」
洗濯物を干す手を止めた私を不思議そうに見つめるミヤコ様。
「あの高い塀の向こうに何があるのか気になって」
白い囲いの外、竹林を抜ければ、そこにはどんな景色が広がっているのだろう。
ここはまるで檻だ。こんな閉塞的な空間で私は一生を終えるのだろうか。
「外が気になるの?」
ミヤコ様の問いに私は控えめに頷く。すると彼女はすっと口角を下げて不機嫌になり、外はつまらないところだと呟いた。
「色んな欲にまみれた醜いところなのよ。カヤには生き辛いに違いないわ」
彼女は私と違って外のことをたくさん知っていた。でこぼこの砂利道にあばら家、薄汚い衣をまとった人間に醜い妖怪。ミヤコ様は私に、外の世界は地獄だと丁寧に教えてくれた。そしてここはとある分家の離れで、この竹林もシズ様の一族の所有地なのだそう。
「ここにいれば一生危険な目にあわなくていいのに、それでも外へ行きたいと思う?」
「…いいえ」
私はミヤコ様の問いに首を横に振った。けれども外への興味が薄れたわけではなく、高い塀を見つめながら私はぼんやりと考える。
外の世界へ行ってたくさんの人と出会い、苦労しながらも生活しているうちに一人の男性と恋に落ちる。そして愛する人の子どもを産んで、みんなで同じ釜の飯を食べ、畑を耕し田を植えて、ときには災害に苦しみながらも家族で困難を乗り切るのだ。
それは決して楽な道ではないだろうけれど、私にとっては理想の人生。蔵で読んだ書物の主人公ウメを模倣した命の軌跡。
さらさらと竹の葉が音を奏でる。この音は好きだ。すきとおった音。ミヤコ様の声のような。
私はまだ十二で、恋に恋するいたいけな少女だった。
その隣、私をじっと見つめる視線など気付きもしない無知の少女だった。
◆
その日からだんだんとミヤコ様はしゃべらなくなっていき、私が十三になるころには一切の言葉を発しなくなった。
のどの調子が悪いのだと、手に文字を書いて教えてくれたその笑顔はいつもと変わらず珠のような輝きを放ち、肩からさらりと落ちる黒髪はなおも艶やかだったけれど、私の手を見つめるように伏せられた顔は少しくたびれているように見えた。
「カヤ、これをシズ様に」
御膳運びのお仕事は相変わらず私と綺麗な後輩が務めており、未だこの目で見たことのないシズ様の視線に怯える夜をすごしている。
毎日の仕事は変わらないのに、変化していく日々の生活。
ミヤコ様は次第に私のもとを訪れる回数を減らしていき、私はまた、ミヤコ様と会う前の毎日に逆戻り。
会わないことが当たり前になる頃には、私も十五になっていた。
一日というものはこんなにも無機質で退屈なものだっただろうか。
時おり初めてミヤコ様と会ったあの日に思いを馳せては、風にあおられた竹の葉とともに現実へと戻ってくる。
あの日も今日のように豆のすじ取りをしていた。高い塀が見えるこの場所で。誰もいないこの場所で。
ミヤコ様の手は白く綺麗だった。荒れた私の手とは大違い。この手荒れが治る日は来るのだろうか。左手で右手のひらをそっと撫でる。
このまま一生、冷たい水で使用人の衣服を洗い、料理の下ごしらえをして、毎夜怯えて御膳を運び――
どうして私はここにいるのだろう。
考えないようにしてきた疑問は、ふとしたときに姿を現す。
いつまで私はここにいるのだろう。
小説に描かれた外の世界は、たくさんの人が行き交い、四季折々の花が咲き乱れ、空は広く、道も川もどこまででも続いている。
私はその美しい世界を見ることもなく、この竹庭の中で朽ち果てていくのだろうか。この白く高い塀の中で。
「外に出たい」
自然と漏れた言葉だった。それは初夏の風と共に竹林の音色にとけこんでいった。
「なんてね」
私は叶わない願いに嘲笑し、また豆のすじ取りを再開した。
そうこうしているうちに日は傾き始め、使用人たちがお屋敷に明かりを灯しはじめる。もうそろそろ晩御飯の支度の時間だ。そしてそのあとは御膳運びの時間。
憂鬱な気分を振り払うように私は豆の入ったかごを小脇に抱えて勢いよく立ち上がり、振り向いた先――
「ヤエ」
夕闇に染まろうとしている廊下に紛れた彼女にギョッとした。ヤエは肩で息をしており、今は立ち止まっているものの先ほどまで走っていたらしい。
どうしたの、という言葉を発する前に、彼女は私のもとへと勢いよく駆け寄り、そして力強く私の肩をつかんだかと思うと揺さぶりはじめた。足元に豆がころころと落ちる。
「カヤ! あんたなにやったの!」
小さいながらも厳しい声。ヤエはずいぶんと焦燥しきっているようだった。
「シズ様があんたを探してる!」
ざわざわと竹林が揺れる。奇妙なほど騒がしいのは、竹か風か、それともお屋敷の中か。
――カヤ
なぜか一瞬ミヤコ様の笑い声がこだました。シズ様はミヤコ様のことを私にお話しになるつもりだろうか。今はもう姿を見せることのないミヤコ様について。
――カヤ
弾かれるようにしてその場を動いた私を、ヤエが必死の形相で止める。
「どこに行くつもり!」
「シズ様のところへ」
「ばか! 殺されるわよ!」
コロサレル。シズ様に。
彼女が何を根拠にそれを言ったのかは分からない。けれどもその言葉は私の背筋を這いあがり、強烈な恐怖となって脳を刺激した。
なぜシズ様は私を探しているのだろうか。
もしも。
もしも、ミヤコ様が声を失ってしまったのが私のせいだったら。そもそもなぜミヤコ様は毎日このお屋敷に姿を現していたのだろう。ミヤコ様はここを分家の屋敷の離れだと言った。なぜミヤコ様は毎日離れなどに姿を――
ミヤコ様が養生のために離れにいたのだったら。ミヤコ様がもともと身体の弱い方だったら。私と違って、病弱な者は日光や風に毎日さらされて平気なのだろうか。ときには寒い冬の日に雪うさぎを作って遊んだけれど、病弱なミヤコ様は平気だったのだろうか。
なぜミヤコ様は私に会いに来なくなったのだろう。
私がミヤコ様を殺したのだろうか。私が。
――殺されるわよ!
シズ様が私を探している。ミヤコ様を野晒しにした私を。
「ぼさっとしている場合じゃないわ! ぐず!」
ヤエは見た目の可愛さとは相反して厳しい性格だった。はっきりと物言うその口がとても苦手だった。
「逃げなさい! ほら下足よ! あんたいま裸足でしょ、私のをあげるから、あそこの塀を上って逃げるの」
けれどいつも彼女は愚図な私に助け船をよこしてくれるいい人だった。
懐から取り出された履物を私に押し付けて、ヤエは周りに誰も人がいないことを伺う。そうして私の手を引っ張ると、塀のそばまでやってきてひと際高い木を指さした。
「私じゃあんたを担いでもあの塀を越えられないわ。だからあれを伝って越えるの。木のぼりはできるでしょ、私が見張ってるから人が来ないうちに早く!」
夕闇の中、竹林の隙間へと消えていく太陽に追いすがるようにして私は木を登り、塀へと飛び移り、一番そばにある竹を伝って塀の外へと着地して。白い壁が視界を遮る直前、ヤエがそっと手を振っているのが見えた。
私を逃がした心優しいヤエ、どうかご無事で。
初めての感覚に感動する間もなく私は彼女からもらった下足を履いて竹林を駆ける。奇妙なほど葉の音が騒がしかった。妖怪が私を追いかけているようだった。
二つ目の塀があった。けれどそれはあのお屋敷よりも随分と低いもので、少し竹をよじ登れば簡単に越えられるものだった。
そして初めて目にした外の世界。
二つ目の塀の外に竹林はなく、ちらほらと行き交う人びとの影、おおきな砂利道、明かりの灯った小さな家。けれどそんなものを楽しんでいる余裕もなく、私はただひたすらに風を切って走る。竹林の音が聞こえなくなるまでずっと。妖怪が私を追いかけるのを諦めたと感じるまでずっと。
そうやって無我夢中で走り、走り、どこまで来たのか分からないくらい走ったとき、私は道中の些細な小石に躓いて転び、その場にうずくまって大泣きをしたのだった。