一雫目
────ああ。また彼か。
長谷川 夕は、短くなった煙草を灰皿に押しつけながら、心の中で呟いた。
細い歩道を挟んだ向かい側、デザイナーズマンションの外階段。
ちょうど夕の部屋のベランダから見える位置で、いちゃつく男が二人。
栗色の長身の方は、おそらく住人。いつも連れている相手は違うが、夕が一服するタイミングにそこにいることが多い。
なぜわざわざ外階段でいちゃつくのか。なぜわざわざ相手連れなのか。やたらと目を引く優男だ。
うっすら顔が見える距離で、親しそうな恋人(仮)の様子を見かけるのが、夕の日課になりつつあった。
相手が男の時もあれば、女の時もある。
いずれにせよ、栗色の色男はにこやかで、相手もとても楽しそうで、二人の距離は近い。
位置的に毎度目は合うが、どちらもなんとなく会釈をして視線を外すような、奇妙なつながりがある。
名前も、住んでいる部屋の番号も知らない。隣人と呼ぶには遠いが、見ず知らずと言い切るのは違和感があるような。
年の頃は、おそらくいくつか上。柔らかそうなウェーブがかった栗色の髪と、長身くらいしかわからない。
モテそうな見目の通り、とっかえひっかえ相手を連れるくらい色んな人と付き合っているのだろう。
夕は同性が恋愛対象だ。それと同時に、恋愛というものにあまり憧れが持てない。
だが、純粋に性的な興味がある。愛だの恋だのはいらないから、都合よく興味だけを満たしてくれる相手がいないものか。
「……いたな」
仲睦まじい恋人(仮)に背を向けつつ、独り言ちる。
タイミングが合ったら、声でもかけてみようか。でも、どうやって? なんと言えばいい?
恋愛というものをしたことがない夕には、うまい言葉が浮かばない。
そうそう都合のいい状況も来ないだろうなと、夕はすぐに思考を放り投げた。
梅雨でもないのに、最近は特に雨が多い。
窓を叩くかすかな音を邪魔しないよう、夕はテレビを消した。
ふと一人の空間に静けさが落ち、ぱつ、ぱつ、という雨音だけが響く。
夕は、雨を好んでいる。
空から与えられるささやかな雫が、乾いてかさついた心に触れて沁みる心地がして、ひどく落ち着く。
洗ったばかりのシーツを敷いたベッドに座り、窓枠に肘をつく。
窓の額縁の中で、大粒の雨が降っている。硝子を伝う大小の玉を眺めて、暗くて見えない雲の色を想像した。
人付き合いが苦手、恋愛に憧れがない。
これだけの単語をチョイスすると、なんだか悲しいことを連想させるのだが、そんなことはないと夕は思っている。
幼い頃に両親を亡くしたが、引き取ってくれる祖父母がいた。愛情深く育てられた自負もある。
少ないながら友人もいたし、地元に帰れば声をかけてくる者もいる。
卒業後に就職した今の会社は、はっきりと物を言う夕を面白がる同僚たちのお陰で、仕事に邁進することもできている。
それに、純粋に仕事は楽しい。やりがいがあり、いい仲間がいる。
何より、夕は一人という空間を好んでいる。
ただ、そう。見送ることには、少々疲れてしまっただけで。
一人で、雨音を聞いて。
今夜はたぶん、夢を見なくて済む。




