第55話 猿回し
「や、やっぱり……。お、おらは殺されるんですか?」
控えの間へ続く襖に、右手を伸ばしかけていた藤吉郎殿の動きが、ピタリと止まった。
「お前、あの信長が気に入るだけあって、本当に敏いな」
「ううっ……。お許しを、お許しを……。」
一呼吸置き、藤吉郎殿は眉を『ハ』の字にして、半泣きの情けない表情でこちらを振り向く。
そのまま力なく崩れ落ち、蹲った姿勢のまま嗚咽を漏らし始めた。
「農民の生まれだというのが、にわかには信じられん」
そう、藤吉郎殿の様子がおかしかった理由は、本人が今言った通りである。
勝頼が出陣式で言っていたように、奇襲とは敵に接近する際、いかに気づかれずに動くかが最大のポイントである。
藤吉郎殿はタイミングが悪かった。
もし、俺の元へ訪れるのが昨日か、明日であれば問題はなかった。
だが、今日は駄目だ。
襖や障子戸を閉めていても、士気の高まりは耳に届く。
探るまでもなく、武田家の狙いが三河ではなく、美濃にあることは明白だった。
今、今川家と武田家の連合軍が三河へ攻め入るという噂が流れ、信長が全警戒心を三河に向けている状況だ。
その注意が美濃へ少しでも向いたら、勘の良い美濃の誰かが武田家の奇襲に気づく可能性がある。
「うっ、ううっ……。尾張国愛知郡中村郷、中々村、弥右衛門の子です。
姓は持っていません。木下の姓は、頭陀寺城主の松下様から頂きました。ううっ……。」
特に美濃には、戦国時代屈指の軍師として名高い『竹中半兵衛』がいる。
俺が知る歴史において、後に『豊臣秀吉』と名を改める藤吉郎殿の前半生を支え、彼がいなければ藤吉郎殿の飛躍もなかったと言われる人物だ。
今はまだ元服したばかりの年齢だった記憶もあるが、それも定かではない。
その存在を考えれば、いくら警戒を重ねても足りない。
勝頼が奇襲ルートの踏破目標に設定した日数は五日。
ここから昼夜を問わず全力で走れば、藤吉郎殿の帰りを今か今かと待つ信長のいる清州城まで、三日もかからない。
たった一日、二日と侮ってはいけない。
今回の美濃攻めは、絶対に成功させなければならないのだから。
「正真正銘、農民の子です。
だから、どうかお許しください……。
うううっ……。おら、まだ死にたくはありません」
だったら、どうするべきか。
藤吉郎殿を口封じに殺してしまう。それが、最も手っ取り早い。
藤吉郎殿は、信長の正式な外交使者ではない。
正式な使者は、いずれ改めて送られてくるだろう。
今の藤吉郎殿の身分であれば、その命を奪ったとしても大きな問題にはならない。
信長は、藤吉郎殿の才と死を惜しみ、私的には不満を述べるだろう。
だが、公の場で責任を追及してくることはないはずだ。
俺が非を認め、謝罪すれば、それで済む話である。
「くっくっ……。安心しろ。
その大した役者ぶりに免じて、殺しはせんよ」
しかし、俺が知る歴史において、藤吉郎殿は農民から関白にまで成り上がった人物だ。
永い永い日本史を見渡しても、ここまで人臣の極みに至った者は他にいない。
立身出世の代名詞とも言える人物を、こんな場所で、こんな理由で、簡単に殺してしまってよいのか。
そんな葛藤が、確かにあった。
「本当ですかっ!」
そして、この調子の良さ。
命の保証を聞いた途端、蹲っていた藤吉郎殿は頭を勢いよく跳ね上げ、満面の笑みを浮かべた。
涙の跡すらなく、ついさっきまでの泣きがすべて嘘だったことを、如実に示していた。
「ただし、儂と一週間ほど行動を共にしてもらうがな」
「お安い御用です! 信長様に叱られそうですが、それくらいなら何でもございません!」
どこからが演技だったのかは、分からない。
だが、戦国一と称された『人たらし』の評は、伊達ではない。
ここで藤吉郎殿を殺さないのは、戦国時代を生きる上では甘い判断に違いない。
しかし、上洛の旅の道中で出会い、俺たちは友誼を深めた。
その結果、俺は木下藤吉郎という男に、自然と好感を抱いてしまっていた。
「ほう? それなら、頼み事をもう一つだけ聞いてもらえるか?」
「何なりと! この木下藤吉郎にお任せを!」
勝頼とお市の方の婚姻に伴う同盟を受け入れたのも、同じ理由だ。
つまり、俺個人が信長に好感を抱いているからである。
それが後に名を『徳川家康』と改め、戦国時代に終止符を打つことになる松平元康との扱いに、明暗を分けさせた。
今の俺にとって、松平元康は歴史上の人物に過ぎない。
赤の他人と友人、どちらを優先するかなど、言うまでもない。
「では、藤吉郎殿は尾張国海東郡に根を下ろしつつ、美濃に肩入れする蜂須賀衆の当主、『蜂須賀正勝』と懇意の仲だと聞く」
だが、個人的な友誼だけで藤吉郎殿に調子に乗られても困る。
ここは、武田家の元当主としての威厳を示す必要がある。
豊臣秀吉の逸話に詳しいなら、知っていて当然の情報を藤吉郎殿に明かし、圧をかけた。
「な、なぜ、それを……。し、知っておられるのですか?」
たちまち藤吉郎殿は顔を青ざめ、俺がこの奥座敷を訪れたときのように、慌てて平伏した。
「んっ!? 今、それが重要か? わざわざお主に話すことか?」
俺は薄笑いを浮かべ、さらに圧を強めるように視線を注ぐ。
すると、藤吉郎殿は体をブルブルと震わせた。
「か、畏まりました!
こ、この木下藤吉郎、蜂須賀正勝を必ず信玄様のお味方に説き伏せてみせます!」
それもまた、演技なのかもしれない。
しかし、本来なら現時点で自分しか知り得ないはずの情報。
それを俺が知っているという事実に、藤吉郎殿は戸惑い、伏せた顔の下で驚異と脅威の両方を抱えているに違いない。
「うんうん……。一を聞いて、十を知る。実に頼もしいやつだ」
久々に未来の知識を用いた完全勝利の高揚感に、肩を震わせながら自然と笑みがこぼれた。
――第一部、完。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。




