七雫目
「ぁ、待って、夕くん!」
ホテルのエントランスで、やっと我に返ったらしい菊野が、つないだ手に力を込めて立ち止まった。
自然、夕も足を止める。首を傾げると、やっぱりぐるぐると思考を回しているような顔で、菊野が焦っている。
「お、俺の家……は、嫌か。ええと……」
「ホテルは嫌ですか」
「嫌じゃない。でも、話がしたい」
何を言う。最近は、ここで話をしているだけだろうに。
埒が明かないので、夕はほとんど強引に手を引き、受付を済ませた。
申し訳ないが、彼の家に行くつもりも、彼を自宅に招くつもりもない。
ベッド端に菊野を座らせ、冷蔵庫から出した水を持たせて、夕は窓際の椅子に腰かけた。
昼間はそれなりに晴れていたのに、また厚い雲が空を覆っている。雨が降りそうだ。
急かすことなく、ただ窓の外を眺めながら、今日一日のことを思い出す。
水中散歩をしているような水族館の青。泳ぐ魚は気持ちよさげで、一緒に流れてみたくなる。
────ああ。彼との沈黙は、雨降る水面の下を浮遊するようだ。
心地よく揺蕩って、自然の流れに身を委ねて、心身が解き放たれるような。
呼吸だけが、ほんの少し、本当に少しだけ、苦しい。
心がぎゅっとなるのは、なぜだろう。ふとした瞬間。
たとえば、彼の透明な水色が細まった時とか、淡く口端だけで歪むように笑んだ瞬間とか。
答えは、見つけようと思えばすぐそこにある気がするのに、なぜだかするりと逃げていく。
まだ時ではないのか。あるいは、夕が無意識に避けているのか。
煙草に火を呼んでから、そういえば、と菊野を振り返る。
いつからか、彼の栗色のくせ毛は襟足が整えられ、すっきりと清潔感のある長さになった。
髪の合間で揺れていたピアスは控えめに、ネックレスやブレスレットも華美じゃなくなった。
彼の心境の変化は、外見にも現れていたのか。
一人納得した夕は、共にいる時はほとんど手にしない煙草に口をつけ、また窓に向き直る。
やけに舌に苦い気がして、三口ほどで灰皿に押しつけた。
「……夕くん」
「はい」
迷子のような声に振り返る。
ベッドに上がろうとはしない菊野が、透明の水色の瞳を揺らして、夕を見ていた。
「俺は、きみが好きみたいだ」
「俺も、菊野さんが好きですよ」
少なくとも、その他大勢では、もうない。
身体に触れるほどの距離を許したのは、他に候補がいなかったとはいえ、この人だからというのもあると思う。
優しくて穏やかで、過ぎるほど気遣いのある人。
でなければ、二度目以降を続けることはなかった。たとえ望まれても。
だから、好ましいと告げたのだけれど、菊野は苦笑した。
「そうじゃなくて……俺ね、もう他に付き合ってる人はいないよ。みんな別れた」
「大変そうでしたね」
「いやまあ、自業自得だしね。だから、夕くんだけ」
「そうなんですか」
夕との関係を精算したいわけではないと、さっきも言っていた。セフレを一人に絞るのだろうか。
夕は頷き、ペットボトルのお茶を呷る。ぬるい苦味が舌を刺した。
「もうずっと、夕くんだけ」
「……」
なんだか、奇妙な言い回しだ。夕はわずかに眉間に皺を寄せ、菊野に向き合うように座り直す。
普段よりは遠い、ここ最近の彼が保ちたがる距離。体温までは伝わらない程度の。
「俺は、きみが、好きだよ」
菊野の甘い声が、震えている。喉仏が動き、唾を飲み込む。
緊張しているのか。たかが、夕と向き合うことに。少し目を伏せる。
「……それは、」
我ながら情けない、戸惑った声だと思う。
想像もしていなかった。────本当に?
柔らかく宝物のように扱う手は、その他大勢と同じだと、本当に思っていたのか。
外で話せて嬉しいと喜ぶ男に、急に触れなくなった手に、夕は何も感じなかった?
「あなたが求めていた関係とは、違うものですか」
「うん。夕くんが求めていたのとも、違う」
つまり。それは、つまり。
だんだん視線が下向くのが、自分でもわかった。
とうの昔に無理だと切り捨てた、愛だの恋だのという、それのことだろうか。
誰かを特別に想い、束縛することも慈しむこともできる関係。夕の人生に登場したことも、今後する予定もなかったものだ。
────菊野さんが、俺を好き?
いったいどうしたら、そんな事態になるのだろう。夕にはさっぱりわからない。
移り気というか、気の多いというか、とにかく不特定多数と付き合える人だ。
夕との関係が続いているのだって、不思議でならないのに。
独り占めしたいと思ったことはない。土曜日以外の時間を求めたことも、抱き合う以外の機会を欲したことも。
けれど、一緒にいて居心地がいいのは確かだ。言葉がなくても安心できる、稀有な人。
たったそれっぽっちでは、愛だの恋だのとは呼べないはずだ。
夕にとって菊野は、非日常の中に存在する、どこか遠い人だった。手を伸ばそうと思えないほどに。




