二雫目
コンビニからの帰り道、それは突然来た。
向かいのデザイナーズマンションのエントランス前に差し掛かったところで、バチン! と強く弾いた音がして、目を向ける。
思わず見てしまった先は、まさに修羅場だった。
「ほんと最っ低! 呪われろ!」
手を振り抜いた女性が、威勢よく吐き捨てた。
向かい側には、例の優男。困ったように、叩かれた頬を押さえるでもなく、笑っている。
ばっちり目が合ってしまった夕は慌てて視線を逸らすも、女性が泣きながら走り去ったことで、なんとなく足を踏み出すタイミングを逃してしまう。
「あー……向かいの子だよね? ごめんね、変なとこ見せて」
苦笑混じりの言葉に、夕は視線を戻して首を横に振る。
ほんの数歩の距離で見た優男は、びっくりするほど透き通った水色の瞳をしていた。
顔立ちもはっきりしていて、おそらく外国の血を引いているのだろう。
「本気の子とは付き合えないから……告白されてそう言ったら、怒られちゃって。最初にも言ったんだけどね」
なるほど、セフレの一人だったのか。妙に納得する。
「ほんとごめんね」
「身体のみならいいってことですか」
これはチャンスでは、と思うより先に、夕は口を開いていた。
きょとりと瞬く水色の目をまっすぐ見ながら、一歩距離を詰める。
「本気じゃなくて、身体だけの付き合いなら、性別問わずOKですか」
「え? まあ、そうだね」
「他にもたくさん付き合ってる人いますよね」
「いるね。たくさんってほどじゃないけど」
少しずつ距離を詰める夕に、少し戸惑いつつも優男は律儀に返事をしてくれる。
夕は、勢いそのままに、最後の一歩を縮めた。手を伸ばせば、身体に触れる距離。
やっぱり彼は背が高くて、夕より頭一つほど目線が上。
優しげな表情と、柔らかい物腰。モテる要素満載だ。
「なら、俺でもいいですか」
透明な水色が、まん丸くなる。綺麗だな、と素直に思った。
「俺、恋愛はいらないです」
「えーと……身体だけ、ってこと?」
「はい。経験してみたいんです」
「…………いい、けど」
「なら、土曜の20時、××ホテルの前で。来れる時でいいんで」
「え? あ、うん」
「じゃあ、失礼します」
きっちり頭を下げてから、夕は踵を返して早足で自分のマンションに逃げ込んだ。
部屋に辿り着いて玄関に入り、鍵をかけてから、深呼吸をする。
冷静な振りをしていたが、心臓がバックンバックン跳ねていた。勢いだったが、緊張はしていたのだ。
でも、頷いてくれた。ひどく突拍子のない提案だっただろうに、嫌な顔一つしなかった。
きっと、とても優しい人なのだろうなと思う。どこか張り詰めた夕の勇気を、読み取ってくれた気がする。
汗ばんだシャツを着替え、なんとなくベランダに出づらい気分だったが、意識しすぎてもよくないと思い直す。
あちらだって、セフレが一人入れ替わっただけだ。大仰に反応されても困るかもしれない。
煙草を掴んでベランダの定位置に立つと、いつもの外階段に彼がいた。さすがに表情までは見えない。
火をつけて、一息。
珍しく一人で立っている彼は、傷心でもあるのかもしれない。経験のない夕には、よくわからないけれど。
ひらひら、と、その手が振られた。
ほんのわずかに躊躇って、夕も、一度だけ小さく返した。




