第6話 川中島の霧に消えた現代
「……マジかよ」
灯明の淡い光が揺れる部屋に、ひとり佇む。
障子を少し開けた窓辺に立ち、外の景色を眺めながら、ぽつりと独り言が漏れた。
今、俺は半日前に訪れたばかりの長野県上田市にある生島足島神社に、再び足を踏み入れていた。
しかも、ただの参拝客としてではない。
賓客として迎えられ、境内に建つ神主の家の奥座敷を、今夜の宿として借りることになったのだ。
なぜ、一般人である俺が、これほどの厚遇を受けているのか。
その答えは明白だ。
俺こそ、あの戦国時代に甲斐と信濃の二国を支配した英雄『武田信玄』なのだから。
「戦国時代にタイムスリップとか、マジかよ……。」
まず結論を言おう。
俺は正気だ。決して気が触れたわけではない。
川中島の古戦場跡で出会った、あの俺と瓜二つの男。実は、彼こそ『武田信玄』だった。
より正確に言えば、仏門に入る前、名前を『武田信玄』に改める前の『武田晴信』である。
「でも……。そう認めるしかないんだよなぁ~~……。」
俺が想像していた華々しさなど欠片もない、戦場という名の地獄で嘔吐に苦しんでいたそのとき。
二枚目の男『武田信繁』に頬を張られ、俺は無理やり正気を取り戻させられた。
さらに、眼帯の男『山本勘助』に、有無を言わさず服を脱がされ、武田晴信が身に付けていた着物や鎧を着せられた。
そのまま全力疾走する馬の背に小一時間ほど揺られ続けた末、ついにこの部屋に閉じ込められてしまったのだ。
武田信繁と言えば、武田信玄の実弟。
山本勘助と言えば、武田信玄の軍師。
両者とも武田家を代表する武将で、武田信玄に詳しい者なら誰もが知る有名な人物である。
もう一度言おう。
俺は正気だ。決して気が触れたわけではない。
その証拠は、障子戸の隙間から見える外の景色にあった。
「電柱と電線がないってだけで、違和感がすげぇ……。」
溢れる自然だけが、そこにあった。
電気の明かりは存在せず、晴れ渡った夜空を見上げれば、無数の星が輝いている。
馬から落ちないように必死にしがみついていた道中も、状況は同じだった。
長年の往来で造られた道は土が剥き出しで、道幅もまちまち。
雨上がりの直後で、あちこちに水たまりやぬかるみができ、コンクリートやアスファルトで舗装された場所など、一切存在しなかった。
背の高い建物は、どこにも見当たらなかった。
道中、いくつかの集落を通り過ぎたが、そこに建つ家々は小さく、屋根はカヤ葺きばかり。二階建てと呼べる家は、一軒もなかった。
集落の外にある人工物は、田畑だけ。
しかし、現代日本の国道沿いで見る広大な田畑と比べれば、圧倒的に狭い範囲に限られていた。
それ以外は雑草が生い茂る原っぱ、森、川と、圧倒的な大自然が広がっていた。
「そういえば、神池にアヒルがいたな……。どうして、神社にアヒルがいたんだ?」
今、滞在している生島足島神社は、半日前に訪れた同じ神社と似て非なるものだった。
ここには二つの大きな特徴がある。
ひとつは、境内が『神池』と呼ばれる池に囲まれていることで、まるで水堀に守られた平城のような景観を呈している点。
もうひとつは、鳥居や本殿の柱などが稲荷神社のように朱色で染められていることだ。
前者の景観については半日前と同じだが、後者は決定的に異なっていた。
半日前に訪れた生島足島神社の朱色は、実に色鮮やかだった。
だが、ここにある生島足島神社の朱色は経年劣化が著しく、木肌が露出している箇所が至るところに見られる。
「戦国時代にタイムスリップかー……。
うん、好きだよ。その手の漫画や小説は幾つも読んだし……。
俺ならこうするって感じで、憧れたことは何度もあったけどさー……。」
ところが、四方を取り囲む山々の姿は、半日前の記憶のままだった。
つまり、人間が作り出した景色だけが古びており、大自然は何ひとつ変わっていない。
これはもう、過去に来てしまったとしか考えられない。
もしこれが、俺一人を驚かせるためのドッキリだとしたら、手が込みすぎている。
最初は夢かと思ったが、夢にしては長すぎる。
この部屋で数時間も暇を持て余し、ただただボーッとしているだけの夢なんて、あり得ない。
もっとも、それが冷静に考える時間にはなったのだが、今はその暇さえ辛い。
格好の暇つぶしになるスマートフォンは懐にあるが、今はそれを使うこともできない。
この後、スマートフォンは重要な役割を担うことになる。
バッテリーの充電ケーブルどころか、コンセントそのものが存在しない今、バッテリーを無駄遣いするわけにはいかなかった。
「でも、それは妄想だからいいんだよ。
妄想だからこそ、楽しいんだよ」
神池の向こう側には、弛みなく張られた白地に黒い武田菱が描かれた陣幕があった。
その向こうには、幾つもの篝火に照らされ、槍を手にした兵士たちの影が等間隔に並んでいる。
それを見るたびに現実感を突き付けられ、思わず乾いた笑みが零れてしまう。
「あはははは……。いざ、そうなってみるとかなりきついな……。」
恐らくと言うか、明らかにタイムスリップした原因は、あの川中島古戦場跡の濃霧だ。
どういう原理かは分からないが、鳥居をくぐるまでは現代だった。
足元が舗装されていない剥き出しの地面に変わったのは鳥居をくぐった後であり、鳥居こそが現代と戦国時代の境目だったに違いない。
そして場所は川中島。武田信繁と山本勘助の二人が存命だ。
この条件から、タイムスリップしたタイミングは第四次川中島の戦い以前であると確定できる。
「第三次川中島の戦いは、1557年……。
織田信長はまだ台頭していない。……チャンス、あるよな?」
これは、先ほど貴重なバッテリーを使ってスマートフォンで調べた結果だ。
昨夜、川中島古戦場跡を訪れるにあたり、川中島の戦いについてネットで調べたウェブのキャッシュが、まだスマホに残っていたのだ。
第一次の戦いは川中島よりさらに西で行われ、第二次は場所的には最も近かったものの、この時の戦いは犀川を挟んだ対陣だけで終わっている。
俺が目の当たりにしたような地獄絵図を作る激戦は、行われていない。
ネットの解説によれば、第三次川中島の戦いは善光寺北の上野原で行われたが、武田晴信は決戦を避けて決着を付けなかったとされる。
だが、これは現代に伝わる文献をもとにした研究結果に過ぎない。
真実は違っていた可能性もある。
もしそうだとするなら、武田晴信が退却したまでは正しいとして、それを上杉謙信と名乗る前の『長尾景虎』は逆に決着を着けようと追撃したのではないか。
あの川中島の濃霧の中で、遂に武田晴信の打倒に成功した。そう考える方が、現場で見た光景と合致する。
「はぁぁ~~~……。」
大地に零れ落ちる水音が止まり、窓の外に差し出していた花瓶をそっと戻す。
人間、数時間も経てば用を足したくなるのは自然の摂理。
今、花瓶の中身を語るまでもないだろう。
無論、最初は激しく悩んだ。
床の間に桔梗が挿してあった花瓶は、素人目にも価値が高そうな品だったからだ。
しかし、この部屋からの外出は許されていない。
まさか、部屋の隅に用を足すこともできない。使えるのは、この花瓶だけだった。
「どっこいしょっと……。」
実を言うと、もう三度目。慣れたものだ。
障子戸を閉め、床の間に置かれた桔梗を再び花瓶に挿してから、床の間の柱に背をもたれ、用を足す前と同じように胡座をかいた。




