第二章 ラスタ
崖を上がり、林の中の小道を進む。もうかなりの距離を歩いているはずだが、目的地らしき場所は一向に見えない。
「クリス、今はどこに向かってるの?」
「今日はラスタに泊まるよ。で、明日は街」
「街?」
ラスタは地名かと思ったが、違うのだろうか。首を傾げる私に気づいて、ヘザーが解説してくれた。
「元々この島には街が一つしかなくて、名前もついてなかったの。後からラスタができた時に、一応島と同じサランドラって名前をつけたけど、今でも街で通じるわけ」
ということは、ラスタも街の名前のようだ。しかし、見渡す限り木が生えているばかりで、建物の影も形もない。
「それで、そこまではどのくらい?」
「疲れちゃった? ラスタはもうすぐ見えるはずだよ」
クリスが指差した方向から、軽快な足音と共に女の子が現れた。私達の姿を見つけると、一目散に走り寄る。
「あの、今日桔梗亭へお泊まりの方ですか?」
息を弾ませながら尋ねる彼女に、クリスが頷く。
「やっぱり。青い髪のお兄ちゃんがいるから間違いないね。えーっと、宿まで案内するように言われて来ました。と、その前に」
女の子は担いでいた袋から何かを取り出し、後ろ手に隠してアルに声をかける。
「その、青い髪の毛、キレイですね。触ってもいいですか?」
少しわざとらしい言い回し。戸惑うアルを、イオンが肘でつつく。アルは渋々といった様子で、女の子の前にしゃがみ込んだ。彼女は途端にがばっ、と隠し持った何かをアルに被せる。驚いて立ち上がった彼の頭は、ポンチョについた大きなフードで完全に見えなくなっていた。
「わぁい、うまくいった。お母さんの言う通りだね」
女の子はぴょんぴょん飛び跳ねて喜んでいる。
「その帽子、宿に着くまで脱がないでね。じゃあ、ついて来て」
そう言うと彼女は道を外れ、木立の中へ入って行く。迷いのない足取り。ともすれば見失いそうな背中を追いかけると、人一人がやっと通れるくらいの細い道に出る。そしてその道の先に、街と呼ぶにふさわしい建物の群れがあった。
白い壁に、赤茶けた瓦屋根の家々。くねくねと曲がる石畳の細い道。ようやく到着したラスタの街並みは、いつかテレビで見たヨーロッパのイメージに近い。横道をのぞくと、大通りには沢山の人が行き交っている。どうやら、女の子はわざわざ人通りの少ない道を選んでいるようだ。
「ただいまぁ」
彼女が建物の一つに取り付けられた木戸を開けて、声を張り上げた。私には区別がつかないが、ここが目的の場所らしい。奥から出てきたエプロン姿の中年の女性が、私達を招き入れる。
「ごめんね、裏口から案内しちゃって。表で何かあるといけないから」
通されたのは、古びたソファセットが置かれた小さなリビング。左右の壁にある扉を開けると、それぞれの部屋にシンプルなベッドが二台。普段は繁忙期にアルバイトが使う部屋だそうだ。荷物を下ろしてフードを脱いだアルに、女性が驚きの声を上げた。
「カイにそっくり。純血って、みんなそんな顔なのかしら?」
じっと見つめられたアルは、恥ずかしそうに下を向いてぼそぼそと呟く。
「他に、あんまり、知らないので」
「そうよね。とても少ないんですものね」
お茶の準備をするから、そう言い残して彼女は足早にリビングを出て行った。
「あの、カイというのは?」
淹れてもらったお茶に口をつける前に、イオンは先ほどの女性、桔梗亭の女将にこう切り出した。彼女も小さな椅子を持ち込んで座り、お茶を一口すする。
「カイは、私の友達。あの事件を起こした張本人よ。もう、三十年も経つのね」
「その話を、詳しく聞かせていただけませんか?」
イオンの言葉に、女将は一瞬ためらいの表情を見せた。友達が事件を起こしたとなれば、辛い思い出もあるに違いない。だが、彼女は凛と背筋を伸ばして話し始める。
「カイは、生まれてすぐに人に預けられて、本当の両親を知らなかったの。それがある日、お母さんがラスタにいるって判ってね。カイと仲が良かった男の子達が、大人には内緒で、カイをお母さんに会わせる計画を立てたの。女の私は仲間外れにされちゃったから、詳しいことは判らないんだけど」
昔話の口ぶりとは全く違う。まるで、昨日の出来事のように滔々と語る。
「事件のあった日、朝からバートが訪ねてきたの。バートはカイの育ての親の息子だから、カイの兄弟みたいなものね。そのバートが言うには、カイがお母さんに会いに行っているから、ここで待たせてくれって」
一旦言葉を切って、目を伏せる。その時の情景を思い浮かべているのだろうか。
「突然、ものすごく大きな音がして、私達は驚いて外へ飛び出したの。どんな音かって? うーん、よく覚えていないわ。ただ、何か大変なことが起こった、と思ったのは覚えているわね。それで外に出たら、空に伸びる真っ黒な竜巻が見えたの」
伏せた目を上げて、すっと細める。今まさに目の前にある何かを、見極めるように。
「今思えば、あの竜巻が人竜の名の由来かも知れないわね。くねくねと身を捩って、まるで生き物のようだった。あれに追いつかれたら死ぬんだって気がして、とても怖かったわ」
女将の話に、私は砂浜で見た黒い風を思い出した。ただの暴風とは異なる、死の恐怖を感じる風。
「それなのにバートは、カイを探すって竜巻に向かって行こうとするから、彼の腕を掴んで必死に逃げたの。そうして何とか逃げ切った人達と一緒に、街まで避難することができたのよ」
ここまで語り終えると、女将はカップに残ったお茶を一気に煽った。新しいお茶を注ぎながら続ける。
「後であの竜巻が起きたのは、カイの能力が暴走したせいだって聞いたの。私、カイに能力があることも知らなかったから、未だに納得できなくて。ねぇ、純血の能力が暴走すると、どうなっちゃうのかしら?」
本から得た知識ですが、と前置きしてイオンが答える。
「竜巻によって身体がバラバラになってしまって、遺体は見つからないそうです」
遺体。それはとても慎重な、しかし決定的な言葉。女将は小さくため息をつく。
「そう。やっぱりあの時に、死んじゃったのね」
気まずい空気が流れる。しばしの沈黙を破ったのは、またしてもイオンだった。
「バートさんには、会えないでしょうか? 詳しい話を聞きたいのですが」
クリスが驚きの表情でイオンを見る。今にも怒鳴り出しそうなクリスを、ヘザーが必死に抑える。そんな二人の攻防を知ってか知らずか、女将は少し考えてこう言った。
「バートのお母さんのタニアなら、すぐ近くに住んでいるわ。バートのことは彼女に聞いてみたら」
また、遠くで時計の鳴る音が聞こえる。二台のベッドをくっつけて三人で寝たから、最初のうちは狭いの何のと賑やかにしていた二人も、今は安らかな寝息を立てている。私一人が、寝つけない。横になっているのにも飽きて、そっとベッドから抜け出す。
月明かりが入る薄暗いリビング。ソファの上で、アルが丸くなっている。彼も眠れないのだろうか。起き出した私に気づいたようだが、動く気配はない。何となく彼の隣に黙って腰を下ろした。
「怖くないのか?」
掠れた声でアルが尋ねる。ずっと避けられていたから、向こうから話しかけてくるとは思わなかった。
「何が?」
「話、聞いただろ」
今日聞いたのは、純血の少年が竜巻になってしまった話。純血の少年……、アルもそうだ。
「あの、竜巻の話?」
彼は、答えるかわりにそっぽを向いた。抱えた膝の上に顎を乗せている。
「そしたら、変わらないよ」
彼の頭がほんの少し傾く。意味が判らない、ということか。私は言葉を続ける。
「竜巻が起きたら。隣にいても、離れてても」
アルは答えない。丸めた背中は随分と小さく、微かに震えている。ああ、そうか。怖くないかと問うた彼の真意が、今ようやく判った。他でもないアル自身が、誰よりもアルを恐れているのだ。純血として特別な能力を持つことを、暴走して竜巻になってしまうかもしれないことを、そして、誰かを巻き込んで死なせてしまうかもしれないことを。
「大丈夫だよ」
そんな言葉が口をついて出た。アルの気持ちに応えたい、そう思った。
「アル、ちゃんと使えたから」
彼は、得体が知れない私を避けていた訳じゃない。私を傷つけまいとしていたのだ。そうして一人で、大きな大きな不安と戦っていたのだ。アルは同じ姿勢のまま、予想通りの反論を返す。
「それは、イオンが」
「イオンは使い方を教えただけ。やったのはアルだよ。だから、大丈夫」
本当はどうだか判らない。でも、彼の不安を少しでも和らげてあげたかった。その願いが通じたのだろうか。アルは抱えていた脚を伸ばし、ソファにゆっくりと身を沈めた。
「なあ」
彼が照れくさそうに私の名を呼ぶ。
「美夜子は、どうしてここに来たんだ?」
どうしてなんて、考えてもみなかった。目を閉じ、昨日までの自分を思い返してみる。……ダメだ。ここに来る理由なんか見つからない。本当に昨日まで、何でもない、ありきたりな高校生だった。
「判らない」
「判らない?」
よほど意外な答えだったらしい。アルは私の顔をまじまじと見つめた。
「昨日まで普通だった。けど、今日目が覚めたら……」
今度は私がそっぽを向く番だった。これ以上、何も聞かないでほしい。だが、無邪気なアルは容赦がなかった。
「帰りたい?」
ストレートな彼の質問。考える前に、口が動いていた。
「うん。帰り……たい」
涙が一筋、頬を伝うのを感じた。言葉にして初めて気がついた。帰れないかもしれない、その押し潰されそうな不安から逃れるために、見ないフリをしていた素直な思い。何故だろう、涙が次々と溢れてくる。心はむしろ、霧が晴れたようにすっきりしているのに。
「え、あの、ゴメン」
アルは悪くない、と言いたいけれど、声にならない。大きく首を振って、彼の肩に顔を埋める。アルは一瞬身を震わせたが、拒絶することはなかった。この世界で初めて感じた、優しい温もり。
気が済むまで泣いていい、そう言われた気がした。