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狼王が私を雪原に捨てて狼の餌にした後、北境全体が後悔した

作者: 熾星
掲載日:2026/11/02


 北境で、誰もが私を嘲笑した。


 狼を持たない、役立たずの落ちこぼれ。


 満月の夜、狼王は皆の前で、私に刻んだ伴侶の印を噛み消した。


 私は彼の言葉を信じ、彼をかばって致命的な銀の弾丸を受けた。


 三年もの間、薬を煎じて傷を癒やし、身も心も捧げて尽くしてきた。


 だが、帝都からベータの娘が戻ってきた日、すべてが変わった。


 彼は私の銀毒を抑えていた月銀の首飾りを奪い、純血の血筋を装うあの女に与えた。


 私の命綱だった月光草も、彼女はわざと踏み潰し、泥まみれにした。


 そして私は、危険な流浪狼が出没する国境警備へ、一人で向かうよう命じられた。


 助けを求める緊急信号は、あの女によって密かに切られていた。


 流浪狼の群れに襲われ、私は雪の中で死にかけた。


 それでも、部族に戻った私を待っていたのは、彼の後悔でも、いたわりでもなかった。


 月祭の儀式で、彼は皆の前で伴侶契約を破棄した。


 古い契約が引き裂かれ、魂まで無理やり裂かれるような激痛が走った。


 恋敵は私の脚に残った古傷を踏みにじり、嘲笑った。


 私はマントを剥ぎ取られ、凍てつく雪原へ放り出された。


 銀毒が血肉を焼き尽くし、意識が闇へ沈みかけた、そのとき。


 温かな腕が、そっと私の体を抱き上げた。


 銀髪の狼王が、震える金色の瞳で私を見つめ、低くささやいた。


「誰が、君には自分の狼がいないと言った? 俺の伴侶よ」



1



「その月銀の首飾りを外して、リアに渡せ」


 ケインは冷たい声で命じた。


 リアが北境に戻ってきた翌日の夜だった。


 私は負傷兵たちのために薬草を煎じ終えたばかりだった。両手には、苦い薬草の汁がこびりついている。


 手を拭く間もなく、部屋の扉が乱暴に押し開けられた。


 ケインがリアを連れて、入り口に立っていた。


 赤く腫れた私の手には目もくれず、彼は開口一番、命令を突きつけた。


 私はその場に立ち尽くした。


 三年間、愛し続けてきたアルファの言葉が信じられず、彼を呆然と見つめた。


 リアは彼の後ろに立っていた。


 帝都で流行している最新のレースドレスをまとい、誰かに守ってもらわなければ今にも折れてしまいそうな、か弱い白い花を演じていた。


「ケイン、これが私にとってどれほど大切なものか、わかっているの?」


 私の声は震えていた。


「ただの首飾りだろう」


 ケインは眉をひそめた。顔には、あからさまな苛立ちが浮かんでいた。


「リアは北境に戻ってきたばかりだ。慣れない場所では眠れないし、暗闇も怖がる。この首飾りには安眠を促す力がある。彼女に持たせるのが一番いい」


 私は反射的に、首にかけた月銀の首飾りを両手で覆った。


 これは代々のルナに受け継がれてきた証だった。


 それだけではない。


 体内に潜む銀毒を抑えるため、長老たちが月神の泉の水に浸して清めた、特別な魔具でもあった。


「駄目よ」


 私は一歩後ずさった。


「これがなければ、満月の夜に銀毒が発作を起こすの。骨の中を何万本もの刃物で削られるような痛みなのよ」


「あなたは私を殺すつもりなの?」


 リアはすぐに目を潤ませ、ケインの服の裾をそっと引いた。


「ケイン兄様、もういいです」


「エラ姉様は、私のことが嫌いなんです」


「私が少しくらい苦しんでも平気ですから」


「帝都にいた頃だって、一晩中眠れないことがよくありましたし……」


 彼女は「帝都」という言葉を、わざと強調した。


 まるで、華やかな帝都での生活を捨ててまで北境に戻ってきた自分を、皆に思い出させるかのようだった。


 ケインの顔から、瞬く間に笑みが消えた。


 彼は大股で私の前まで歩いてくる。


 大柄な体から、アルファ特有の威圧感が押し寄せた。


「エラ。同じことを二度言わせるな」


 私は首飾りを握りしめた。


「あなたはシフトすらできない。そんな高級な魔具を身につけていても、宝の持ち腐れだろう」


「三年前の南境の戦場で、あなたが自分の手で私にかけてくれたものよ!」


 私は必死に訴えた。


「銀の弾丸からあなたを守った証だって、そう言ったじゃない!」


「一生、私を守ると誓ってくれたでしょう?」


「今は、彼女のためなら私の命なんてどうでもいいの?」


 私が三年前のことを口にすると、ケインの目に一瞬、気まずそうな色がよぎった。


 しかし、それもすぐに冷淡さに塗りつぶされた。


「お前が俺を救ったことには感謝している」


「だが、この三年間、狼を持たない役立たずのお前を部族で養ってやった。それだけでも十分すぎるほど情けをかけている」


「リアはベータの娘であり、伝説に語られる純血の狼后の末裔でもある。彼女の内なる狼は極めて貴重なんだ。眠れない程度のことで、その力を損なうわけにはいかない」


 そう言うなり、ケインは手を伸ばした。


 冷たい光を放つ月銀の首飾りを、乱暴につかむ。


「やめて!」


 私は必死に抵抗した。


 だが、オメガの力など、アルファの前ではあまりにも弱かった。


 パチンッ。


 乾いた音が響いた。


 銀の鎖は、無理やり引きちぎられた。


 切れた鎖の鋭い断面が、私の首筋を深く傷つけた。


 鮮血が一気にあふれ、冷たい床に滴り落ちる。


 魔具の抑制を失った瞬間、血液の中に潜んでいた銀毒が、血の匂いを嗅ぎつけた蟻の群れのように暴れ出した。


 私の血管を、狂ったように食い破っていく。


 両脚から力が抜け、私は床に激しく倒れ込んだ。


 額には、大粒の冷や汗が浮かんでいた。


 ケインは私を見下ろし、血のついた首飾りを手に強く握りしめていた。


 心配する言葉は、一つもなかった。


 それどころか、彼は嫌悪感をあらわに眉をひそめた。


「お前の血からは、狼の匂いすらしない」


「本当に不快な臭いだ」


 ケインはそう言い捨てると、リアのもとへ戻った。


 ハンカチで首飾りについた血を丁寧に拭き取り、彼女の白い首に優しくかけてやる。


 リアは首飾りに触れ、愛らしい笑顔を浮かべた。


「ありがとうございます、ケイン兄様」


「これで今夜はぐっすり眠れそうです」


 彼女は振り返り、私を見た。


 その目には、隠そうともしない挑発の色が浮かんでいた。


「エラ姉様、大丈夫ですか?」


「顔色が真っ青ですよ」


「パック・ドクターを呼びましょうか?」


 ケインは鼻で笑った。


「放っておけ」


「少し怪我をしたくらいで死にはしない」


「同情を引くために、いつも大げさに騒ぐんだ。三年間も一緒にいれば、そういう手口はとっくに見抜いている」


 胸を大きな槌で殴られたような衝撃が走った。


 私は血の流れる首を押さえ、唇を強く噛みしめた。


 三年間、彼のために薬を煎じ、傷を癒やし、弾丸から身を挺して守ってきた。


 それらすべてが、彼の目には同情を引くための芝居にしか映っていなかったのだ。


「ケイン……」


 私は彼を呼び止めた。


 声は弱々しく、今にも途切れそうだった。


「首飾りを持っていかれたら、今夜の満月をどうやって耐えればいいの?」


 ケインは足を止めた。


 だが、振り返ろうとはしなかった。


「自分で何とかしろ」


「部族の一員でありながら、その程度の痛みも我慢できないなら、お前に何の価値がある?」


 彼はリアの肩を抱き、そのまま部屋を出ていった。


 扉が、乱暴に閉められた。


 私は冷たい床の上で体を丸めた。


 銀毒の激痛で、息をすることさえ苦しかった。まるで砕けたガラスを飲み込んでいるようだった。


 扉の向こうから、リアがわざと声を潜めて言うのが聞こえた。


「狼も持っていない役立たずが、ルナの座を独占するなんて、おこがましいわね」



2



「いつまで死んだふりをしている! リア様が訓練場で擦り傷を負われたんだ。さっさと薬を持ってこい!」


 ベータの衛兵が、私の部屋の扉を蹴り開けた。


 首飾りを奪われてから、すでに一晩が過ぎていた。


 昨夜は満月だった。


 銀毒は十二時間もの間、私の体内で暴れ続けた。


 私は死にかけた魚のように床の上をのたうち回った。爪で手のひらを掻きむしり、唇は噛み切って血だらけになった。


 夜明けまでどうにか耐え抜き、ようやく痛みが少しだけ和らいだところだった。


 私は衰弱した体を引きずり、床から起き上がった。


 衛兵が苛立った声で急かす。


「早くしろ!」


「リア様の傷に何かあったら、アルファに皮を剥がされるぞ!」


 私は重い足取りで部屋の隅へ向かい、薬箱を手に取った。


 三年前。


 南境の戦場で、狩人が放った銀の弾丸は、ケインの心臓を狙っていた。


 私はとっさに彼の前へ飛び出し、自分の体で致命的な一発を受け止めた。


 全身血まみれになった私を抱きしめたケインは、目を真っ赤にしていた。


 震える声で、月神に誓ったのだ。


「エラ、傷が治ったら、必ず皆にお前を認めさせる」


「お前だけが、俺のルナだ」


 私は彼の言葉を信じた。


 その後の三年間、私は必死に薬草の知識を学んだ。


 彼の古傷を癒やす薬油を作るため、夜通し眠らずに薬草を調合したことも、一度や二度ではない。


 自分の手のひらで薬油を温め、夜が明けるまで彼の傷ついた脚を揉みほぐした。


 けれど、今は――。


 体内に残る激痛をこらえながら、私は一歩ずつ訓練場へ向かった。


 そこで目にした光景に、胸がえぐられるような思いがした。


 ケインが片膝をついていた。


 かつて剣を握るために使っていたその手で、今はリアの足首を大切そうに支えている。


 リアはベンチに腰かけていた。


 足首には、ほんのわずかな擦り傷があるだけだった。


 血さえ、ほとんど出ていない。


 それなのに、ケインはひどく心配そうな顔をしていた。


 彼は傍らに置かれた玉の小箱を開け、淡い光を放つ植物を取り出した。


 月光草だった。


 北境で最も貴重な薬草。


 そして、私の体に潜む銀毒をわずかでも和らげてくれる、唯一の命綱だった。


 この一株を手に入れるため、私は吹雪の中、長老たちの前に三日三晩ひざまずいて頼み込んだ。


 長老たちは、これは部族の大切な財産であり、よほどのことがない限り使ってはならないと言った。


 それなのに。


 ケインは月光草を、その場で握り潰した。


 そして、傷痕すら残りそうにないリアの擦り傷に、惜しげもなく塗りつけた。


「ケイン!」


 思わず声が出た。


 怒りと衰弱のせいで、声がひどく尖っていた。


 ケインは眉をひそめ、振り返った。


 私だとわかった途端、その目が冷えきった。


「何をわめいている?」


「リアが怪我をしているのが見えないのか?」


 私は彼の手元にある月光草の残骸を指さした。


 手の震えが止まらなかった。


「それは月光草よ!」


「私の命をつないでくれる薬なの!」


「どうして、痕も残らないような擦り傷に使うのよ?」


 ケインは立ち上がり、私を見下ろした。


「リアは純血の末裔だ」


「お前のような狼も持たない役立たずとは、体の価値が違う。傷痕が残ったり、内なる狼に悪影響が出たりしたら、お前は責任を取れるのか?」


 私は信じられない思いで彼を見つめた。


「じゃあ、私は?」


「昨夜、首飾りを奪われて銀毒が発作を起こしたとき、あなたはどこにいたの?」


「死ぬほど苦しんでいたとき、あなたは何をしていたのよ!」


 ケインの視線が、一瞬だけ泳いだ。


 だが、すぐに開き直った。


「お前はシフトできないんだ」


「銀毒の発作なんて、少し我慢すれば治まる」


「今までだって、そうやって耐えてきただろう?」


「どうしてここまで大騒ぎする必要がある?」


 リアがそっとケインの手を引いた。


 目には涙がたっぷりと浮かんでいた。


「ケイン兄様、私のためにエラ姉様と喧嘩しないでください」


「全部、私が悪いんです」


「訓練場で転んだりしなければ、こんなことには……」


「こんなに貴重な薬草を、私が使うわけにはいきません。エラ姉様にお返しします」


 そう言いながら、彼女はわざと足首についた薬草を指でいじり始めた。


 そして、手を滑らせた。


 薬草を入れていた玉の小箱が、地面に落ちた。


 ガシャンッ。


 箱は粉々に砕けた。


 残っていた月光草も泥にまみれ、見る影もなくなった。


「あっ!」


 リアが声を上げた。


「ごめんなさい。わざとじゃないんです」


「エラ姉様、怒らないでくれますよね?」


 彼女は無垢な顔で私を見つめていた。


 だが、その口元には、かすかな冷笑が浮かんでいた。


 私は地面に散らばった月光草を見つめた。


 私の希望だった。


 生き延びるための、唯一の頼みだった。


 それが、すべて失われた。


 私は勢いよく駆け寄り、リアに平手打ちを食らわせようと腕を振り上げた。


「この性悪女!」


 だが、手が届く前に、ケインに手首をつかまれた。


 強烈な力で握られ、骨が砕けそうになった。


「エラ! いい加減にしろ!」


 ケインは私を乱暴に突き飛ばした。


 もともと衰弱していた私は、泥の上に激しく倒れ込んだ。


 傷口が再び開き、血が服を赤く染めた。


 ケインは私を一瞥することさえなかった。


 それどころか、リアをいたわるように抱き起こした。


「それだけ元気に人を殴れるなら、暇を持て余しているんだろう」


「今夜の国境警備は、お前一人で行け」


「自分の嫉妬深さを、そこでよく反省するんだな」


 ケインは冷酷に命じた。



3



「国境警備だと? シフトすらできない役立たずを一人で行かせたら、流浪狼に遭った時点で死ぬぞ」


 長老は嘲るように笑った。


 訓練場の外から歩いてきた彼は、地面に倒れた私を見下ろし、露骨な侮蔑を浮かべた。


 私は長老に助けを求めた。


「長老、最近、国境付近に流浪狼が出没しているんです」


「私には狼の姿がありません。一人で行ったら、命を落とします」


 長老は鼻を鳴らした。


「これはアルファの命令だ」


「ルナの座に居座っている以上、部族に貢献する義務がある」


「いつまでも何もせず、部族に養われているわけにはいかんだろう」


 ケインは長老の言葉に異を唱えなかった。


 それどころか、リアの髪を優しく整えてやっていた。


「聞こえただろう?」


「日没までに国境へ向かえ」


「俺の許可があるまで、戻ってくるな」


 夜の帳が下りた。


 北境の風は、刃物のように頬を切り裂いた。


 私は衰弱した体を引きずり、錆びた鉄剣を手に、一人で吹雪の中を歩いていた。


 銀毒が再び血管の中を広がり始めた。


 視界がぼやけていく。


 そのときだった。


 風に乗って、吐き気を催すような悪臭が漂ってきた。


 流浪狼だ。


 しかも、一匹ではない。


 雪の中に、三対の不気味な緑色の目が浮かび上がった。


 狼たちは私を見つめていた。


 まるで、ごちそうが目の前に転がっているとでもいうように。


 私は剣を強く握りしめた。


 手のひらには冷や汗がにじんでいた。


「向こうへ行って!」


 大声で叫んだ。


 だが、狼たちに人間の言葉が通じるはずもなかった。


 先頭の黒狼が、いきなり飛びかかってきた。


 私は体をひねってかわし、剣を振り下ろした。


 刃は狼の背中に当たったが、硬い毛皮を貫けなかった。


 かえって相手を怒らせただけだった。


 残る二匹も、一斉に襲いかかってきた。


 鋭い爪が服を引き裂き、背中に三本の深い傷を刻んだ。


 骨が見えるほどの傷だった。


「きゃああっ!」


 激痛に悲鳴が漏れた。


 私は必死に腰の緊急救難ボタンを押した。


 これはケインの通信機に直接つながる信号だ。


 彼が気づきさえすれば、一分もかからず駆けつけられる。


 狼たちの攻撃をかわしながら、私は必死に祈った。


 ケイン、助けて。


 お願い、早く来て。


 けれど、十分が過ぎた。


 二十分が過ぎた。


 通信機からは、何の返事もなかった。


 虚しい呼び出し音だけが、いつまでも鳴り続けていた。


 一匹の狼が、私のふくらはぎに噛みついた。


 肉を容赦なく引きちぎられた。


 私は雪の上に激しく倒れ込んだ。


 絶望が、夜の闇のように私をのみ込んでいった。


 ここで死ぬのだろうか。


 そう思った、その瞬間。


 遠くの崖の上から、長く響き渡る狼の遠吠えが聞こえた。


 そこには、巨大な白狼が立っていた。


 ただそこにいるだけで、凄まじい威圧感を放っている。


 三匹の下級流浪狼は、白狼の姿を見た途端、尻尾を巻いて逃げ去った。


 白狼は私に近づこうとはしなかった。


 ただ、じっと私を見つめたあと、吹雪の中へ姿を消した。


 あの狼が何者なのか、私にはわからなかった。


 それでも、一つだけ確かなことがあった。


 私は生き延びたのだ。


 夜が明けた。


 血まみれの体を引きずり、一歩進むたびに雪の上へ血の足跡を残しながら、私は部族へ戻った。


 部族の大広間には、明かりが煌々と灯っていた。


 扉の隙間から、笑い声や楽しげな話し声が聞こえてくる。


 私は扉を押し開けた。


 中では、盛大な宴が開かれていた。


 テーブルには、焼き肉や酒が所狭しと並んでいる。


 ケインは上座に座っていた。


 リアは彼の胸に寄り添い、楽しそうに笑っていた。


 私が全身血まみれの姿で入り口に立つと、大広間は一瞬で静まり返った。


 そこにいた全員が、化け物でも見るような目で私を見た。


「昨夜はどこへ行っていた?」


 ケインは眉をひそめた。


 声には心配のかけらもなかった。


 宴を邪魔されたことへの不快感しか感じられなかった。


 私は手に持っていた、握り潰された救難通信機を掲げた。


「昨夜、国境で流浪狼に襲われたの」


「救難信号を送ったわ」


「どうして来てくれなかったの?」


 ケインは一瞬、言葉を失った。


 無意識に腰へ手を伸ばしたが、そこには何もなかった。


 リアが口元を押さえ、わざとらしく驚いた声を上げた。


「あら……」


「ケイン兄様は昨夜、ずっと私の部屋の前にいてくださったんです」


「一人では眠れないんじゃないかって、心配してくださって」


「その通信機、音がうるさかったから、私が切ってしまいました」


「エラ姉様、まさか怒っていませんよね?」


 彼女は無邪気な目をぱちぱちと瞬かせた。


 だが、その奥には悪意に満ちた笑みが潜んでいた。


 怒りで体が震えた。


「あなたが、私の救難信号を切ったの?」


「私が国境で死にかけていたのよ!」


 私はリアに向かって突進した。


 その偽善者面を引き裂いてやりたかった。


 だが、またしてもケインが彼女の前に立ちはだかった。


 強烈なアルファの威圧が放たれた。


 血筋による圧力に押し潰され、私は息さえできなくなった。


「いい加減にしろ!」


「こうして生きて帰ってきたんだろう?」


 リアはケインの背後に隠れ、鼻を押さえた。


「エラ姉様、すごく臭いです……」


「下級流浪狼の悪臭が体中についています」


「気分が悪くなりそう……」


 ケインの目が、いっそう冷たくなった。


 彼は私を、まるでゴミでも見るように見下ろした。


「跪いて、リアに謝れ」


「お前のせいで、彼女の内なる狼が怯えている」


 その声には、逆らうことを許さない圧倒的な威圧が込められていた。



4



「絶対に謝らない。私こそが、あなたのルナよ!」


 私は歯を食いしばり、アルファの威圧に耐えながら、必死に立ち続けた。


 骨が軋み、今にも折れそうだった。


 膝は限界まで曲がっていたが、唇を強く噛みしめ、どうにか踏みとどまった。


 口元から血がにじんでも、両脚を折るつもりはなかった。


 そんな私を見て、ケインの目に苛立ちが走った。


「地下牢へ放り込め」


「俺の命令があるまで、水も食べ物も与えるな」


「自分の非を認めるまで、そこに閉じ込めておけ」


 二人の屈強な兵士が私を引きずり、薄暗く湿った地下牢へ放り込んだ。


 三日間。


 私は地下牢で、丸三日を過ごした。


 傷口は化膿し、高熱が下がらなかった。


 血液の中では銀毒が荒れ狂っていた。


 私は、この日の光も届かない場所で死ぬのだと思った。


 四日目の夕方、ようやく地下牢の扉が開いた。


 数人の侍女が入ってきた。手には、豪華なドレスが抱えられていた。


「アルファの命令です。これに着替えてください」


「今夜は部族の伴侶舞踏会があります」


「あなたも出席しなければなりません」


 私はドレスを見つめた。


 それは、代々のルナが重要な儀式で身につけてきた、月の光のように白いロングドレスだった。


 おかしなことに、胸の奥にかすかな希望が湧いた。


 ケインは、ようやく気持ちを変えてくれたのだろうか。


 この三年間、私が尽くしてきたことを、思い出してくれたのだろうか。


 私は激痛をこらえながら着替え、侍女たちに支えられて地下牢を出た。


 部族の祭壇には、いくつもの篝火が焚かれていた。


 大勢の部族民が、その周囲に集まっている。


 私は一歩ずつ高台へ上がった。


 そこで目にした光景に、足が止まった。


 ケインは正装し、月祭の祭壇石の前に立っていた。


 その隣には、同じ月白色のドレスを着たリアがいた。


 リアの頭には、ルナの地位を象徴する王冠まで載せられていた。


 私の足が、ぴたりと止まった。


 その瞬間、心臓が動きを止めたように感じた。


「ケイン……」


 私はかすれた声で、彼の名を呼んだ。


 ケインが振り返った。


 その目には、何の感情も浮かんでいなかった。


 あるのは、冷酷さと決意だけだった。


 彼はリアの手を取り、高く掲げた。


 そして、集まった部族民全員に向かって宣言した。


「月神の導きに従い、ここに告げる」


「リアこそが、俺の運命の伴侶だ」


「彼女は純血の狼后の血を受け継いでいる。北境のルナの座にふさわしいのは、彼女だけだ」


 広場に、耳をつんざくような歓声が沸き起こった。


「リア! リア!」


「真のルナだ!」


 その声の一つ一つが、鋭い刃となって私の心臓を突き刺した。


 ケインは私に向き直った。


 薄い唇が開き、狼人にとって最も残酷な言葉を吐き出した。


「俺、ケインは、お前、エラを伴侶として拒絶する!」


 ドンッ――!


 伴侶契約が強制的に断ち切られ、その反動が一気に押し寄せた。


 魂そのものを無理やり二つに引き裂かれたような激痛が走った。


 私は口から大量の血を吐き、地面に膝をついた。


 あまりの痛みに、叫ぶことさえできなかった。


 リアが私の前に歩み寄ってきた。


 彼女は私を見下ろし、流浪狼に噛まれて古傷になったふくらはぎを、鋭いハイヒールで思いきり踏みつけた。


 ぐりぐりと、力を込めて踏みにじる。


「うああっ!」


 私はとうとう悲鳴を上げた。


 リアは身をかがめ、私にだけ聞こえる声で笑った。


「あなたが銀の弾丸を受けたなんて、本当にもったいないわね」


「どうして、あのとき死んでくれなかったの?」


「狼も持たない役立たずが、狼后になれるとでも思った?」


 彼女は体を起こすと、今度は哀れむような表情を作った。


「ケイン兄様、エラ姉様はとても苦しそうです」


「ここにいたら、舞踏会の雰囲気が台無しになってしまいます」


「もう、帰してあげたらどうでしょう?」


 ケインは冷たくうなずいた。


「マントを剥ぎ取れ」


「部族の外へ連れ出し、国境の雪原に捨ててこい」


「生きるも死ぬも、本人次第だ」


 兵士たちが近づいてきた。


 彼らは私の月白色のマントを乱暴に剥ぎ取り、死んだ犬でも引きずるようにして、部族の門の外へ運んでいった。


 風が激しく吹き荒れていた。


 私は凍てつく雪原に放り出された。


 背後で、重厚な門が轟音とともに閉じた。


 私が命懸けで守ってきた場所は、完全に閉ざされた。


 伴侶契約による抑制を失った銀毒が、これまでにない勢いで体内を焼き尽くし始めた。


 視界がぼやけていく。


 体温が少しずつ奪われていく。


 私は、このまま死ぬのだろうか。


 こんな冷たい雪の中で。


 悔しい。


 あまりにも悔しかった。


 意識が永久の闇へ沈みかけた、そのときだった。


 月桂樹を思わせる、ひんやりとした芳香が鼻先をかすめた。


 次の瞬間、力強い腕が私を雪の中から抱き上げた。


 壊れやすい雪の結晶を扱うように、驚くほど優しい手つきだった。


 私は必死に目を開いた。


 目の前には、息をのむほど美しい男の顔があった。


 銀色の長い髪が、風の中で揺れている。


 暗い金色の瞳には、言葉にできないほどの動揺が浮かんでいた。


 男は私の首筋に顔を寄せ、匂いを確かめるように息を吸った。


「誰が、君には狼がいないと言った?」


「俺の伴侶よ」



5



「彼女に触れるな、この無能な医者ども!」


 サヴィエルの怒声が、南境の医療室の窓ガラスを震わせた。


 私は柔らかなベッドに横たわっていた。


 目は閉じていたが、意識は驚くほどはっきりしていた。


 耳元では、慌ただしい足音や、息をのむ音が聞こえていた。


「お、王上……どうかお怒りをお鎮めください」


「この方の銀毒は、すでに骨の髄にまで達しています」


「それに、体から狼人の気配がまったく感じられません」


「南境の薬草では、治療の効果が期待できないのです……」


 パック・ドクターが震える声で説明した。


「役立たずめ!」


 サヴィエルの声には、抑えきれない怒りと恐怖が滲んでいた。


「彼女を治せなければ、お前たちは全員、雪原で流浪狼の餌にしてやる!」


 温かな大きな手が、そっと私の額に触れた。


 その手の主は、私を痛がらせないよう、必死に力を加減しているようだった。


「エラ、怖がらなくていい」


「君を死なせたりしない」


 低くかすれた声だった。


 不思議と心が落ち着く響きがあった。


 月桂樹のような冷たい香りが、再び鼻先を包み込んだ。


 激痛の中で、私はほんの少しだけ息をつくことができた。


「王上、何をなさるおつもりですか?」


「いけません! それはアルファの本源の血です!」


 長老の悲鳴のような声が響いた。


 サヴィエルが自分の指先を噛み切ったようだった。


 熱い血の一滴が、私の眉間に落ちた。


「北境がお前を役立たずと呼ぶのなら」


「月神に、もう一度裁定を下してもらおう」


 サヴィエルの声は、古代の呪文のように医療室に響き渡った。


 アルファの血は、まるで鍵だった。


 私の魂の奥深くに固く封じられていた扉が、一瞬で開かれた。


 ドンッ――!


 頭の中で、大きな爆発音がした。


 次の瞬間、私の意識は真っ白な空間へ引き込まれた。


 そこでは、痛みを感じなかった。


 銀毒による苦しみも、嘘のように消えていた。


 目の前に、巨大な光の繭が浮かんでいた。


 やがて、その繭に亀裂が走った。


 中から現れたのは、白と黒、二頭の巨大な狼だった。


 どちらも普通の狼の二倍ほどの体格をしていた。


 白狼の体は柔らかな月光をまとい、その目には慈愛が宿っていた。


 一方の黒狼は、全身が漆黒に染まり、瞳の奥では破滅を思わせる暗い炎が揺らめいていた。


 二頭は私の前まで歩み寄ると、気高く頭を下げ、そっと私の手のひらに頬を寄せた。


 その瞬間、これまで感じたことのないほど強大な力が、全身の隅々にまで流れ込んだ。


 白狼の力が血管を巡る。


 銀毒に侵され、腐食していた肉体が、目に見える速さで修復されていった。


 黒狼の力は、黒い炎となって体内を駆け巡った。


 そして、骨の髄にまで潜んでいた銀毒を、一つ残らず食らい尽くしていった。


「ウォオオオオッ!」


 二頭の狼が、同時に天へ向かって咆哮した。


 現実の世界では。


 私は勢いよく目を開いた。


 まばゆい銀色の光が体内から噴き上がり、天を貫くように空へ伸びていった。


 南境の空が、一瞬で銀光に照らされた。


 医療室にいた者たちは、その圧倒的な威圧に押され、次々と地面にひざまずいた。


「こ、これは……何という力だ……?」


 長老は信じられないものを見るように、私を見つめた。


 その体は、激しく震えていた。


「双生の狼……」


「千年に一度しか現れない、双生の狼だ!」


「彼女は狼を持たないのではなかった……封印されていた月神の娘だったのだ!」


 長老は感極まったように涙を流し、何度も私に頭を下げた。


 私はゆっくりと上半身を起こした。


 そして、自分の両手を見下ろした。


 かつて、しもやけと傷痕だらけだった手は、今では玉のように滑らかになっていた。


 体の中には、生命力と力が満ちあふれている。


 もう、誰かに虐げられるだけの狼なき落ちこぼれではない。


 ベッドの傍らには、サヴィエルが立っていた。


 本源の血を失ったせいか、顔色は少し青白かった。


 それでも彼は、床にひざまずく長老たちにも、私の体から放たれた奇跡の光にも目を向けなかった。


 ただ、私の顔だけを見つめていた。


 暗い金色の瞳には、深く優しい愛情が満ちていた。


 彼はゆっくりと手を伸ばし、頬にかかった髪を耳の後ろへ払ってくれた。


 その仕草は、信じられないほど優しかった。


「痛むか?」


 彼は私の額をそっと撫でた。


「北境がお前を役立たずと呼ぶのなら、俺が月神にもう一度裁定を下させてやる」



6



「南境の王后は、君以外にあり得ない」


 サヴィエルはベッドの前に片膝をつき、私の手を取った。


 そして、その手の甲に敬虔な口づけを落とした。


 その光景を見た南境の狼人たちは、一斉に息をのんだ。


 サヴィエルとは何者なのか。


 南境で最も残忍で、血に飢えた王だ。


 反乱を企てた三人のアルファを、自らの手で斬り殺したという噂もある。


 大陸全土で、その名を聞いただけで人々が震え上がるほどの存在だった。


 その男が今、まるで忠実な騎士のように、北境から捨てられたばかりの女に自らひざまずいている。


「王上、それはいくらなんでも規則に反します」


 年老いた長老の一人が、恐る恐る口を開いた。


「彼女は北境の出身ですし、かつてケインの……」


「黙れ!」


 サヴィエルが冷たく睨みつけた。


 強烈なアルファの威圧が放たれ、長老はたちまち口を閉ざした。


「彼女は俺の伴侶だ」


「彼女に異を唱えることは、俺に異を唱えることと同じだ」


 私は、サヴィエルの揺るぎない眼差しを見つめた。


 ケインによって凍りついていた心の奥が、少しずつ溶けていくようだった。


 それからの日々、私は南境に身を置くことになった。


 覚醒したときの力を目の当たりにした南境の狼たちは、自ら私に頭を垂れた。


 彼らは、私の過去を理由に見下したりはしなかった。


 むしろ、深い畏敬の念を抱いて接してくれた。


 サヴィエルは毎日、時間を作っては私に付き添い、体内に宿る二つの異なる力の扱い方を教えてくれた。


「白狼は癒やしを司り、黒狼は破壊を司る」


「この二つの力を、お前の中で均衡させるんだ」


 訓練場で、彼は根気強く指導してくれた。


 体が触れるたび、伴侶同士にだけ生じる不思議な電流のような感覚が走り、胸が高鳴った。


 やがて、覚醒して初めての満月の夜が訪れた。


 満月が夜空に浮かんでいた。


 私の体内では、双生の狼がいつになく活発になっていた。


 目覚めたばかりの狼人であることに加え、伴侶同士が引き合う力も重なった。


 私は初めて、本格的な発情期を迎えた。


 部屋の中には、月桂樹を思わせる冷たい香りが濃く漂っていた。


 体は火がついたように熱い。


 理性が少しずつ本能にのみ込まれていく。


 扉の向こうから、サヴィエルの重い足音が聞こえてきた。


 彼の呼吸も荒くなっていた。


 内なる狼が激しく暴れているのを感じる。


 今すぐ部屋に飛び込み、私に自分の印を刻みたがっているのだろう。


 私は唇を噛み、彼が扉を開ける瞬間を待った。


 狼人の世界では、伴侶に印を刻むことは、ごく自然なことなのだから。


 ところが。


 足音は扉の前で止まった。


 サヴィエルは扉を開けなかった。


 彼は扉に背中を預け、荒い息を繰り返していた。


 爪が木の扉に食い込み、深い傷を刻んでいく。


「サヴィエル……」


 私は弱々しく彼の名を呼んだ。


 扉の向こうは、長い間、静まり返っていた。


 やがて、極限まで抑え込まれた、かすれた声が聞こえた。


「エラ、君が欲しい」


「でも、それ以上に、君自身が望んでくれることが大切なんだ」


「君はつい最近、裏切られたばかりだ。そんな君の弱みにつけ込むような真似はしたくない」


「いつまでも待つ。君が本当の意味で、俺に心を開いてくれる日まで」


 彼は一晩中、扉の外で私を守り続けた。


 自分のフェロモンで私の内なる狼を落ち着かせながら、それでも一線を越えようとはしなかった。


 その自制と尊重に、私は初めて知った。


 大切にされるということは、自分を犠牲にしたり、相手の機嫌を取ったりして手に入れるものではないのだと。


 一方、その頃。


 北境の王宮は、大混乱に陥っていた。


 リアは化粧台の前に座り、部下からの報告を聞いていた。


 整った顔が、怒りで歪んでいく。


「今、何と言ったの?」


「あの役立たずが死んでいないばかりか、サヴィエルに連れられて南境へ行ったですって?」


「しかも、双生の狼に目覚めた?」


 部下は震えながら、床にひざまずいた。


「は、はい……」


「南境にいる密偵からの報告です。間違いありません」


 リアは化粧台の上の化粧品を、片っ端から床へ払い落とした。


「そんなはずない!」


「あの女はシフトすらできなかったのよ!」


「どうして、あんな女が双生の狼を持っているの!?」


 嫉妬と恐怖が、毒蛇のようにリアの心を蝕んでいった。


 彼女は恐れていた。


 私が北境へ戻り、今の地位も名誉も奪い返すことを。


 それ以上に、自分が純血の末裔を装っていた秘密が暴かれることを恐れていた。


 リアの目に、悪意に満ちた光が浮かんだ。


 彼女は机の上の通信機を手に取った。


「三大部族に伝えなさい」


「南境の妖女が北境を滅ぼそうとしている、と」


「私、リアが皆を率いて、あの女を討伐する!」


 毒々しい声が、通信機を通じて響き渡った。



7



「お前は穢れた災厄の女だと? まったく、どいつもこいつも愚か者ばかりだな」


 サヴィエルは私の髪を梳きながら、冷笑した。


 朝の陽射しが窓から差し込み、私の顔を明るく照らしていた。


 鏡の中の自分を見つめる。


 北境にいた頃の、やつれ果てた卑屈な姿は、もうどこにもなかった。


「リアも追い詰められたのね」


 私は淡々と言った。


「私が戻ってきて、本性を暴くのを恐れているんでしょう」


 サヴィエルは櫛を置き、椅子の背もたれに両手をついた。


 鏡越しに、私と視線を合わせる。


「北境へ戻りたいか?」


「望むなら、今すぐ軍を率いて北境を踏み潰し、お前のものだったものをすべて奪い返してやる」


 私は首を横に振った。


「北境には、もう未練なんてないわ」


「でも、リアに南境まで悪者にされるのを黙って見ているつもりもない」


 そのときだった。


 ガンマの隊長が、慌ただしく部屋に入ってきた。


「王上、王后」


「北境の大軍が国境まで押し寄せています」


「ケイン自ら三大部族の精鋭を率い、国境線の外に陣を敷いています」


 私は立ち上がった。


 目から笑みが消え、冷たい光が宿る。


「向こうから来たのなら、会ってあげましょう」


 国境の荒野には、強い風が吹き荒れていた。


 砂塵が舞い上がり、北境の軍勢が黒い波のように広がっている。


 ケインは大きな軍馬にまたがり、権力の象徴である銀の槍を手にしていた。


 その後ろの馬車には、豪華な鎧をまとったリアが乗っていた。


 私とサヴィエルが並んで城壁の上に姿を現すと、北境の軍勢がざわめいた。


 ケインが顔を上げた。


 私の姿を目にした瞬間、彼は雷に打たれたように固まった。


 まるで、目の前にいる輝くような女性が、かつて自分が雪原に捨てた役立たずと同一人物だとは信じられないようだった。


 その変化は、私にもはっきりと感じられた。


 ケインの内なる狼が、狂ったように咆哮を上げた。


 伴侶同士を引き寄せる力。


 私が双生の狼に目覚め、血筋の力を完全に解放したことで、鈍かった彼の内なる狼も、ようやく本当の伴侶の絆を感じ取ったのだ。


 ケインの目が、瞬く間に赤く染まった。


 心臓を強くつかまれるような感覚を、彼は愛情だと思い込んでいた。


「エラ!」


 ケインは馬を進めた。


 その声には、本人さえ気づいていない切迫感があった。


「やっぱり生きていたんだな」


「お前は俺に腹を立てていただけなんだろう?」


 私は城壁の上から彼を見下ろした。


 道化でも眺めるような目だった。


「ケイン首領。大軍を率いて南境まで来たのは、昔話でもするため?」


 私の冷淡な態度を、ケインは無視した。


 彼は自分に都合のいい申し出を、当然のように口にした。


「エラ、もう意地を張るな」


「南境の野蛮人どもと一緒にいて、何になる?」


「今すぐ俺のところへ戻ってくれば、これまでのわがままは許してやる」


「ルナの座も、もう一度与えてやってもいい」


「リアと同じ立場にしてやる」


 その言葉を聞いた瞬間、私は思わず吹き出した。


 笑い声が、荒野に虚しく響いた。


 同じ立場?


 いったいどれだけ自信過剰なら、私が彼から半分だけ与えられる地位をありがたがると思えるのだろう。


 後ろにいたリアが、慌てて叫んだ。


「ケイン兄様、正気なの!?」


「あの女は南境に穢された災厄なのよ!」


 ケインはリアを相手にしなかった。


 手にした銀の槍を持ち上げ、サヴィエルへ突きつけた。


「サヴィエル、彼女を俺に返せ」


「さもなければ、今日が南境の終わりだ」


 サヴィエルは一歩前に出て、私を背後にかばった。


 暗い金色の瞳に、殺意が渦巻いていた。


「返す?」


「お前にそんな資格があると思うのか?」


 ケインは激怒し、再び私を見上げた。


「エラ、これが最後のチャンスだ」


 私は小さく笑った。


「あなたが一度くれたものよ。汚らわしくて、二度と受け取りたくないわ」


 背後では、黒と白、二頭の狼の幻影が、ゆっくりと姿を現し始めていた。



8



「この俺を拒むだと? お前は生まれたときから北境の狼だ。死んだあとも、北境の亡霊であり続けるんだ!」


 ケインは目を血走らせ、銀の槍を掲げた。


 自尊心を、ひどく傷つけられたのだろう。


 彼はずっと、私が何をされても逆らわず、言われるがままに従うことに慣れていた。


 影のように自分の後ろをついてくる私を、当然の存在だと思っていた。


 それなのに今、私は彼のもとを離れ、彼よりも強い男と並んで立っている。


 ケインは完全に理性を失った。


「全軍、突撃!」


「南境を踏み潰せ! 裏切り者を捕らえろ!」


 怒号とともに、ケインが真っ先に駆け出した。


 戦争が始まった。


 北境の兵士たちは、押し寄せる波のように城壁へ殺到した。


 南境の狼たちも、天地を揺るがす咆哮を上げて迎え撃つ。


 荒野が血に染まっていった。


 ケインの狙いは明白だった。


 彼はまっすぐ私に向かってきた。


 手にした銀の槍が、致命的な冷光を放っている。


 後方では、リアが通信機に向かって叫んでいた。


「殺して! ケイン兄様、あの災厄を殺して!」


 ケインの目に、一瞬だけためらいが浮かんだ。


 だが、それもすぐに狂気にのみ込まれた。


 彼は高く跳び上がり、銀の槍を私の心臓へ突き立てようとした。


「エラ! 俺のものにならないのなら、死ね!」


 私はその場を動かなかった。


 体内では、双生の狼の力が激しく渦巻いていた。


 私が攻撃に転じようとした、その瞬間。


 大きな影が、私の前に飛び込んできた。


 サヴィエルだった。


 グサッ!


 騒然とした戦場の中で、刃が肉を貫く音がはっきりと響いた。


 ケインの銀の槍が、サヴィエルの肩甲骨を深々と貫いていた。


 鮮血が一気に噴き出した。


 飛び散った血が、私の顔にかかった。


 ひどく熱かった。


「サヴィエル!」


 私は思わず叫んだ。


 心臓がぎゅっと縮み上がる。


 サヴィエルは苦しげにうめいたが、一歩も退かなかった。


 それどころか、大きな手で、自分の肩を貫いている銀の槍を強くつかんだ。


 暗い金色の瞳には、凄まじい怒りが燃え上がっていた。


「ウォオオオオッ!」


 天地を揺るがす狼の咆哮が響いた。


「南境の者たちよ、我が命に従え!」


「誰一人、退くことは許さん!」


 アルファの血脈を通じた共鳴が、戦場の隅々まで声を届けた。


 南境の兵士たちの士気が、一気に跳ね上がった。


 ケインは銀の槍を引き抜こうとした。


 だが、槍はサヴィエルの手に縫いつけられたように、びくともしなかった。


「この狂人め!」


 ケインは歯を食いしばった。


 私は、サヴィエルの肩から流れ続ける血を見つめた。


 私を苦しめてきた銀の武器。


 その銀が、今度は彼を傷つけている。


 抑えきれない怒りが、魂の奥底から噴き上がった。


「お前たち……全員、死になさい!」


 私は顔を上げた。


 両目が、異様な色へと変わった。


 左目は純白。


 右目は、深淵のような漆黒。


「ウォオオオオッ!」


 白と黒、二頭の巨大な狼の幻影が、私の体から天へ駆け上がった。


 二頭は空中で急速に巨大化し、天を覆い尽くすほどの大きさになった。


 目に見えない力が空を引き裂き、雲が大きく割れた。


 昼間の空に、巨大な銀の月が姿を現した。


 月光が戦場を照らす。


 その光は、もはや優しくなかった。


 すべてを滅ぼすような力を帯びていた。


「月神の裁き!」


 私が叫んだ瞬間、戦場にいた北境の兵士たちの銀の武器が、一斉に耳障りな音を立て始めた。


 流浪狼や、かつての私のような「落ちこぼれ」を痛めつけるために使われてきた銀の武器。


 それらが突然、持ち主に向かって刃先を返した。


 そして、容赦なく反撃を始めた。


 あちこちから悲鳴が上がった。


 北境の大軍は、瞬く間に総崩れとなった。


 サヴィエルは、私が解き放った力を見つめ、誇らしげに口元を緩めた。


 そして、肩に刺さった銀の槍を力任せに引き抜いた。


「彼女に手を出したければ、まず俺を殺してからにしろ!」


 彼は槍をケインの足元へ、勢いよく投げつけた。



9



「そんなはずない! 狼を持たない役立たずが、どうしてこんな力を……!」


 リアは恐怖に顔を歪め、その場に尻もちをついた。


 馬車から転げ落ち、豪華な鎧が泥まみれになった。


 私はゆっくりと城壁を下りた。


 背後では、白と黒の二頭の狼が、忠実な護衛のように私についてきていた。


 一歩進むたび、圧倒的な威圧感が広がり、北境の兵士たちは耐えきれずに地面へひれ伏した。


 私はリアの前で足を止めた。


 かつて、あれほど傲慢だった女を見下ろす。


「純血の末裔?」


 私は冷笑した。


「あなた、自分の卑しい手口が、いつまでも誰にも見破られないと思っていたの?」


 手を持ち上げると、黒狼の幻影が大きく口を開いた。


 魂まで震わせるような咆哮を、リアに向かって放った。


 黒狼が放つ破壊の気配にさらされ、リアの体を覆っていた偽装が、完全に崩れ去った。


 鼻を刺すような薬品の臭いが、彼女の体から立ち上った。


 帝都の地下闇市で売られている、狼人の血脈を無理やり活性化させる禁薬の臭いだった。


「きゃあああっ!」


 リアは苦しげに頭を抱え、地面を転げ回った。


 彼女の体内には、薬によって無理やり作り出された、哀れな灰色の狼の幻影が潜んでいた。


 だが、黒狼の気配に触れた瞬間、それは雪が炎に溶かされるように、跡形もなく引き裂かれた。


「私の狼……私の狼が!」


 リアは絶望の叫びを上げた。


 彼女は、二度と変身する能力を取り戻せなくなった。


 オメガよりも力のない、ただの人間に成り果てたのだ。


 その光景を目の当たりにした北境の長老や兵士たちは、驚きのあまり言葉を失った。


 彼らは、ようやく真実を理解した。


 神のように崇めていた純血のルナは、とんでもない詐欺師だった。


 そして、これまでゴミのように扱ってきた落ちこぼれこそが、本当の月神の娘だったのだ。


 ケインは、呆然とその光景を見つめていた。


 手にしていた武器が、地面に落ちた。


 彼の内なる狼は、魂を突き破ろうとするほど激しく暴れていた。


 悲痛な遠吠えが、ケインの内側から響いていた。


 本当の伴侶を失ったことによる絶望と、契約の反動だった。


 ケインは膝から崩れ落ち、私の前にひざまずいた。


 涙があふれ、顔には後悔と懇願が浮かんでいた。


「エラ……俺が悪かった」


「俺が見る目のない馬鹿だった。あの女に騙されていたんだ」


「俺の狼が泣いている。お前を求めているんだ」


「頼む、俺のところへ戻ってきてくれないか?」


 彼は手を伸ばし、私のドレスの裾に触れようとした。


 かつて、私が何度も彼の服の裾をつかみ、すがりついていたように。


 私は一歩後ろへ下がり、その手を避けた。


 目には、何の感情も浮かんでいなかった。


「ケイン。あなたは騙されていたんじゃない」


「自分勝手で、リアばかりをひいきしていただけよ」


「私の献身は都合よく受け取りながら、平凡な私を見下していた」


「それなのに、私が強くなった途端、今度は戻ってきてほしい?」


 私は目を閉じた。


 魂の奥深くに残る、一本の切れた契約を感じた。


 それは、北境で結ばれた古い伴侶契約だった。


 私は深く息を吸い、再び目を開いた。


 声は冷たく、決然としていた。


 その言葉は、戦場にいるすべての者へ届いた。


「私、エラは、かつてあなたが私を拒絶したことを受け入れる。そして、これから先も永遠に、あなたを拒絶する」


 私は、飼い主に捨てられた犬のようにひざまずくケインを、冷ややかに見下ろした。



10



「俺の王后、帰ろう」


 満月の下、サヴィエルは私の頭に王后の冠を載せた。


 それは、南境で最も貴重な黒曜石と月光石を使って作られた冠だった。


 ずっしりとした重みが頭にかかった。


 けれど、不思議と心は満たされていた。


 これほど確かな安心感を覚えたのは、生まれて初めてだった。


 私は振り返った。


 眼下には、何千何万という南境の狼人たちが、私に頭を垂れていた。


 そして、隣には私のためなら命さえ惜しまない男が立っていた。


 私はようやく、心の底から笑うことができた。


「ええ、帰りましょう」


 あの大戦のあと、北境は完全な混乱に陥った。


 純血のルナという嘘が暴かれ、ケインの威信は地に落ちた。


 三大部族は資源と領地を奪い合い、互いに争い始めた。


 かつて絶対的な力を誇っていた北境は、まとまりを失い、ばらばらになっていった。


 数か月後。


 北境の年老いた長老たちが、山を越え、長い旅路を経て南境へやってきた。


 彼らは私の宮殿の前にひざまずき、涙ながらに懇願した。


「エラ王后、北境はもう限界です」


「どうか、かつて同じ部族だった者たちのために、北境を救ってください」


 私は高いバルコニーに立ち、かつて私を嘲笑し、罵ってきた者たちの顔を見下ろした。


 心には、何の波風も立たなかった。


「私はもう、北境に返さなければならないものなどありません」


 私は静かに断った。


 ただし、彼らを皆殺しにするつもりもなかった。


 私は南境の国境を開放するよう命じた。


 戦乱で両親を失った北境の幼い狼たちが、南境の保護施設へ入れるようにしたのだ。


 それが、月神の娘として私が与えた、最後の慈悲だった。


 時は流れた。


 数年後。


 私とサヴィエルの統治のもと、南境はかつてないほどの繁栄を迎えていた。


 そして、私の人生で最も大切な日が訪れた。


 私は双子の狼の赤ん坊を産んだ。


 一匹は雪のように真っ白な白狼で、私の癒やしの力を受け継いでいた。


 もう一匹は夜のように深い黒狼で、サヴィエルと私の破壊の力を受け継いでいた。


 二頭の誕生に、南境全体が歓喜に包まれた。


 サヴィエルは二匹を抱き上げ、まるで子供のように笑っていた。


 普段の冷酷な狼王の面影は、どこにもなかった。


 そして、ケインは。


 生涯にわたって新たな伴侶を結ぶことができなくなったらしい。


 本当の伴侶を失ったことで、内なる狼も日に日に狂暴になっていった。


 やがて、北境の新しい首領によって追放された。


 雪原をさまよう、ただの流浪狼になったのだ。


 理性も、尊厳も失い、腐肉を拾って食べながら生き延びるしかなかった。


 ある日の夕暮れ。


 私はサヴィエルと二人の子供を連れ、雪原の端を散歩していた。


 夕陽が雪を金色と深紅に染め上げていた。


 そのとき、小さな黒狼の子が足を止めた。


 遠くにいる、背中を丸めた男を見つけたのだ。


 男はゴミの山をあさり、食べられるものを探していた。


 全身が汚れ、ひどい悪臭を放っていた。


 私たちの視線に気づいたのか、男が顔を上げた。


 濁った目には狂気が宿っていた。


 だが、私たちを見た瞬間、その奥に、耐えがたいほどの苦痛がよぎった。


「ママ。雪の中でゴミを拾っている、あの流浪狼は誰なの?」


 小さな黒狼の子が、遠くの背中を指さして尋ねた。





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― 新着の感想 ―
 荒野の戦場に放り出された錯覚をおぼえる程の骨太ファンタジーただただ脱帽。 作者対して 敬礼。
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