八雫目
ぱつ、と窓を叩くかすかな音がした。
見れば、堪えられなかった曇天からあふれた雫が、硝子に筋を作っている。
ふ、と吐息のような笑みが漏れた。
さっきから、夕は、応えられない理由を探している。
彼の家に行きたくない、と思った。
彼を自宅に招きたくない、と思った。
たくさんの人と付き合える人だ、と思う。
彼の外見に変化があったのはなぜ?
付き合っていたたくさんの人と別れたのは?
宝物のように触れるのは────夕に触れられなくなったのは、なぜ?
とっくに、もう、理由はわかっているはずだ。
ただ、怖気づく心が、惑わせるだけ。先を望むから、恐ろしくなる。
だって、夕はこの人が嘘をついているとは、ちっとも思えはしないのだ。
「……ふ」
「夕くん? ……笑ってる?」
「いや……はい。ちょっとおかしくて」
驚いたように瞬く透明の水色が綺麗で、夕は目を逸らすことができない。
「菊野さんは、どんなふうになりたいですか」
夕に好意を告げて、振られることしか覚悟していない、優しくて寂しがりな人。
大きな手が、逞しい肩が、薄い唇が、ずっと恐怖に震えている。
「どんなふう……そうだね。叶うなら、おじいちゃんになっても、雨の日は一緒に窓を眺めたいかな」
ああ、そうか。
この人はもう、そんな遠くまでも望んでいるのか。
いつの日か、なんて表現しかできないほど、遠い先の未来までも。
見送ることに疲れた夕の手を、引いて歩いてくれるのか。
「……俺は」
乾く喉を咳払いで誤魔化して、夕は慎重に言葉を選ぶ。
剥き出しの心を差し出してくれた人に向かい合うのは、こんなに怖いものなのか。
傷つけたくない。
そう思っていることだけは、夕の本心だ。
「正直、愛も恋も知らないし、必要だと思ったこともありません」
うん、と泣きそうに笑うから、こちらの胸までも痛む気がする。
「今俺が思っているのは、あなたが寂しくなければいいなと、それだけです」
「……夕くん」
「俺はたぶん上手にできません。あなたが望むようには、おそらくなれない。ただ、傷つけたくないと思っています」
この言葉が菊野を傷つけるものかどうかすら、夕にはわからない。
想像でしかないが、温度差のある関係性は、そう長続きはしないのではないだろうか。
彼が、何度も頬を叩かれたみたいに。
「菊野さんと同じ温度で想えるかは、わかりません」
「……夕くんは、温度差があるとつらい?」
「どうでしょうか。菊野さんがつらそうなのは、嫌だなと思います」
「俺がきみといたいのは、迷惑?」
「いいえ」
「……好ましいと、少しでも思う?」
「その他大勢とは違います」
ふ、と脱力するように笑った菊野が、震える手で夕の頬に触れる。
逃げてくれるなと、怖がってくれるなと懇願するような、ゆっくりとした仕草だった。
「夕くんのそれは、特別だと思っていい気がする」
「……そう、ですね。菊野さんと同じ場所には、誰もいません」
今までも、空席だった。これから先にも、埋まる予定はない。
たぶん生涯、菊野だけがそこにいる。
「たとえ温度差があっても、特別なら嬉しい」
「……そうですか」
ああ。こういう時、もっと気の利いた言葉が言えたらいいのに。何か、彼の心を晴らすような。
「温度差の分、たくさん話がしたい。一つずつ、きちんと。……俺の恋人に、なってもらえますか」
一層震えた菊野の冷たい手に、思わず自分の手を重ねた。衝動のまま、頬に押しつける。
「俺でよければ」
努力しよう、と思う。いつだって鈍く生きてきた夕には、感情を磨くことから始めないといけない。
けれど、この人を傷つけたくないと願うならば、努力しなければならない。
夕が好きだと、泣いてくれるような人には、きっともう出会えないだろうから。
雫が伝う窓の内側で、一人と一人は静かに乾くのを待っていた。




