00:悪魔は支配者に傅く
ブディライシン城――その世界にある唯一の黒い城の正式名称だ。その名は狂い力を意味しており、その世界で最も強大な力を有する者が暮らす城である。
そんな仰々しい名がある城だが、一般的に正式名称が知られていない。
それは何故か。
ブディライシン城は、一般的に別称で呼ばれていたから。
城の別称は――――魔王城。そこは、世界の統治者である、魔王がいる場所であった。
※
黒光りした城は、アルトにとって見慣れた自身の家だった。
城に纏わりついている、魔力を喰らう紅色の花――喰魔花。彼岸花のように真っ赤で、しかし根本に大きな目がついているそれは、とても醜悪だった。その花の蔦は、髑髏と骨を巻き込んで棲みついている。
中へ入ろうと一歩を進めるアルトに、その喰魔花は二倍に膨れ上がり、木の幹ほどまでの太さになったところで、アルトの頭上に膨張した蔦を振り下ろす。アルトの立場に気づかず、侵入者を襲わんと喰魔花が攻撃を始めたのだ。
が。――アルトは右腕で襲い掛かった蔦を鷲掴みした。
後ろで雑に結んだ金の長髪が揺れる。紅玉を思わせる三白眼は、ギラギラと、爛々と、紅く輝いていた。
蔦を鷲掴みしたアルトの右腕は巨大化していた。幹ほど膨張した蔦よりは小さいが、獣のような指の長さに、その先は手の巨大化と共に生えた鋭い爪。いつもならキラリと光るその武器も、今では喰魔花から出た白い蜜――血変わりの液体――で汚れている。
ずっと放浪して久しぶりに来たためか、随分な蔦の歓迎を面倒くさがりながらも、アルトがようやく黒城の中へ入った。飛び散った白い液体が服にかかっていることに気付き、自身が着ている黒いコートを叩く。一、二回そうして、取れなかった分は放ったまま、アルトは城の中を進んだ。
迎える者はいない。ここには、城の主人とアルトしかいなかった。
主人は従僕を創れるが、孤独を愛していたために、この城の中へ入るのもアルトと一部の者だけだ。
寄り道することなく進んで、アルトが止まったのは一番奥にあった、扉に喰魔花を絡みつけた部屋の前。そこに、アルトを呼び出した者がいる。
ノックすることなく、アルトは乱暴に扉を開けた。鍵はかかっていなかったようで、中にいる主人もそれを分かっていたらしく、入ってきたアルトを見て、笑顔を作って見せた。
そこにいたのは、一糸纏わぬ姿でソファに座っている、黒髪黒目の青年だった。
だが、彼を青年と呼べるのは若々しい外見の所為で、実際はアルトの親になるほど歳を取っている。
アルトよりも長く腰まで無造作に伸ばしている濡れ羽の髪、しかし雑に結っているアルトとは違い、その髪は艶やかで丁寧に梳かれていた。今こそ笑顔で、自然に少し細くなっている目は鋭く。しかし元が三白眼なため、どうしても睨んでいるようにしか思えない。
青年の名前はバルド――アルトの血の繋がらない父親だ。
アルトはバルドの笑顔を見て、眉を顰める。
口を開かずとも、その顔で不快に思っているのだと分かる。
口角を上げた。
それだけの行為をした彼は、アルトに心の底から笑っていると思わせたかったらしい。
はめ込まれた真珠のように底の見えない目は、闇を思わせる。
「よお、バルド。お前に笑顔なんて作れたんだな? 初めて見たぞ。歪で不快だが無表情よりはいいんじゃねえのか」
アルトは囃す。だが、バルドはその答えに満足したらしく、今度は意図的に目を細めた。これでどうだと言わんばかりの自信が見える。
「てっきり、笑うことさえ知らなかったと思ったんだがよ。どうしたんだ、行き成り。アンタじゃ愛想よくしようなんてもんでやったことじゃねえだろ?」
ケケケッ、と今度はアルトが笑った。
バルドはアルトの話し声を聞きながら、部屋の隅を指で示して、それ、と言った。
アルトが指の方向を見ると、そこには山積みになった本が大量に。
「――――この本らが、どうしたって?」
「上から三番目のやつで、無表情の主人公のがあったんだ。笑顔の方が幸せになれるんだって、書いてあったよ」
「アンタが幸せを望むのか?」
アルトは瞠目する。心底不思議だったらしい。
「うん。幸せって言ったら、なんだろうねえ。血が降ってきたりするかなあ? それとも絶叫が聞こえるかなあ? ねえ、アルト。ちょっと僕の為に人を殺してきて?」
「いいけど、また今度な。――――今は、アンタが俺をここに呼んだ理由が知りたいんだ」
アルトがそう言うと、バルドは作った笑顔のまま、そうだね、と肯定する。
アルトはバルドの隣に座った。所々に血が滲んだ深緑のソファは、もういつ買ったものかバルドは忘れてしまった。
部屋の中は、とても薄暗かった。何かが腐ったような汚臭が鼻端を掴んで離さない。
バルドが引き裂いた白色のカーテンは変色し、ビリビリに破られて中途半端に役目を果たしている。その後ろに見える大きな窓にも、汚れが溜まってガラスの向こう側が見えない。山積みの本は煤けた物が多い。バルドは笑顔を崩さないまま、人間を模したミニマムなぬいぐるみを抱きしめた。彼の端整な顔は大人の色気があり、その姿はアルトから見ても似合わない。
「あのねえ、大変なんだ」
バルドがノンビリとそう言った。まるで大変そうには見えない。アルトは綺麗な顔を歪めて、わざと大きなため息を吐いた。
「アンタは本当、呑気だな。大変そうには見えないけど、俺を呼び出すくらいだから、もしかしなくとも俺が関係してるだろ」
「うん、そうだねえ。アルトが凄く大変」
「大変なのは俺かよ!」
思わぬ言葉に、アルトの勝気な笑みが引き攣る。バルドはそんな自分の息子を見ながら、笑顔のまま、爆弾を落とした。
「実はね、そーくんと喧嘩しちゃって。魔神の七十二柱が被害を出しているんだよね。どうもできないことはないけど、ちょーっと、困っちゃうよねえ」
「――――――は?」
「だから、アルトに処理しに行ってほしいんだ、人間界に」
「――――――は?」
「あ、大丈夫。人間界の知識があんまりないアルトのために、ちゃんと協力者を見つけておいたからね。安心して」
「――――――は? …………え?」
アルトは驚愕と困惑を同時に表す。開いた口も塞がらないとは、まさにこのこと。ポカーンと間抜けな顔を、そうさせた当人は、変な顔だね、と言った。
「待て待て待て待て。人間界って! 人間界って! いろいろ聞きたいことはあるけどな、馬鹿バルド! 取り敢えずそーくんって誰だ?」
冷静でいようとするも、抑えられない焦燥が声に出る。アルトは早口で、バルドに疑問を捲くし立てた。
「そーくんはそーくんだよ。アルトも会ったことあるよ、ソロモン」
「ソロ、モン…………?」
その名前を聞いて、アルトは暫し思考する。だが、頭の中を巡らせても、名前は知っているのだが顔が思い出せない。
「あれ、覚えてない? アルト、前に言ってたじゃん。印象が薄すぎて逆に印象に残る人だな、って……」
その時、一人ののっぺりした平凡な顔が思い浮かぶ。
「ああ! この前会った、存在感薄すぎるあの人か!」
「アルトがそう覚えているなら、そうなんだろうねえ……」
ソロモンはバルドの友人で、魔神の七十二柱を従えているわりには、威厳がない上に短気な男である。そもそも、バルドと本当に友人かも怪しい。バルドが一方的に言っているだけであって、ソロモンはいつも敵愾心を持っているし、今バルドが言った喧嘩も、あちらにしては戦争だったりするかもしれない。
アルトは二人の関係をよく知らないが、一度会って時の態度でそう解釈した。
――そう。つまりはソロモンがバルドと喧嘩して怒り狂い、人間界に魔神を解き放して困っている、と。
「ふざけんな!」
物事を理解したアルト叫び、バルドに吠えた。
まだ、バルドは貼り付けて無理矢理作った笑顔のままである。その歪な笑みに、アルトは更に不愉快な思いにさせられる。
「結局はアンタと影薄いあの野郎の尻拭いじゃねえかよ!」
「ううーん、そうとも言うけど…………」
「そうしか言わねえだろうがッ!」
まだ百七十歳――人間で十二歳――のであるアルトは、小さな体から大きな声を出してキャンキャンと吠える。
「でも、アルトが人間界について学ぶのに、いいと思うけど。確か一番勉強の成果が悪いって、ディアスが言っていたよ」
「うッ――」
自分の教育係の名前を出した正論に、アルトは反論できず口籠る。
「それに人間界はみやみに人を殺したりしちゃ駄目らしいし、戦闘狂のアルトには我慢を植え付けるのに最適だと思う。この前も、魔物の一軍、殺しちゃったでしょ?」
「うッ――」
「次期魔王としても、魔力は十分だけど戦い方に未熟なところもあるし。何より、今人間界で問題が起きて、その問題が問われるのはきっと、アルトが魔王になった時だと思う」
「むむむッ――」
確かに、言われてみればそうだ。バルドの正論に、アルトは小さく唸る。だが、アルトにはどうしても人間界に行きたくない理由があった。
「でも、俺はッ! 人間が大ッ嫌いなんだ! 脆弱な人間どもに囲まれて過ごすなんて絶対に嫌だぞ!」
そう。戦闘狂のアルトは弱い者が嫌いだ。龍族と魔族、人族がいるこの世界で、人間は一番弱い。魔王が支配しているこの世界で、人間は家畜同然だ。そんな人間と共に過ごすのは、プライドが高いアルトにとって最悪なことだった。
だが、こればかりは魔王と後継者の立場。この世界の支配者であるバルドは、先程とは真逆に真剣な顔で行った。張り付けただけの笑顔も、砕けた口調も存在しない。
「――――アルト。これは魔王としての命令にする」
アルトは、その言葉に思わず頷いた。
人間は嫌いだが、威厳を纏った、支配者の言葉は絶対。魔王であるバルドの決定は、全ての決定で、決して崩せないもの。
「大丈夫。この世界のことを知っているあちらの世界の者に、協力を仰いでおくから」
もう、アルトは言葉を発しなかった。不服ではあるが、王に使われる愉悦が分からないほど、彼も愚かではない。
魔族は力に従い、力を敬う。
自身より強い魔族に従うのは喜びで、自身の力が弱いのは嘆くべきこと。
魔族の中でも変異で生まれてくる魔王の種に使われるのは、最大の喜びである。
今までさんざんにバルドを責めていたアルトも、魔王の種ではあるが、その前にこの世界の民で魔族の一つ。傅いたアルトの姿は、子というよりも臣だった。
「じゃあ、今から送るね。時々は連絡が取れるようにしておくから、頑張ってねえ」
突然、傅いているアルドの足元に、六芒星が元の大きな陣が現れた。魔法陣に似たそれが、しかし魔力であって人間のように魔術を使うわけでない、バルドの力によって出したものである。
その陣がアルトを囲むと、黒い焔が少年を襲う。
そうして、バルドは期待に嗤った。
後に自身の立場を継承する少年に対して。
「死なないといいね」――と。
2013/04/18 文章改訂