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【BL】春時雨  作者: 雨傘 はる
本編
7/9

七雫目


「ぁ、待って、夕くん!」


ホテルのエントランスで、やっと我に返ったらしい菊野が、つないだ手に力を込めて立ち止まった。

自然、夕も足を止める。首を傾げると、やっぱりぐるぐると思考を回しているような顔で、菊野が焦っている。


「お、俺の家……は、嫌か。ええと……」


「ホテルは嫌ですか」


「嫌じゃない。でも、話がしたい」


何を言う。最近は、ここで話をしているだけだろうに。


埒が明かないので、夕はほとんど強引に手を引き、受付を済ませた。

申し訳ないが、彼の家に行くつもりも、彼を自宅に招くつもりもない。


ベッド端に菊野を座らせ、冷蔵庫から出した水を持たせて、夕は窓際の椅子に腰かけた。

昼間はそれなりに晴れていたのに、また厚い雲が空を覆っている。雨が降りそうだ。


急かすことなく、ただ窓の外を眺めながら、今日一日のことを思い出す。

水中散歩をしているような水族館の青。泳ぐ魚は気持ちよさげで、一緒に流れてみたくなる。


────ああ。彼との沈黙は、雨降る水面の下を浮遊するようだ。


心地よく揺蕩って、自然の流れに身を委ねて、心身が解き放たれるような。

呼吸だけが、ほんの少し、本当に少しだけ、苦しい。


心がぎゅっとなるのは、なぜだろう。ふとした瞬間。

たとえば、彼の透明な水色が細まった時とか、淡く口端だけで歪むように笑んだ瞬間とか。


答えは、見つけようと思えばすぐそこにある気がするのに、なぜだかするりと逃げていく。

まだ時ではないのか。あるいは、夕が無意識に避けているのか。


煙草に火を呼んでから、そういえば、と菊野を振り返る。

いつからか、彼の栗色のくせ毛は襟足が整えられ、すっきりと清潔感のある長さになった。

髪の合間で揺れていたピアスは控えめに、ネックレスやブレスレットも華美じゃなくなった。


彼の心境の変化は、外見にも現れていたのか。

一人納得した夕は、共にいる時はほとんど手にしない煙草に口をつけ、また窓に向き直る。

やけに舌に苦い気がして、三口ほどで灰皿に押しつけた。


「……夕くん」


「はい」


迷子のような声に振り返る。

ベッドに上がろうとはしない菊野が、透明の水色の瞳を揺らして、夕を見ていた。


「俺は、きみが好きみたいだ」


「俺も、菊野さんが好きですよ」


少なくとも、その他大勢では、もうない。

身体に触れるほどの距離を許したのは、他に候補がいなかったとはいえ、この人だからというのもあると思う。


優しくて穏やかで、過ぎるほど気遣いのある人。

でなければ、二度目以降を続けることはなかった。たとえ望まれても。


だから、好ましいと告げたのだけれど、菊野は苦笑した。


「そうじゃなくて……俺ね、もう他に付き合ってる人はいないよ。みんな別れた」


「大変そうでしたね」


「いやまあ、自業自得だしね。だから、夕くんだけ」


「そうなんですか」


夕との関係を精算したいわけではないと、さっきも言っていた。セフレを一人に絞るのだろうか。

夕は頷き、ペットボトルのお茶を呷る。ぬるい苦味が舌を刺した。


「もうずっと、夕くんだけ」


「……」


なんだか、奇妙な言い回しだ。夕はわずかに眉間に皺を寄せ、菊野に向き合うように座り直す。

普段よりは遠い、ここ最近の彼が保ちたがる距離。体温までは伝わらない程度の。


「俺は、きみが、好きだよ」


菊野の甘い声が、震えている。喉仏が動き、唾を飲み込む。

緊張しているのか。たかが、夕と向き合うことに。少し目を伏せる。


「……それは、」


我ながら情けない、戸惑った声だと思う。


想像もしていなかった。────本当に?

柔らかく宝物のように扱う手は、その他大勢と同じだと、本当に思っていたのか。

外で話せて嬉しいと喜ぶ男に、急に触れなくなった手に、夕は何も感じなかった?


「あなたが求めていた関係とは、違うものですか」


「うん。夕くんが求めていたのとも、違う」


つまり。それは、つまり。

だんだん視線が下向くのが、自分でもわかった。


とうの昔に無理だと切り捨てた、愛だの恋だのという、それのことだろうか。

誰かを特別に想い、束縛することも慈しむこともできる関係。夕の人生に登場したことも、今後する予定もなかったものだ。


────菊野さんが、俺を好き?


いったいどうしたら、そんな事態になるのだろう。夕にはさっぱりわからない。

移り気というか、気の多いというか、とにかく不特定多数と付き合える人だ。

夕との関係が続いているのだって、不思議でならないのに。


独り占めしたいと思ったことはない。土曜日以外の時間を求めたことも、抱き合う以外の機会を欲したことも。

けれど、一緒にいて居心地がいいのは確かだ。言葉がなくても安心できる、稀有な人。


たったそれっぽっちでは、愛だの恋だのとは呼べないはずだ。

夕にとって菊野は、非日常の中に存在する、どこか遠い人だった。手を伸ばそうと思えないほどに。




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