夕立ちの人。
打ち合わせのため訪れたのは、いくつかの会社が名を連ねる総合ビル。
エントランスは広く、普段ならあちこちで名刺の交換や挨拶の声が飛び交っているが、土曜日だからか人は疎ら。
何気なく辺りを見渡し、目を引いたのはゴージャスな巻き髪の美女だった。
豊満な体躯をセンスのいいスーツで包み、品のある化粧が派手な顔立ちを引き立てている。
目立つが、決して下品ではない。仕事ができそうだな、と誰もが思うような所作がある。
来客を見送り、カツカツと早い足音の彼女が通り過ぎた時。
「知華」
聞こえた声に、菊野は心臓が止まるかと思った。
疑うはずもない。想い人の声だ。バクバクと一気に鼓動が早くなる。
このビルに勤めていたとは、付き合い始めた今でも知らなかった。
そして、先ほどの美女を名呼びするほど親しいことも、当然のように。
「何よ、どうしたの」
「手を借りたい」
「今度は何」
つっけんどんな言葉に聞こえるが、彼女の声には笑みが混じっている。
対する夕も、普段よりずいぶん砕けているように思えた。
「打ち上げの景品」
「やーだ、すっかり忘れてたわ。夕、さすがだわね」
「買いに行くか、取り寄せるか。選ぶのは一緒にやってくれると助かる」
「そうねえ。来週以降の私のスケジュール、適当に押さえといて。夕、これから外なら、傘持って行きなね。折り畳みある?」
「あ、デスク」
「ほら」
「ありがとう、助かる」
「はいはい。行ってらっしゃい」
気さくに女性と別れた夕の気配が近づく。知らず、菊野の肩に力が入った。
「あれ、菊野さん?」
バクン、とひと際心臓が跳ねる。
慌てて顔を上げると、女性物と思しき折り畳み傘を手に、夕が目を丸くしてこちらを見ていた。
なんとか笑みを貼りつける。彼とは、夜に会う予定だったが。
「夕くん、奇遇だね」
「こんにちは」
律儀に向き直って礼をしてくれるが、菊野は彼の持つ折り畳み傘と、何より外への用事が気になって仕方ない。
今日は土曜日だ。本来なら、休日のはず。急ぎでないわけがない。
「夕くん、俺は構わないから。ね、お仕事中だし」
「ありがとうございます。では、夜に」
「うん。気をつけてね」
彼を見送ってほっと息をついた頃、菊野の打ち合わせ相手も姿を表し、仕事モードへと意識を切り替えた。
「あら」
「あ」
想定よりも打ち合わせが長引き、もうすぐ17時になるかという頃、いくらか照明の落ちたエントランスに降りると二人の女性がいた。
片方は、あの美女だ。彼女も菊野と夕が挨拶していたのを見ていたのだろう、なんとなく会釈し合う。
そのまま出口に向かうと、パタパタと急いた足音がして、夕が入ってきた。
頭を振って髪についた雨粒を散らし、菊野と美女たちを見てきょとんとする。
「夕くん、今戻り? 俺も今終わったんだ」
「お疲れ様です。菊野さん、ちょっと待てますか? すぐ戻ります。知華たちも、駅まで送る」
「私たちは先に帰るわよ」
「だめだ」
言い切って、夕が駆け足で去っていく。
苦笑した美女が菊野に向き直り、綺麗な所作で一礼した。
「長谷川知華と申します。夕とは、同期で」
「ああ、長谷川さん……」
「我が社には、長谷川が五人おりまして。実は、こちらも長谷川です」
なるほど、名呼びにも納得だ。ちょっぴりほっとしつつ、菊野も名乗った。
なんとなく座りが悪い。いや、一方的にだが。
ほんの少し女性たちと距離を保ったまま、彼女たちの話を聞くともなしに耳に入れる。
「夕さん、女の人には優しいって聞いたよ。飲み会帰りは、必ず男性に駅まで送らせるって」
「何言ってんのよ。あれはフェミニストでも何でもないわ」
「どういうこと?」
「確かに飲み会の時は、女一人では帰さないんだけどね。前に『さすがのおまえでも女には優しいな』って絡んだ同期がいて」
「うん」
「すっごい怪訝そうに眉間に皺寄せて『夜道を歩く際の危険度に性差がないと本気で思っているなら、人間をやり直すべきだ』って」
「あー……『おうちに帰るまでが遠足』って人なのね」
「そう。あいつはフラットよ。本っ当に、贔屓も差別も一切ない、ただのフラットな人。腕力に差があるから手を貸す、身長差があるから手を貸す、みたいな。男女問わずね」
「面白い人だね」
「だから、困った時に手を借りやすいのよ。女を全面に出して甘える奴には『それくらいご自分でどうぞ』とか普通に言うし」
「わあ。気持ちいいね」
「本当に困った時に断ることはないわね。それが年上だろうが年下だろうが、男だろうが女だろうが同じ。夕も、困ってますって素直に言うわよ。不器用なので、って私も頼まれたことあるわ」
「何しようとしてたの?」
「社用車のキーリング通し」
「ちょっ、そこまで!?」
「びっくりするわよ。不器用もここまでか、って見てて苛々するから奪い取ったわね」
「意外すぎる……」
本当に。思わず頷いてしまうほど、彼女たちの話は興味深い。
駅までの通りには、繁華街がある。土曜日の今日は、この時間でも賑やかだろう。
ああ好きだなと性懲りもない気持ちに、菊野はときめく胸を押さえた。




