五雫目
その日の菊野は、どこかぼんやりした様子だった。
待ち合わせ場所にやって来て、ホテルに入った後は、シャワーを浴びるでもベッドに向かうでもなく、触れるでもない。
雨の降りしきる窓を見つめてじっと動かない菊野に、夕は冷蔵庫から取り出した缶ビールを手渡す。
一応、お礼と共に小さい微笑は返ってきたが、端正な横顔はすぐに表情をなくした。
菊野は、基本的に微笑んでいる。たぶん怒っていても、戸惑っていても、癖のように。
時折り情事の際に切羽詰まった表情はするが、穏やかに笑っているのが常だ。
もちろん、一緒にいる時にこうして考え事に没頭することも、ましてこちらを見ないこともない。
会いに来たということは、共にいること自体は嫌ではないのだろうと、夕はベッドの端に腰かけた。
「……失ったと思っていたものを、思いがけず見つけてしまったら、きみはどうする?」
無音の室内に、菊野の低く甘やかな声が響く。
ちらりと横目で見やると、彼の透明の水色には窓の雨筋が流れていた。
言葉の意図は、夕にはよくわからない。
けれど、たぶん物や人ではなく、感情についての質問に思えた。物や人ならば、この人は手に入れる力がある。
「いらないから捨てたものですか」
「いや……」
「奪われたものですか」
「……違う、かな」
「時の経過が失わせたものですか」
「ああ……そうかもしれない」
美しい透明の瞳に、懐古の色が浮かぶ。憧憬にも似た、幼げな。
夕は、ただ静かに頷いた。冷たいと捉えられがちな声音を、努めて柔らかく紡ぐ。
「今のあなたなら抱えられるから、戻ってきたのかもしれませんね」
ぱちり、瞬いた水色が、ようやく夕を映す。
呆気に取られた表情が珍しくて、つい笑みが浮かんだ。
「その時には、きっと重すぎたのでしょう。だから、手放した」
「重すぎた……」
「取り戻すほどの力をつけたか、もしくは奥底に隠していた。今ならば、と、呼んだのかもしれませんね。もしそうなら、大切に抱えておくと思います」
話すのは得意じゃないから、どうにもうまく伝えられない。
夕はいつもそうだ。伝えたいことほど、上手に言葉を選べない。もどかしさに唇を噛んだ。
「……夕くん」
知らず歯を立てていた下唇に、するりと長い指が触れる。
泣き笑いのようにほんのり歪む、初めて見る微笑がいる。
「ありがとう。嬉しい答えだった」
優しいこの人は、夕の下手くそな冗談にすら笑ってくれるから、本音が見えにくい。
噛んだ唇を解かれて、傷を確かめるように撫でられる。
「俺は意気地なしだから……ちょっと、抱きしめてもいいだろうか」
「どうぞ」
抱きしめるも何も、それ以上のこともしているだろうに。
躊躇いなく頷いた夕に苦笑し、長身がゆっくりと後ろから夕を包むようにゆるく抱きしめた。
ぎし、と体重を受け止めるベッドの軋みと、耳元で漏れた長い吐息。ほんの少しくすぐったい。
二人ともベッドにいるのに、身体を寄せ合っているのに、見ているのは窓向こうの雨。
じんわりと染み入るような沈黙に身を委ねていると、まるで最初からこんなふうに存在していた心地にすらなる。
「……夕くん」
「はい」
「外で、無視しないでくれてありがとう」
「気にしないで、見かけたら声かけてくださいね」
「そうする。俺、雨がちょっと苦手だったんだ」
突然の話題変換に、夕はひとまず口を噤んだ。
そういえば、いつも性急に事を進める人ではないが、こんなにたくさんの会話をするのは初めてだ。
「匂いがね……どうにも、嫌なことを思い出させる」
首筋に額をすりつける菊野の吐露を、止めるべきかどうか一瞬迷って、結局やめた。
この場限りのセフレにだから話せることも、たぶんあるのだろう。
「雨の日はだいたい憂鬱で、感情もうまくコントロールできなくて……いい歳して情けないけど。人と会うのも億劫で、あんまり外にも出ない」
偶然とはいえ、夕と会う土曜日は雨が多かった気がするが。
心の中で首を傾げつつ、無言を相槌の代わりにする。
「けど、なんだろうね。雨が好きなきみを見てると、そう悪いものでもないかなって、最近は思うんだよね」
雨が好きだと、菊野に言ったことはない。
言葉にしない些細にも気づくほど繊細だから、雨一つにも感情を揺らしてしまうのかもしれない。
「水面に溶ける雨。きみと見たあの光景を、たぶん俺はずっと死ぬまで覚えている」
あの河川敷の、高架橋の下でのことか。たった一度きり、たった数分を、死ぬまで。
いくつもの言葉を吟味して、そろりと口を開く。
「なら、俺もそうします」
菊野が何を思い、何を欲しているのか、夕にはさっぱりわからない。
ただ、優しくて寂しがりな菊野が、一人きりでないといいなと思った。
ずっと先にそれを思い出すこの人の傍に、誰かがいてくれたらいい。
肌を合わせることのない逢瀬は、これが初めてだった。




