00:機械仕掛けは愚かにも異形を呼び出す
大きな窓からは女子テニス部の練習場が見える。閉ざして隅に寄せたカーテンの隣から、緋色の太陽が今、落ちようとしていた。
大きめの机に、落書き注意と落書きされた黒板。後ろの壁には部員の書いた絵が張り付けられている。その絵の前、真ん中の一番後ろの席に座っている美術部員がいた。
学校の規定通りに、しかし肩にはつくかつかないかのギリギリまで伸ばした、黒色の短髪。長い睫毛に縁取られた大きな黒目は、今彼女が読んでいる本の為に開いていた。真剣に読んでいる様は、宛ら読書家の優等生。
そんな彼女を呼ぶ、一つの声があった。
「きぃーちゃん! 今度は何読んでいるのさ?」
きぃちゃんと呼ばれた彼女――黒翅麻妃は顔を上げる。愛称で声をかけた先輩を見て、小さく、呟くように言った。
「…………黒魔術大全、です」
「おお、やっぱオカルト系? きぃちゃん、本当に好きだねー、そういうの」
麻妃を先程から『きぃちゃん』と呼んでいるのは、同じ美術部の先輩だった。
無表情であまり人を寄せ付けない麻妃を親しく話している彼女は、加瀬瑞貴。
色素の薄い髪に、青色の目。赤渕の眼鏡と、長い髪を軽く結んでいる、右側の赤色のリボンが彼女のチャームポイントとなっている。瑞貴は顔はそれなりにいいが、麻妃ほどではなく、また眼鏡を外すと特徴のなくなる彼女は、麻妃の数少ない友人だった。
瑞貴は近くに置いてあった自分の鞄を引き寄せ、その中から一つの本を出した。書店の白いカバーが付いており、題名は窺えない。
「今日は悪趣味なきぃちゃんの為に、ちょっと面白そうな本を持ってきてやったぞーい!」
悪趣味とは失礼な。麻妃はそう思ったが口に出すことはなかった。
それがいいのだと、頭の中で最善策だと言われたからだ。
本を開いてパラパラとページを捲る姿は、どうもご機嫌だ。麻妃は瑞貴を見ながら、そう思った。
少しして瑞貴が麻妃の目の前に、ズイッと本を出してきた。近すぎて、ページの内容が見えない。仕方なく今読んでいる本に栞を挟み、瑞貴の本を手に取った。
「――――ね、これ、試してみない?」
瑞貴がそう提案しながら指で示したのは、そのページの左上にあるイラスト。よくファンタジーで見かけるそれは、六芒星を元にした魔法陣のようなもの。開いた右ページの右上にタイトルだろう、大きく【悪魔召喚術~上級編~】と書かれており、本の最後にはその陣が大きくコピーされた紙が四つ折りに挟まれており、一ページ目の目次からそれは付録だと分かる。
「悪魔、召喚したいんですか」
抑揚のない声で、麻妃が問う。
「うん。きぃちゃんが楽しそーに読んでるからさ、あたしもなんかチャレンジしたくなったって、キャー! 瑞貴ちゃんったら恐ろしい! 悪魔召喚しようとしてるよ! キャー、こわーい! でも瑞貴ちゃんカッコいい!」
頬に両手を当てて自画自賛するハイテンションな瑞貴に、何事かと美術部員は振り返るが、瑞貴を見ると即行で顔を逸らす。中には声に出して、またか、と呟く者もいた。
「――――それで、それは本気ですか?」
「もっちのろんッ!」
「餅のロン?」
「勿論、ってこと! なになに、興味湧いちゃった? やる? やるよね! やっちゃお!」
まるで親に悪戯しようとする子供のように、ご機嫌に自答を繰り返す。
「えっとね、きぃちゃんは今日、あたしの家に泊まりに来よう、そうしよう! それでね、今日の夜の零時になったら、部屋の中でドバーンと召喚しちゃお!」
ドバーン、と言う時に両腕を広げ、瑞貴は声を上げて笑って見せた。その様子に、麻妃は首を傾げる。
はて、悪魔は水じゃなかったはずだが。効果音を間違っていないだろうか。瑞貴の笑顔があまりにも自信に満ちていたがために、麻妃はそれが合っていると錯覚に落ちかけた。その後すぐに、違うと首を振って繰り返しす。
「つまり、今日、加瀬先輩の家で悪魔を召喚するために私が呼ばれたわけですね」
「そうッ! ――と、いうわけで今から一緒に帰ろう、きぃちゃん!」
「今からですか」
「今からですよ! ご飯ですよ!」
ご飯? 麻妃はまた疑問に思いながらも、口にはしない。質問しても、どうせもっと不可解な単語が返ってくるだけだ。
栞を挟んでいた本を奪われ鞄の中へ。その鞄と麻妃の腕を引っ張って、瑞貴は美術室を後にした。
そんな様子を見た、美術部で数少ない男子部員が、その後ろをじっと見つめているのに気付かないまま。
※
お邪魔します、と瑞貴の部屋の前でお辞儀する麻妃。そんな光景を見ながら、瑞貴は冗談半分で麻妃の真似をした後、部屋の中に入った。
家に入る時。リビングにいる瑞貴の両親に顔を見せた時。夕食から戻る時。風呂前に着替えを取りに来たとき。風呂に入った後、戻って来た時。
いつも丁寧にお辞儀をする麻妃に、瑞貴は半ば呆れ、また関心していた。今時、ここまで礼儀正しい子はいないと。だが、少し堅苦しくはないか、と。
水分を取りにリビングに行った二人だが、今はもうそれには相応しくない時間である。部屋の中の時計は零時六分前を示している。窓の外はもう闇に包まれていて、時折雲があって見えないが、綺麗な月と星が煌めいていた。瑞貴の両親も既に眠っており、家の中もシンとしている。
瑞貴の部屋は赤をベースに、キラキラした物が多かった。窓には潤朱色のカーテンに、それを留めるデコレーションされたタッセル。机の上にあるノートもペンでいろいろ書かれていた。ベッドにはフリルがついている。
麻妃に瑞貴の趣味はよく分からないが、誰が見ても分かった。少しやりすぎなのではないかと。きっと、麻妃は瑞貴と趣味を分かり合えない運命である。
瑞貴は陣をコピーした付録を床に広げる。その上に持ってきた蝋燭を四本、角に置いて開けた窓から入ってきた風に飛ばないようにした。
自身が着ている薄い赤の寝間着のポケットからマッチを出して、瑞貴は蝋燭に火をつけた。少々風が荒いため、火が揺れるが、それだけだ。消える気配はない。
麻妃がその様子を見ていると、瑞貴が零時になるあと二分と言うところで、麻妃に部屋の電気を消すように言った。
言われた通り、麻妃は部屋の角でドアの隣にあったスイッチを押した。
真っ暗になる部屋の中。一気に見づらくなる、視界の中。その場は蝋燭の炎が、唯一の灯りだった。その灯りに照らされた瑞貴の顔が麻妃の方に向いていて、そのことに気付いた麻妃が首を傾げると、瑞貴が自分の向かい側に座るようにジェスチャーした。麻妃は素直に従い、陣を挟んだ瑞貴の真正面に座る。
こんな安易なもので、悪魔が召喚されるわけがない。
麻妃はそう思っていても、目の前で期待に笑顔を咲かせる瑞貴に、そんなことが言えるはずはなかった。
――――せめて、生贄でも用意すれば、それらしくなったかもしれない。
物騒だが、麻妃はそう思った。そして、その麻妃の思考を読んだように、瑞貴が場違いな大声を上げる。
「あー! やっばい、やっばい! 忘れるところだった、生贄用意しなくちゃね!」
「――――用意するつもりだったんですね」
「あったりまえよー! ほら、代償払えとか言ってくるかもしれないし! 願いを叶える変わりに、お前の大切なものを差し出せー、ってやつ!」
そういう場面は、物語の中によくある。だが、その時出せと言われる代償は、命より大事なものだとか、魂なのだとか。代償が必要かもしれないという知識はあるのに、肝心のその代償が、今瑞貴が抱いているボロボロのぬいぐるみだと言うから、麻妃は完全に何も言えなくなる。ただ、溜息は隠さずに吐いていた。
瑞貴が再度同じ場所に座ると、もう零時になるまで一分を切っていた。
「――――――――それじゃあ、始めようか」
「はい」
予め開いていた本のページを、灯りである蝋燭に近付けて括目する。
瑞貴が、弾んだ声で言の葉を紡ぐ。
「〝現世に現れ、その全てを鼓動に焼き付けよ。今、汝を招来する――――――序列二十四番の勇敢なる侯爵、底無し穴の霊〟」
それは、ソロモンの七十二柱のうちの、十九の軍団を指揮する二十四番目の魔神。別名かそれとも別の悪魔か、ケルベロスとも言われている。失われた威厳や名誉を回復する力を持つ。底なし穴の亡霊は、ケルベロスの名の意味だ。
そして――――――何も起きなかった。
静かな空気はよりその場を凍らせることとなる。何も起きない陣を見て、麻妃は矢張り、という顔。瑞貴は、おかしいな、と陣を覗き込む。
その時だった。陣が唐突に光を発し、目を開けていられないほど視界が眩しくなる。窓の方向からではなく、陣から風が吹いたと気付いた時、麻妃は本能から危険を予想して後退した。
光が引いた時、陣の上には一人の少年が立っていた。
その少年は麻妃と瑞貴にとって、とても馴染み深い人物で…………。
――――――――――ギョロッ
学ランを着て、ゆらりと俯いた顔を上げたその少年は、日本人には有り得ない紅い眼を瑞貴に向けた。ギラギラと光っている眼球には、貪欲なまでの欲望で埋め尽くされている。
「片崎、くん?」
瑞貴は呻くそうに、声を絞り上げてそう言った。
陣の上に立っている少年――片崎は、瑞貴が部長をやっている美術部の男子部員の一人であった。
瑞貴のその声が合図に、片桐が獣のような咆哮を出す。獣じゃないが、しかしその声は人が出すような声ではなかった。
咆哮と共に片桐の体が崩れ、裂かれていく。まるで、その人間の体が抜け殻だったかのように。
脇の下が裂け、そこから黒い羽が飛び出した。首が裂け、そこから眼球が生まれる。
「ひッ――」
瑞貴の悲鳴と同時に、その化け物は姿を現した。
抜け殻からはドボドボと血の塊が落ちる。
巨大な鴉と言えば、それで終わる。だが、それだけじゃない。
大きな黒羽の下には、体を包むように大量の眼球が覗く。それら全てが禍々しい血の色で、暗闇の中では恐怖心を煽るのに十分だった。
――――――――――ガガガガガガガガガッガギャアアアアギャヤアヤア!!
忙しなく喚く化け物。それは、どうやら先程と同じ咆哮だったらしく、紅の眼が揺れ動く。
化け物が黒羽を動かすと、儀式途中、窓から入ってきた小風とは比べ物にならないほどの狂風が、瑞貴と麻妃を襲った。
麻妃は呟く。
「動いてください。アナタは必ず、私の役に立つことでしょう」
それは、誰にも聞こえない呪文。
瑞貴が狂風でクローゼットに頭を打ち、気を失った。
麻妃は足に全力を注いで、その場で踏ん張る。狂風は一度だけで、その化け物は麻妃と瑞貴に構わず、全開にしていた大きな窓から飛んでいく。
化け物がいなくなった部屋で、麻妃が一度深呼吸をする。
――――先程、異形が大きな咆哮が上げたと言うのに、人は全く起きてこない。
そして、気絶した瑞貴を放り、異常性を知った上で麻妃は異形のあとを追った。
2013/04/19 文章改訂
瑞貴と麻紀の名前を間違っていたので、「ん?」となったと思います
すみませんでした