表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【BL】春時雨  作者: 雨傘 はる
本編
3/9

三雫目


夕は、いつも通りの平日を消化して、土曜日を迎えた。

さらさらと、細く淡い雨が霧のように降りしきる。人通りの少ない歩道は、普段よりも静けさが目立つようだ。


指定したホテルの前に着くと、時間前だからか人影はない。

あえて割高で奥まった場所を選んだからか、そこまで出入りが目立つ場所でもないため、夕は入口の傍で突っ立っていた。


緊張する。でも、それよりも非現実的な感覚にふわふわしていた。


同性に惹かれる志向だと気づいてから、元々人付き合いのうまくはない夕は、パートナーを得ることはないと思って生きてきた。

正直、誰かと寄り添って生きる自分を想像できない。


仕事をして生活をして、それ以外は特に必要だと思うことはない。好きな本が読めれば充分。

分相応の水準を保ち、日々に満足している。


だから、こんな突拍子もない、貴重な経験ができる機会を得られたのは、本当に奇跡に近い。

今日の一回きりでもいい。知識でしかない体験ができれば、たぶん満足して元の生活に戻る。


知らないことを知るのは、楽しい。無理だろうなと思っていたことなら、なおさらだ。

久しぶりに胸が弾むような、どこか落ち着かないような、そわついた心地だった。


「ごめんね、待たせたかな」


柔らかい声に、ふと思考が途切れる。

霧雨の音さえ遮らないほど、静かで穏やかな声音は、ひどく鼓膜に心地よい。


「いいえ。来ない可能性も考えていましたから。ありがとうございます」


一方的に投げつけた、約束とも言えない提案だ。律儀に足を向けてくれた彼は、やはり優しい人なのだろう。

やんわり微笑んだ大きな手が、自然と促すように夕の背を押す。


「来るよ。ちゃんと了承したでしょう」


慣れた手つきが受付を済ませ、エレベーターに乗って割り当てられた部屋に入る。

もちろんこういうホテルに入った経験もない夕は、興味深く周りを見渡した。


「そうだった。俺は、菊野(きくの) 麗音(れいん)です。麗しい音で、れいん。笑わないでね」


「…………お似合いです。俺は、長谷川 夕です」


まさか、フルネームを名乗られるとは思わなかった。いや、なんとなくだが。

初対面ではなく、住居を知っている仲だからだろうか。


「夕くん。よろしくね」


「はい、菊野さん。よろしくお願いします」


「……苗字で呼ばれるのは新鮮だな」


なんだこれ。滑稽すぎるやり取りだと思う。

ただ、なぜか気まずいとは思わなかった。


「最初に確認したいんだけど、NGなことはある?」


「粘膜接触の際は、感染症対策をしてほしいです」


「ふはっ」


思わずといったふうに、菊野が笑う。

穏やかな大人という印象の人だが、笑顔は無邪気で、少年らしい快活な感じがする。


「ゴムは当然として……口のキスはやめておこうか。あはは、きみ面白いね」


「そうでしょうか」


「うん。夕くんみたいにちゃんとしてる子、すごくいいと思う」


安心するとでも言いたげに、透明の水色が細められた。

たくさんの人と触れ合うというのは、危険が多いことだと夕は考える。なので、身の安全だけはと思っているだけだが。


並んでベッドに座る。体温を感じるほど近い。

性急に事だけを進めるものとばかり思っていたが、菊野はのんびりと言葉を続ける。


「俺はね、今は身軽さが大事でね。いい歳してと思うこともあるけど、身を固めることに魅力も感じないものだから」


「そうですか」


「夕くん、恋愛はいらないって言っていたけど、嫌な経験とかあるの? 行為に怖さがある?」


「ありません。そういう行為は、したことがないので。興味はありますけど」


「なるほど。過去のあれこれが怖くて、ってわけじゃないんだね。教えてくれてありがとう。安心したよ」


ああ、と夕は思う。トラウマ持ちなら気を遣ってあげよう、とでも思っていたのか。本当に優しいな。

いくら身体だけと言えど、こんなに優しく接してくれるのならば、そりゃ本気になる人もいるだろう。割とたくさん。


意外と不器用というか、割とクズというか、不思議な人だ。


明かりはつけたまま、ふと、角張った長い指が夕の手に絡んだ。

そちらに視線を向けると、いわゆる恋人つなぎをした夕の手の甲に、そっと薄い唇が触れた。

ただ軽く触れ、長いまつ毛が上がり透明の水色が夕を見て微笑む。


「俺からのきみへのNGは、一つだけ」


ひそやかな、囁く声。知らず、夕は息を呑んだ。


「嫌だなと思ったら、必ず言うこと。約束して?」


「……はい」


こんなにも綺麗な目をした男が、誰のものにもならないとしたら、焦れて頬を叩く人はこの先も絶えないだろう。


初めての夜に沈みながら、ただ漠然とそう思った。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ