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再就職は武田信玄! ~ 御旗楯無も御笑覧あれ ~  作者: 浦賀やまみち
火の章

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第40話 畳の上の涙




「先ほどのお誘いですが……。私はここに残らせて頂きます」



 人騒がせな騒動もようやく落ち着き、部屋には再び静けさが戻った。


 諏訪へ同行するか否か。

 その話題が切り出されたのは、中断していた夕餉を共に済ませ、食後の茶を口にしている最中だった。



「それに、今更でしょう?

 私が諏訪へ行き、正妻を名乗り出れば、由布さんがお困りになる」



 俺は心の中で『やっぱりな……。』と呟く。

 その答えは、最初から予想していた通りのものだった。



「それから……。桃さん、でしたか。

 都での一件は、私の耳にも届いております。私が居ては、お邪魔でしょう?」



 周囲は、晴信と三条の方の仲を、冷え切った疎遠な関係だと見ている。


 だが、それは違う。

 冷え切っているどころではない。二人の心は、すでに完全に離れ切っていた。


 だからこそ、たとえ義理であっても、三条の方は諏訪への移住に誘われるとは思っていなかったに違いない。



「そうか……分かった。

 だが、ここは信繁の城になる。お前と松が居ては、本当の意味で主にはなれん」


「だから、北の積翠寺あたりに屋敷を作ってやる。そこへ移り住め。

 あそこなら温泉もあるし、生活に困らない程度の化粧料は、信繁には出せと言っておく」



 だが、それで本当に良いのだろうか、と悩んでしまう。


 都から嫁いで二十余年。

 晴信の事実上の正妻でありながら、未練を微塵も感じさせない、淡々と乾いた言葉に、かえって悲しさが胸を締め付ける。



「お心遣い、ありがとうございます」



 今となっては、亡き晴信の真意を知る術はない。


 しかし、影武者を演じる身として、信繁さんから聞いた晴信の心情の情報は数多く、推し測れる範囲はあった。



「今更になるが……。この際だから、言っておく」

「はい、何でしょう?」



 迷いは一瞬だった。

 畳へ落ちかけた視線を、再び三条の方へ戻す。


 義信の葬儀もすでに済み、本拠地移転に関する諸々の采配は信繁さんが執っている。

 俺と勝頼は、当面の仮本拠地となる上原城へ、明後日には発つ予定だ。


 今後、余程のことがない限り、甲斐を訪れる機会はなくなるだろう。


 こうして三条の方と顔を合わせることも、次第に減っていく。

 あるいは、先ほど名に挙がった隠居地へ籠もり、この別れが明後日限りになる可能性も否定できなかった。


 今、この時を逃せば、もう二度と機会は巡ってこない。

 その思いが、俺を決断へと突き動かした。


 人生をすでに諦め切ってしまったかのような眼差しを向ける、この目の前の女性に、その半生が、決して無駄ではなかったのだと。


 それだけは、どうしても伝えたかった。



「菊乃……。」

「えっ!? あっ!? ……は、はい」



 俺が名前で呼ぶと、三条の方は過剰なほど肩をビクッと震わせた。

 その反応を見て、勝手な想像に過ぎないが、晴信は三条の方を名前で呼ぶことは滅多になかったのだろう。



「儂はお前を嫌ったことは、一度もない」

「えっ……!?」

「むしろ、逆だ。儂はお前を好いていた」

「えっ!? えっ!? えっ!? ……な、何の冗談ですか?」



 ただ、他人事とはいえ、面と向かっての愛の告白にはさすがに照れてしまう。


 しかも、ど真ん中の直球勝負だ。

 心が完全に離れてしまった相手に、変化球などの小細工は通じない。



「冗談などではない。本当のことだ……。

 そうでなければ、義信以外に子を作るものか。

 儂は、嫌っている女を抱けるほど器用な男ではない」

「で、でしたら……。な、なぜです?」



 当然、三条の方は驚いた。

 腰を浮かせかけた膝立ちの体勢のまま固まり、顔は瞬く間に紅く染まる。


 それに釣られて、こちらの頬も熱を帯びるが、なんとか耐える。

 今すぐ頭を抱えて大声をあげ、畳の上をゴロゴロ転がりたい衝動を、必死に抑えた。



「初めて会った時のことを、覚えているか?」

「は、はいっ! も、もちろんです!」



 俺は上擦りそうになる舌を潤そうと、お茶を一口飲む。

 喉が盛大にゴクリと音を立て、その拍子に、三条の方は未だ膝立ちのままビクッと震え、裏返った声を返してきた。


 これが、いわゆる『ギャップ萌え』というやつだろうか。


 三条の方は晴信とは同い年だが、俺とは十歳の年齢差がある。

 今までおっかなびっくりで接していた知的な年上美人が、俺以上に焦って照れる様子に、思わず可愛らしさを感じてしまう。


 その感覚が、結果として俺の心にわずかな余裕をもたらした。



「藤色の着物に藍色の帯。

 どちらも柄のない無地だったが、お前という素材を上品に引き立てていた」


「一目見て、儂は目を奪われたよ……。

 今でも親父のことは憎いが、あの時だけは感謝した。

 よくぞ、これほどの京美人を儂の嫁に用意してくれて、とな」


「それに比べて、儂ときたら……。

 金糸で描かれた愛染明王を背に背負った羽織に、左右に銀糸で描かれた相打つ龍虎の袴」


「ふっ……。滑稽だったな。

 都の女に負けるものかと気合を入れたのが丸見えで、山出しの田舎者そのものだ」


「お前と祝言の席に並んだ時、それに気付いてからは、恥ずかしくて、恥ずかしくて堪らず、辛くて、辛くて仕方がなかった」



 これは信繁さんが晴信から聞いた実話だ。


 実の兄弟だからこそ、本音を語れたのは理解できる。

 だが、三条の方に全てを語れなくても、その一端でも語っていたなら、今のように心が完全に離れた夫婦関係にはなっていなかったに違いない。


 義信の例も合わせて考えると、それが晴信という男の性質だったのだろう。


 まさに『武士は食わねど高楊枝』だ。

 基本的に意固地であり、自分が悪いと感じても、謝り方を知らず、格好をつけたがる。



「それ以来だ……。

 何をやっても、お前に田舎者と馬鹿にされているような気がしてな。劣等感を抱くようになったのは……」



 そして、これに関しては、あくまで俺の推測に過ぎない。


 だが、恐らく間違ってはいないだろう。

 晴信から夫婦間の悩みを唯一打ち明けられた信繁さんも、断言はしていないものの、言葉を濁しながらもそれに近い推測を持っていた。



「わ、私は……。そ、そのような……。」



 それを告げた途端、とうとう三条の方は堪えきれなくなった。

 腰を落とし、両手を畳に突きながら項垂れ、肩の震えは次第に大きくなっていく。



「ああ、分かっているとも……。

 若い頃、お前は儂を田舎者とよく罵っていたが……

 それは、そう言わせてしまった儂の態度が悪かったからだ」


「それに、お前は面と向かって罵っても、陰口は決して叩かなかった。

 むしろ逆に、京から連れてきた侍女たちが甲斐を田舎だと陰口を叩くたびに、きちんと嗜めていたとも聞いている」


「二年前、上洛して、京の女たちをこの目で見て初めて知った。

 お前は、嫁いだ当初から都の風習を捨て、甲斐に馴染もうと……。儂に合わせようと努力してくれていたのだと」



 その弱々しい姿を、つい抱きしめたくなるが、それはやり過ぎだ。

 この懺悔は、あくまで俺自身を納得させるための偽善行為であり、晴信が残した負の遺産の尻拭いに過ぎない。


 私情を込めてはならない。

 俺は胡座から正座に座り直し、両手を畳に突いて、頭を深々と下げた。



「だから、菊乃……。お前は何も悪くない。

 悪いのは、全て儂だ。今まで、済まなかった」



 三条の方の頬からポタポタと涙が零れ、畳を濡らしていった。


 この後、俺は大失敗をやらかしてしまう。

 晴信と三条の方の夫婦仲は順調に修復したが、どうやら順調すぎたようだ。


 風呂を済ませ、寝室で一人寝酒を飲んでいると、三条の方が訪れた。



『私にも頂けませんか?』



 俺は、三条の方の四十歳を過ぎても衰えないスタイルと、白い夜着姿にどぎまぎしていた。



『ふぅ……。少し酔ってしまいました』



 酒に少し酔い、色っぽく火照った白い肌に、さらにどぎまぎする。



『最後に……。あなたの思い出をください』



 トドメの一撃まで受け、俺はノックダウン。

 決して込めてはならなかった私情を、三条の方に熱く解き放ってしまったのだ。


 その結果、まさかの一発必中。

 いや、正確に言うなら、四度だったが。


 もう二度と会わないはずの最後の別れを交わしたにも関わらず、俺たちはわずか四ヶ月で再会することになる。


 三条の方は松を連れて、新築の本拠地へ引っ越してきた。


 この青天の霹靂に、勝頼が武田家当主に就いて我が世の春を謳歌していた諏訪の方は、愕然とした。

 椿と桃を巻き込んだ嫉妬の嵐が吹き荒れ、大騒動へと発展することになる。



『義信が事あるごとに言っていました。

 父上は隠居して変わられた。母上も意地を張らず、諏訪へ会いに行くべきだと……。あれは本当だったのですね』

『そうか、義信がそんなことを……。』



 しかし、そんな未来が待っているとは、今の俺は知る由もなかった。

 この時の俺は、良いことをしたという達成感に浸り、幸せの中にいた。




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