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「別に」
彼女は悪びれることをしない。
その言葉に激怒したのは勿論白石。白石は席から乱暴に立ち上がると、彼女との間を詰める。
白石と彼女の間が教壇の段差まで狭まったところで、二人の間に割って入る。
「どけ!」
白石は頭に血が昇り、顔が赤い。かなり興奮してるな。白石は僕を横に退けようとするが、足を広げて踏ん張る。
「とりあえず、今は落ち着いて下さい。ここで争っても何もなりません」
「うるせぇ! 退け!」
白石は予想以上に興奮しているらしく、僕にも暴力を振るってきそうな勢いだ。
暴力だけはどうしても避けたい。彼女と安藤だけではどうも不安だ。
白石の両肩を強引に掴む。そしてそのまま、白石の動きを固定する。
「落ち着いて下さい」
「だから落ち着けねーって言ってるだろ!」
白石は僕の手をふりほどこうと僕の腕を掴んだ。白石も頑固だな。仕方無い。僕は手に入れていた力を増加させる。
「離せ! 離せ離せー!」
白石は僕の腕を強引にふりほどこうと、力を増やすが僕は決してこの手を離すわけにはいかない。
「分かりました。なら、落ち着かなくて結構です。ですが、その怒りを彼女にぶつけるのだけは止めて下さい。それなら、壁でも机でも、なんなら、僕にでも構いません」
白石の肩に乗せていた手から力を抜く。白石は一度舌打ちをすると僕の腕から手を離し、奇声を上げながら、近くに並んでいた机に怒りの矛先を変え、力任せに蹴る。
嵐は去ったか。白石に掴まれていた腕をさすりながら、彼女を見る。彼女は面倒臭そうに欠伸をした口を手で隠している。全く緊張感の無い。だが、守られることも分かっていたのだろう。
「それでさっきの質問なんですが……」
「見つけたのは私達三人、死体には誰にも触ってない筈よ。私がいない間に触って無いわよね?」
後ろから声が聞こえ、慌て横に飛び退く。彼女は僕に一瞥も与えず、二人を睨んでいる。
「触ってねーよ!」
白石はまだ苛つきが収まっておらず、怒声に似た返事をする。
安藤は視線を白石と彼女に細かく移す。落ち着きの無い人だな。
「僕は一度トイレに立っただけです。トイレは端のところを使いました」
トイレか……、さほど支障は無いだろう。用を足して帰って来るのにさして時間は掛からない。
「私は検証したかったんだけど、此奴等がビビりだから、触れずじまいよ」
彼女は呆れたように溜め息を吐き、首を横に振る。それは決して、ビビりでは無く、当然の反応だと思う。
「分かりました。最後に警察には連絡したんですか?」
「してない、と言うより、出来ないし、したくない」
彼女の言葉に溜め息を吐く。彼女が警察を呼ばない理由。そんな物、聞なくても分かっている。
「呼んだら、面白く無いじゃない」
彼女は私利私欲の為なら身の危険すら顧みない。
「言っとくけど、私のノートパソコン以外、外部との連絡は取れないからね」
僕の携帯は無視なのか? まぁ携帯で電話をしようとした瞬間、間違い無く携帯が吹き飛ぶだろう。
「言っとくけど――」
彼女が二人の方に向いた。
「私のパソコンはパスワードが掛かってるから、悪しからずね」
「じゃあ、僕が警察に通報するって言ったらどうしますか?」
彼女はしばらく口を開いたまま、停止する。いや、冗談半分で言ったつもりなんだが、まさか……。違う、忘れていた。慌てて後退りを始める。これこそ後の祭りなのだが。しかし、殺気を纏った彼女はそれを見逃さず、大股で間を詰めてくる。
あぁ、駄目だ。二十年という短い生涯に別れを告げる。
「あんた……、本気で言ってる?」
「い、いえ」
胸倉を掴んだ彼女は下から睨み付けてくる。僕は声を震わせながら、首を横に振る。
「そう、じゃああんたはあ・そ・び・は・ん・ぶ・んで言ったってわけね」
彼女は胸倉を掴む力を強める。屁理屈のようにも思えるが、言い返せば、間髪入れず鉄拳が飛ぶ。
「そう言うわけでは……」
「じゃあ、あんたは忘れてたの?」
彼女は冗談と警察を毛嫌いをしていることだ。
理由は――知らない。出会った頃には既に同じ空気を吸うことすら嫌う程だ。一度だけ首を縦に振った。
「そう、残念ね。問答無用よ!」
彼女は無情にも胸より少し下、臍から垂直に上がるとある急所、鳩尾に拳をねじ込んだ。急所への鈍痛を受けた僕は教壇に両膝を付く。腹を押さえながら土下座をするよう体勢で体内を逆流してきた汚物を躊躇無く教壇に撒き散らす。前よりも力が何段か倍増している。昔は吐くまではいかなかったのにな。相沢さんのせいか。
こみ上げてくる第二波を何とか制御すると、眼下に広がる汚物に目をやる。吐血はして――いない。幸いにも胃の中には胃液しか残っていなかったようだ。
上を見上げようとした時後頭部に静かに靴が置かれる。一瞥を与えなくても誰の物か判断出来る。
「おい、お前! いい加減に……!」
「黙りなさい!」救済しようとした白石を彼女は一喝する。
すると、白石の足音が消えた。頭を上げられない。三人がどんな動き、どんな表情をしているのか分からない。
「これは調教よ。あんたらにとやかく言われる筋合いは無いわ」
彼女は思い切り、だがゆっくりと僕の頭を踏む。教壇と汚物を挟んで接吻することになってしまう。
「どういう意味だよ!?」
「私はこいつを買ったの、お金でね。まぁ、表向きには執事として扱ってるから法律上は問題なし。言ったでしょ、ペットだって。まぁ、私からしてみれば法律なんてただの紙切れのような物だけど……」
「召使いをペットだと!?」
彼女は未だに足を退けない。それにも増して、踏む力が強くなっている気がする。まずい、明らかに苛ついている。そうだった。彼女は目立つのは好きなのに、人に自分の考えを説明するのが大嫌いだ。彼女と再会してから初めての事件を思い出す。一つの謎を解き、語り、独壇場を作り上げた僕はその直後に彼女の無言の暴挙を受けたのだ。
「あんたらにだっているでしょ。召使いの一人や二人、それと似たようなもんよ」
彼女はようやく足を退ける。頭を上げた僕は何よりも先に状況を把握する必要がある。
彼女は腰に手を当て、威風堂々、威厳を感じさせる態度だ。
白石は拳を震わせ、目には仇を見るような憎しみが籠もっているように見える。
安藤はただただ挙動不審で二人の行く末を止められずにいる。
「俺はそいつを人間として扱ってないだろ! 差別だ!」
顔を袖で拭きながら、彼女を見る。彼女は肩を竦めると、白石を指差す。
「人間差別ね~? じゃあ、あんたは差別をしないと?」
「当たりま……」
「当たり前じゃないでしょ!」彼女が白石の言葉を遮る。虚を突かれた白石は一瞬でも黙ってしまう。