四雫目
夕と菊野の関係は、のらりくらりと続いていた。
初めての土曜日が終わった時、夕はこれっきりだと翌週は普段通り過ごしていたのだが、外階段にいた菊野に呼ばれて『嫌でなければ』と控えめに誘われたので、次の土曜日からは可能な限り待ち合わせ場所に赴いた。
なぜ続けたいと思ったのか知らないし、聞くつもりもない。
夕はただ、想像したよりずいぶん密かな時間を好ましく感じたし、それ以外の制約のない気楽さを気に入っている。
菊野は、毎度びっくりするほど優しい。
丁寧に柔らかく、まるで宝物のように夕に触れる。唇への口づけはしないが、身体中にキスをされた。
他人と距離を保って生きてきた夕にとって、菊野は唯一深くまで知り合う仲だ。
けれど、菊野は本命を作らないという宣言通り夕を縛ることはしないし、余計な詮索もない。
なるほどこれはと、ちょっとばかり彼のスタンスを理解してしまったほど、夕の性に合っていた。
だからといって、夕は菊野以外ともそうしてみようという気はない。
非日常は、日常にしてしまうには惜しい。これくらいがちょうどいいのだ。
名前と、今も変わらず男女問わないプレイボーイであること、向かいのマンションに住んでいること。
夕はそれ以上、彼を知ろうとも思っていない。
刺激的な非日常を含む日々を、夕は大変気に入っている。
「……?」
ふと、視線を感じた気がして、夕は顔を上げた。
しとしと降る細い雨筋の向こう側、すっかり見慣れたゆるいウェーブがかった栗色を見つける。
透明な水色と目が合った。が、慌てたように視線を外された。
仕事帰りの夕は、スーツを着ている。まだ日も暮れていない。
変に優しい彼は、外で声をかけるのはどうだろう、なんて遠慮しているのだろうか。
「菊野さん」
傘を差しかけて呼ぶと、びっくり眼の水色が振り返る。
「濡れますよ」
「……うん」
そんなに気を遣わなくとも、傍目からセフレと友人にさほどの違いがあるとは、夕には思えないのだけれど。
遠慮がちに傘に入った菊野は、どこかそわそわしていて、ちょっとおかしくなった。
ゆっくり歩を進め、ふと、河川敷で止める。
さらさらとした細かい雨が、水に触れる瞬間。水面にさざ波すら立てず、ひっそりと溶けていく。
なんとなく見入ってしまった夕を、菊野の腕がやんわりと促し、高架橋の下に入る。
傘を閉じて、並んで幅の広くはない川をぼんやり眺めた。
ホテルで会う時よりは遠い、拳二つ分ほどの距離。
霧雨が川面に溶けていく様を、夕はただ見ていた。
菊野は、少々驚いていた。明らかに仕事帰りのスーツ姿の夕は、絶対に見ない振りをすると思っていた。
身体を重ねるようになって、もう半年ほどが経つ。その間、彼は一度たりとも菊野個人への興味を見せない。
────すごく楽。でも……。
なんと表現していいのかわからないが、こうも興味なさげにされたことがない菊野には、彼との距離感がいまいち掴めなかった。
複数人の友人たちと関係があるが、彼ら彼女らは総じて菊野の何かしらに惹かれている。容姿とか、財力とか。
でも、夕は違う。なぜ自分だったのかと問えば、こんな付き合いができる人を他に知らない、と返ってくる。
夕は本当にまっさらで、菊野が初めての相手だった。だというのに、一切の執着がない。個人的な興味もない。
たいていの人は、初めての相手を多少なりとも特別視するものだとばかり思っていた菊野には、かなり衝撃だった。
今なお、夕は菊野しか知らない。よそで遊ぶ気はないようで、必要性も感じていないという。
でも、執着しないし興味を持たない。正直、菊野には夕がさっぱりわからない。
ただ、初めての彼に充分な経験をさせられなかった気がして、二度目以降を続けたのは菊野だ。
たぶん今も、菊野の方が続けたがっている。
ホテルでない場所で、肩を並べている。
こんなふうに、夕と過ごす時間があるとは思わなかった。
夕はなんというか、清らかなのにひどく達観していて、掴もうとしてもすり抜けていく人だ。
土曜日の夕は、恥ずかしがったり照れたりはしても、菊野の要求を拒むことはない。
でも、それは菊野を受け入れているのではなく、たとえ痴態を見せて嫌われたとして、痛くも痒くもないからだ。
「……そうか」
夕までは届かないよう、口の中だけで呟く。
掴みたい、とか。
執着されたい、とか。
興味を向けられたい、とか。
黙っていても気詰まりでない空気は、ひどく居心地がいい。
次の言葉をとめどなく探すことも、楽しくもないのに笑うこともしなくていい。
いつも人に囲まれて賑々しく忙しない心が、呼吸を取り戻すような。許されるような。
────好きなのか。俺は、この静かな男が。
彼を失いたくないのは、いつの間にか菊野の方だった。




