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【BL】春時雨  作者: 雨傘 はる
本編
8/9

八雫目


ぱつ、と窓を叩くかすかな音がした。

見れば、堪えられなかった曇天からあふれた雫が、硝子に筋を作っている。


ふ、と吐息のような笑みが漏れた。

さっきから、夕は、応えられない理由を探している。


彼の家に行きたくない、と思った。

彼を自宅に招きたくない、と思った。

たくさんの人と付き合える人だ、と思う。


彼の外見に変化があったのはなぜ?

付き合っていたたくさんの人と別れたのは?

宝物のように触れるのは────夕に触れられなくなったのは、なぜ?


とっくに、もう、理由はわかっているはずだ。

ただ、怖気づく心が、惑わせるだけ。先を望むから、恐ろしくなる。

だって、夕はこの人が嘘をついているとは、ちっとも思えはしないのだ。


「……ふ」


「夕くん? ……笑ってる?」


「いや……はい。ちょっとおかしくて」


驚いたように瞬く透明の水色が綺麗で、夕は目を逸らすことができない。


「菊野さんは、どんなふうになりたいですか」


夕に好意を告げて、振られることしか覚悟していない、優しくて寂しがりな人。

大きな手が、逞しい肩が、薄い唇が、ずっと恐怖に震えている。


「どんなふう……そうだね。叶うなら、おじいちゃんになっても、雨の日は一緒に窓を眺めたいかな」


ああ、そうか。

この人はもう、そんな遠くまでも望んでいるのか。

いつの日か、なんて表現しかできないほど、遠い先の未来までも。


見送ることに疲れた夕の手を、引いて歩いてくれるのか。


「……俺は」


乾く喉を咳払いで誤魔化して、夕は慎重に言葉を選ぶ。

剥き出しの心を差し出してくれた人に向かい合うのは、こんなに怖いものなのか。


傷つけたくない。

そう思っていることだけは、夕の本心だ。


「正直、愛も恋も知らないし、必要だと思ったこともありません」


うん、と泣きそうに笑うから、こちらの胸までも痛む気がする。


「今俺が思っているのは、あなたが寂しくなければいいなと、それだけです」


「……夕くん」


「俺はたぶん上手にできません。あなたが望むようには、おそらくなれない。ただ、傷つけたくないと思っています」


この言葉が菊野を傷つけるものかどうかすら、夕にはわからない。

想像でしかないが、温度差のある関係性は、そう長続きはしないのではないだろうか。

彼が、何度も頬を叩かれたみたいに。


「菊野さんと同じ温度で想えるかは、わかりません」


「……夕くんは、温度差があるとつらい?」


「どうでしょうか。菊野さんがつらそうなのは、嫌だなと思います」


「俺がきみといたいのは、迷惑?」


「いいえ」


「……好ましいと、少しでも思う?」


「その他大勢とは違います」


ふ、と脱力するように笑った菊野が、震える手で夕の頬に触れる。

逃げてくれるなと、怖がってくれるなと懇願するような、ゆっくりとした仕草だった。


「夕くんのそれは、特別だと思っていい気がする」


「……そう、ですね。菊野さんと同じ場所には、誰もいません」


今までも、空席だった。これから先にも、埋まる予定はない。

たぶん生涯、菊野だけがそこにいる。


「たとえ温度差があっても、特別なら嬉しい」


「……そうですか」


ああ。こういう時、もっと気の利いた言葉が言えたらいいのに。何か、彼の心を晴らすような。


「温度差の分、たくさん話がしたい。一つずつ、きちんと。……俺の恋人に、なってもらえますか」


一層震えた菊野の冷たい手に、思わず自分の手を重ねた。衝動のまま、頬に押しつける。


「俺でよければ」


努力しよう、と思う。いつだって鈍く生きてきた夕には、感情を磨くことから始めないといけない。

けれど、この人を傷つけたくないと願うならば、努力しなければならない。


夕が好きだと、泣いてくれるような人には、きっともう出会えないだろうから。


雫が伝う窓の内側で、一人と一人は静かに乾くのを待っていた。











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