第三章 湖のほとり
朝。ノックに応じてドアを開けると、昨日のポンチョを抱えた女将が立っていた。
「ラスタにはまだ、純血を怖がっている人が沢山いるの。だから、これを着て行って」
ポンチョを受け取ろうとするイオンを制して、アルが自ら女将の前に歩み出る。
「ごめんね。カイのせいで、あなたにも迷惑をかけるわね」
差し出されたポンチョを受け取りながら、アルは何か考えている。やがて意を決したように顔を上げ、女将にはっきりと告げた。
「カイも、望んで暴走したんじゃないと、思うから」
「……ありがとう」
女将はアルをぎゅっと抱き締めた。
街外れまで送ってくれた女の子と別れ、昨日歩いた細い道を辿る。この道をまっすぐ行けばタニアの家があるそうだ。
「何でこんな寄り道しちゃうかな!」
クリスは朝からすこぶる機嫌が悪い。ヘザーが懸命になだめているが、その効果は薄い。
「まあまあ。今日中には街に帰れるから。ね?」
「帰れればいいってモンじゃないの! 街でも色々予定があるのに」
こんなやり取りが延々と続く。さすがにうんざりして、今日は前を行くアルの背中を眺めることにした。ラスタで着ていたポンチョは、既に脱いで脇に抱えている。癖毛なのか、あちこちにはねた髪が歩くリズムに合わせて踊る。横がうるさくて声は聞こえないが、イオンと熱心に話している。そういえば、意外に背が高い。イオンより大きいとは思っていなかった。
アルの視線がイオンと逆の方向へ動く。つられてそちらを見ると、日の光を受けて輝く湖面があった。
湖という呼び名から想像していたよりは少し小さいそれのほとりに、こじんまりしたかわいらしい家が、ぽつんと一軒建っている。ちょうど玄関のドアが開いて、洗濯かごを持った年配の女性が見えた。
「すいませーん!」
イオンの声に気づいた女性の手から、洗濯かごが落ちる。転げる勢いで走ってきた彼女がアルにがばっ、と飛びつく。小さな声で何度もカイの名を呼んでいる。
「うぅ」
苦しげなアルの呻きに、はっと顔を上げた女性は慌ててアルを解放した。しかし彼の両手をしっかりと握っている。
「ごめんなさい。私ったら……あまりにもカイに似ていたものだから。あなた、名前は?」
「アル、です」
「そう、アルって言うのね。アル、ぜひ私の家に寄って行ってちょうだい。もちろんお友達もご一緒に。さあ、どうぞどうぞ」
有無を言わさぬ迫力で、アルの手を引いて家へと向かう。ここは大人しく彼女に従うのが得策のようだ。
お茶と共に出されたのは、大きめの器に山盛りのクッキー。タニアはここで一人、帰らぬカイを待ちながら日々クッキーを焼いていたのだろうか。
「アル。あなたのご親族に、他に純血はいないかしら? たぶん私と同じくらいのおじいちゃん」
落ち着きを取り戻したタニアは、とても品の良い女性だった。優しく丁寧な口調でアルに話しかける。
「祖父の兄が、純血です」
「やっぱり。私、その方に会ったことがあるのよ。きっとその方が、カイのお父様だと思うわ」
がたんっ、と音を立てて立ち上がったのは、イオンだ。視線が集まるとばつが悪そうに座り直したが、タニアに話の続きを促す。
「そのお話を、ぜひ詳しくお聞きしたいのですが」
どこから話せばいいかしら、と揺り椅子を漕ぎながら思案していたタニアは、そのうちゆっくりと語り始める。
「昔、ラスタには城壁に囲まれた、天国という地区があったの。最初に島に移住して、ラスタを作った人狼の子孫が、そこで貴族を気取って暮らしていた。実は私も天国の出身なのよ」
貴族を気取った暮らし。あまりイメージが湧かないが、タニアの雰囲気からするとセレブな暮らしということか。
「天国では家柄が一番大事でね。ここで生まれた女の子に恋なんか許されていなくて、年頃になったら親の決めた許婚と結婚するのが当たり前だった。でも、そんなの嫌でしょう? だから女の子達は、ここから逃げる方法をいつも考えていたの」
タニアは悪戯っぽく微笑む。若い頃は、かなりおてんばだったのかもしれない。
「私のように天国でも下流の子は、城壁にある抜け道を使えばいつでも外に出られたの。でも、カイのお母様はもっと良家のご令嬢だったようね。そんなお嬢様が使う最終手段が、街の学校へ進学して一人暮らしをする、だった。たぶんお母様も街へ出て、そこでお父様と出会ったのだと思うわ。けれど何らかの理由で天国に戻り、それからカイが生まれた」
真剣な顔で話を聞いていたイオンが、ふと視線を落とす。カイの出生に思うところがあるようだ。
「カイが人竜でなかったら、天国の中で養子に出されていたはず。たとえ人竜でも純血でなかったら、ラスタの街のどこかにもらわれていたに違いないわ。でも、純血のカイを引き受ける家はなかった」
良家のご令嬢に、結婚前に子供を産むなんてスキャンダルが許されるはずはない。それでもカイを産み、身近に養子先を探していたとすれば、それだけ母親としてカイに愛情を持っていたのだ。
「お恥ずかしい話だけれど、その頃私は駆け落ちした相手とケンカして、生まれたばかりのバートを連れてラスタに戻ったところだった。天国の家には帰れないし、乳飲み子を連れて働く場所もなくて、途方に暮れていたの。そこへ舞い込んできたのがカイの養母になる話でね。用意されたこの家でカイを育てて、その様子を定期的に手紙で報告することになった。本当に、私達親子はカイのお陰で命拾いしたとしか言いようがないわ」
家も用意して、養母まで雇って。カイのお母さんの家は相当なお金持ちらしい。しかしその家柄ゆえに、愛する息子を自分で育てられないとは。
「事件の半年程前かしら。カイは手紙から、お母様の住所を知ってしまったの。それでバートや友達とお母様に会いに行く計画を立てたようね。普通人竜は天国に入れないけれど、きっとあの抜け道を知っている子がいたのだわ。そして事件の日、カイはお母様に会いに行き、天国の中で暴走を起こした」
タニアは沈痛な面持ちで目を伏せた。天国出身の彼女には、この事件がカイだけでなく、家族や友達までも失う悲しい結果をもたらしたのだろう。
「私は街まで避難して、バートとは何とか合流できた。カイのお父様だと思う方に会ったのはこの時よ。その方はラスタで人竜の子供を見なかったかと、必死に聞いて回っていた。だから私達、カイの事を詳しくお話したの。隠していたけれど彼の髪は青かったし、何よりカイの面影があったから」
ここで何かを思い立ったタニアは、揺り椅子を降り家の奥へと入って行った。クリスとヘザーのひそひそ話が耳に入る。
「純血って珍しいんじゃなかったの? アルの周りにはいっぱいいるみたいだけど」
「アルの血筋は特別。今いる純血で、アルと血の繋がりがない人はいないと思うよ」
昨日アルが言っていた他に知らないという言葉は、他人を知らないという意味だったのか。クッキーをかじりながら二人の会話に耳を傾けているうちに、タニアが小さな包みを持って戻ってくる。
「このペンダント、カイが肌身離さず持っていた物なの。事件の後ラスタに戻ったら、この家だけが無傷で残っていて、庭先にこれが落ちていたのよ。きっと、カイがこの家と私達を守ってくれたのね」
しずく型の石がついたペンダント。見たところ、それほど高価な品物ではなさそうだ。
「たぶん、カイのご両親の思い出の品だと思うわ。あなたの大伯父様に、お渡ししてくれるかしら?」
アルは複雑な表情ながら、黙って包みを受け取った。
「これ、美夜子が持ってて」
タニアの家を出ると、アルはペンダントを包みから取り出した。
「え? これ大伯父さんに渡してって」
「サクは死んだんだ、三年前に。だから」
私の首に腕を回し、ペンダントをつける。後ろをじろっ、と睨んでからイオンの背中を追って行く。
「あらぁ、随分と仲良しねぇ。昨日の夜何かあったの?」
「わぁっ!」
思わず声を上げて飛び退いた。突然、耳元でヘザーが囁いたのだ。彼女はいつも飛んでいて、足音がしないから質が悪い。
「な、何もないよ」
先ほどアルが睨んだのは、超能力でペンダントをつけるのに手を貸したヘザーだったのか。道理でスムーズにつけられたはずだ。
クリスが肩に手をかけ、反対側の耳に顔を寄せる。
「アルはやめといた方がいいって。美夜子も聞いたでしょ、暴走の話。絶対危ないよ」
その言葉についムッとなる。
「アルは暴走のこと知ってるから、起こさないようにいつも頑張ってる。だから危なくなんかないよ」
思わぬ反論を受けて、クリスは開いた口が塞がらない。ヘザーはニヤニヤという表現がぴったりの笑顔で呟く。
「愛されてるねぇ、アル」
顔中がかっ、と熱くなる。
「そんなんじゃないって!」
腕を振り回して追いかける私をふわりふわりと避けながら、ヘザーは空中で楽しそうに笑った。