三雫目
夕は、いつも通りの平日を消化して、土曜日を迎えた。
さらさらと、細く淡い雨が霧のように降りしきる。人通りの少ない歩道は、普段よりも静けさが目立つようだ。
指定したホテルの前に着くと、時間前だからか人影はない。
あえて割高で奥まった場所を選んだからか、そこまで出入りが目立つ場所でもないため、夕は入口の傍で突っ立っていた。
緊張する。でも、それよりも非現実的な感覚にふわふわしていた。
同性に惹かれる志向だと気づいてから、元々人付き合いのうまくはない夕は、パートナーを得ることはないと思って生きてきた。
正直、誰かと寄り添って生きる自分を想像できない。
仕事をして生活をして、それ以外は特に必要だと思うことはない。好きな本が読めれば充分。
分相応の水準を保ち、日々に満足している。
だから、こんな突拍子もない、貴重な経験ができる機会を得られたのは、本当に奇跡に近い。
今日の一回きりでもいい。知識でしかない体験ができれば、たぶん満足して元の生活に戻る。
知らないことを知るのは、楽しい。無理だろうなと思っていたことなら、なおさらだ。
久しぶりに胸が弾むような、どこか落ち着かないような、そわついた心地だった。
「ごめんね、待たせたかな」
柔らかい声に、ふと思考が途切れる。
霧雨の音さえ遮らないほど、静かで穏やかな声音は、ひどく鼓膜に心地よい。
「いいえ。来ない可能性も考えていましたから。ありがとうございます」
一方的に投げつけた、約束とも言えない提案だ。律儀に足を向けてくれた彼は、やはり優しい人なのだろう。
やんわり微笑んだ大きな手が、自然と促すように夕の背を押す。
「来るよ。ちゃんと了承したでしょう」
慣れた手つきが受付を済ませ、エレベーターに乗って割り当てられた部屋に入る。
もちろんこういうホテルに入った経験もない夕は、興味深く周りを見渡した。
「そうだった。俺は、菊野 麗音です。麗しい音で、れいん。笑わないでね」
「…………お似合いです。俺は、長谷川 夕です」
まさか、フルネームを名乗られるとは思わなかった。いや、なんとなくだが。
初対面ではなく、住居を知っている仲だからだろうか。
「夕くん。よろしくね」
「はい、菊野さん。よろしくお願いします」
「……苗字で呼ばれるのは新鮮だな」
なんだこれ。滑稽すぎるやり取りだと思う。
ただ、なぜか気まずいとは思わなかった。
「最初に確認したいんだけど、NGなことはある?」
「粘膜接触の際は、感染症対策をしてほしいです」
「ふはっ」
思わずといったふうに、菊野が笑う。
穏やかな大人という印象の人だが、笑顔は無邪気で、少年らしい快活な感じがする。
「ゴムは当然として……口のキスはやめておこうか。あはは、きみ面白いね」
「そうでしょうか」
「うん。夕くんみたいにちゃんとしてる子、すごくいいと思う」
安心するとでも言いたげに、透明の水色が細められた。
たくさんの人と触れ合うというのは、危険が多いことだと夕は考える。なので、身の安全だけはと思っているだけだが。
並んでベッドに座る。体温を感じるほど近い。
性急に事だけを進めるものとばかり思っていたが、菊野はのんびりと言葉を続ける。
「俺はね、今は身軽さが大事でね。いい歳してと思うこともあるけど、身を固めることに魅力も感じないものだから」
「そうですか」
「夕くん、恋愛はいらないって言っていたけど、嫌な経験とかあるの? 行為に怖さがある?」
「ありません。そういう行為は、したことがないので。興味はありますけど」
「なるほど。過去のあれこれが怖くて、ってわけじゃないんだね。教えてくれてありがとう。安心したよ」
ああ、と夕は思う。トラウマ持ちなら気を遣ってあげよう、とでも思っていたのか。本当に優しいな。
いくら身体だけと言えど、こんなに優しく接してくれるのならば、そりゃ本気になる人もいるだろう。割とたくさん。
意外と不器用というか、割とクズというか、不思議な人だ。
明かりはつけたまま、ふと、角張った長い指が夕の手に絡んだ。
そちらに視線を向けると、いわゆる恋人つなぎをした夕の手の甲に、そっと薄い唇が触れた。
ただ軽く触れ、長いまつ毛が上がり透明の水色が夕を見て微笑む。
「俺からのきみへのNGは、一つだけ」
ひそやかな、囁く声。知らず、夕は息を呑んだ。
「嫌だなと思ったら、必ず言うこと。約束して?」
「……はい」
こんなにも綺麗な目をした男が、誰のものにもならないとしたら、焦れて頬を叩く人はこの先も絶えないだろう。
初めての夜に沈みながら、ただ漠然とそう思った。




