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「無いですね。全く……」
モヤモヤを残したまま、白石に答える。
「お前がそれなら良いんだけどさ」
白石は答えに納得したのか階段を上る。僕もその後に続きながら、このモヤモヤを考える。さて、どうしたものか。数少ない記憶を呼び覚まし、古い感情を思い出す。彼女と再会した時、何もかも残されていなかった僕は、何もかも持っていた彼女を羨ましく、もしかしたら、妬んでいたかもしれない。
それから、千差万別の事件に接触してきた時期がある。十回以上と普通では考えられない九死一生を打破してきた時期だ。その頃は少なくとも生かせてくれた彼女に感謝の気持ちはあったと思う。
そして、今。今の感情だ。彼女に会ったり、話すのは嫌いではない。感謝だと思うが、モヤモヤは消えない。情緒不安定……、と結論づけて良いのだろうか。
「おい!? 何処行くんだよ!?」
「えっ!?」
声に現実に戻された僕は声の主の方に振り返る。階段を数段上っている。白石が三階の踊場で僕を呼んでいる。
ぼーー……っとしていた。
「あ、大丈夫です」と平然を装う。
思考を働かせていたと言えばすむ話だが、追求されると面倒なことになる。推理をしていた、なんて言ったら結果は見えている。殴られて快感に感じたりしない。
階段を下りて、教室に戻る。教室は何故か異様な雰囲気が漂っている。その中に、僕のボストンバッグに鎮座して、ノートパソコンをカタカタしている彼女と、最前列で村人が救世主を見るような目の安藤。心なしか窶れたように見える。終始無言のことが手に取るように分かる。
「お帰りー」
彼女が画面と見つめ合ったまま挨拶してくる。
「はい、ただいま帰りました。何してるんでしか?」
挨拶を返すと、彼女の下に歩く。画面はメールの送信画面、相手は相沢さん。彼女の家の実質的な最高権力者。
「心配して、メールしてきたのよ。一日帰ってこなかったら、強制送還させられるわ」
「一日って、家を出たの何時ですか?」
「夜の七時ぐらいね。今が十一時だから、後、八時間ぐらいね」
八時間、もう半日を切っているけど、現場に行って、向こうの校舎を回ってもお釣りが来るだろう。
「ぼ、僕、トイレ行ってくる」
安藤が席を立って、トイレに向かう。彼女はパソコンを閉じると、ボストンバッグからまたツナの缶詰を取り出す。それを投げつけられた黙って缶詰を開ける。
「それ、俺にもくれねーか?」
白石が物欲しそうな目で此方を見てくる。恵んだ方が良いだろう。僕は割り箸と缶詰を机に置く。安藤の分も用意しておこう。ツナの缶詰と割り箸を机に置く。しかし、僕達が食べ終えても安藤は帰って来なかった。
「遅すぎないか?」
「確かに遅いですね」
「俺、見てくる」
「なら僕も行きます」
彼女は安藤の分に手を出している。急がないと全部食べられてしまう。僕と白石は教室を彼女に任せて、男子トイレに行った。――簡潔に言おう、トイレには誰もいなかった。洋式トイレの方も見ても、結果は変わらない。滴すらないその空間に僕達はどうしようもなく落胆する。
逃げられた……。
犯人は安藤だった。いや、恐らくは共犯者。あの異常な挙動不審の様子も説明が付く。黒づくめの人間は安藤の仲間と考えたら、死体を回収したのと、机を落としたのも分かる。机は証拠回収完了の合図。机に四肢を乗せて、縄で吊してから下で切る。僕達の意識が現場に向いている内に、落ちてきた縄と手足を回収。演劇部のドアが開いていたのは、きっと安藤の仕業だ。仲間は僕達に態とあの姿を見せつけて、恰も逃走に計ろうとしている印象を与える。僕達が下に向かうのを確認して、予め開けてあった窓を通じて外に出たのだろう。そして、時を観て安藤と合流。安藤はトイレに行く振りをして、逃げたわけだ。
あぁ、彼女に何て説明したら良いんだ……。僕はその場に崩れ落ちる。トイレなど気にしない。
犯人に逃げられたなんて何が何でも言えない。それこそ僕の存在が消える。今から追う? 無駄なことだろう。逃亡用の乗り物を用意していないはずがない。