この小さな
この小さな世界のなか、僕は人間であることと、どうやら男であるということ以外に自分のことを知らなかった。
だけれど彼女のことはよく知っていた。というのも、僕からはその世界には彼女しか見えなかったからだ。
僕と彼女の世界は、ひどく違っている。彼女の世界にはなんでもあって、一秒一秒変化していくのだけど、僕の世界は彼女が筆を取らない限り変化することがなかった。何より、僕の世界は彼女の世界と比べ物にならないほどに小さかった。
ここまで言ってしまえばわかるだろうけど、僕は彼女に描かれた絵だったのだ。
彼女は僕にとって創世主だったけど、初めのうちは何も感じていなかった。ただ彼女といったら、四六時中僕をじっと見つめるものだから僕も恥ずかしくなってしまって、彼女を意識せざるを得なかったのだ。
そして僕は気付いた。気付いてしまったのだ。
彼女が僕を見ることがなくなったら、きっと僕は消えてしまうのだろう、と。僕が存在するということを証明できなくなって、僕自身でさえ僕を忘れてしまうだろう、と。
だから僕は、温かいレモネードティーの香りが鼻孔をくすぐるととても嬉しくなった。また彼女が来てくれた、と。
彼女はレモネードティーが好きだった。湯気の立つティーカップにふうふうと息を吹きかけ、舌先で温度を確認する。それから彼女は僕に同じようなティーカップを持たせるのだ。
「一緒ね。美味しい?」
しかし僕はレモネードティーの味を知らなかった。彼女は僕の手にティーカップを持たせてはくれたけれど、それを僕の口に運ぶことはなかったのだ。
ただその甘い匂いだけは僕の頭を悩ませた。いつも匂いがするのに、それは僕の口には入らない。丁度、いつも目の前にいるのにどうすることもできない彼女のようだった。
しばらくして僕は、彼女の腕に抱かれて外に出た。外は初めて見たけれど、彼女ほど面白いものはなかったし、レモネードティーほど甘い匂いのものはないようだった。だけどむせかえるような草の匂いは、僕はちょっと嫌いじゃないなと思った。
そして僕は、彼女の手によって知らない男の人に手渡された。その日から僕は、その男の部屋に飾られることになったのである。
男は、背が高くてクールを装ったようなやつだった。なぜ装ったと言ったかというと、男は僕の前だと自分に自信がないというように不安げな顔をするからだ。
ある時なんかは眉を八の字にして、
「あの子は俺のことをどう思っているんだろう? なあ、お前ならわかるだろう、あの子に描かれた俺なんだから」
その時初めて、僕はこの男をモデルに描かれたのだということを知った。
まあそれはいいとして、この男の馬鹿さ加減には呆れた。そんなこと知るかよと僕は思って、ツンとすましたままでいた。
この男をモデルに描かれたのだとして、それでも僕はこの男よりも格好いい自信があった。しかしそうだとしても、彼女は僕じゃなくてこの男を取るということなどは、考えるまでもなくわかった。
喋るから? 動くから? 温かいから?
僕は結局、彼女に造られた偽物。
うじうじうじうじ鬱陶しく悩む男に、僕は最終的には可哀想になってしまった。
嫌いな男の絵を何日もかけて描くわけがないだろう、と僕は視線で訴えてやった。それが功を奏したかどうか知らないが、男は彼女に告白したらしい。
僕は二人の部屋に置かれることになった。二人が仲良くやっているのはあまり楽しい光景とはいえなかったが、僕はそれでもよかった。
やがて僕は、誰の部屋でもない部屋に置かれるようになった。誰かが立ち入ることもないような部屋で、僕はずっと考えていた。
初めて彼女の目を見たとき。黄色の絵の具を頬っぺたにくっつけて、半袖をまくりあげて、真剣そのものの瞳をした愛らしい女の子。レモネードティーの湯気の香り。愛おしげに僕を撫でた、あの柔らかい指の腹。
「泣いているの?」
何日経ったのか、何年経ったのか、何十年経ったのかもうわからなかった。一人の女の子が、僕を見上げていた。それは彼女によく似ていた。
僕は泣かないんだよ。だって僕は、レモネードティーを飲むことさえできないんだから。
女の子は興味をなくしたように、もう振り向くこともせずに部屋から消えた。
『僕の疑わない花嫁』でモデルになった女の子サイドの、絵の話。うん? 女の子の描いた、絵の中の男の子サイドの、話?




