第38話 その問いは、喉に詰まる
「ふぅ……。さすがに疲れたな」
「……はい」
広々とした座敷に、三条の方と二人きり。
当然だが、躑躅ヶ崎館の奥の主は三条の方だ。
特別な予定がなければ、食事の相手はいつも三条の方になる。
「失礼いたします……。夕膳をお持ちしました」
しかし、晴信との冷え切った夫婦関係が、そうさせているのだろう。
食事中、三条の方は黙々と箸を運ぶだけで、一言も喋らない。
食事前と食後の挨拶、明日の予定など、事務的なやり取りが二言三言交わされる程度。
甲斐を訪れて以来、ずっと居心地の悪い食事ばかりだった。
そのため、本来なら楽しめるはずの食事の前に気分は重く沈んでいたが、今夜の膳が目の前に運ばれてきた瞬間、その気分は一気に吹き飛んだ。
「ほう! 今夜は海魚の塩焼きか!」
今夜のメインディッシュは、なんと鯛の塩焼き。
現代でも鯛は高級魚に数えられるが、安定供給が望めないこの時代では超高級魚。
さらに内陸で海のない甲斐で口にするとなれば、もはや超々高級魚だ。
諏訪に至っては、生の海魚が鮮度の問題で運ばれてこない。
それが目の前にあるのだから、テンションが上がらないはずがない。
「はい、こういうものはしばらく口にできませんから、今夜くらいは……」
そんな俺に、三条の方は目をパチクリと瞬かせると、右拳で口を隠しながら、上品にクスリと笑った。
忙しい現代社会では、『喪に服す』といっても形だけの習慣になっている。
だが、今の時代は違う。
当然の慣習として存在しており、俺も従わざるを得ない。
例えば、死者が極楽へ行くか地獄へ落ちるかを判定が下されるとされる四十九日。
その間、故人が極楽へ行けるようにと願い、親族は少しでも罪を軽くするため、殺生を避け、精進料理だけを口にする。
現代で生まれ育った俺には、これがどうにも辛い。
ただ、鯛は縁起物でもある。
それを三条の方が知らぬはずもなく、その眼差しがわずかに不安に揺れた。
「……お気に召しませんでしたか?」
「いや、そんなことはない!」
俺は箸を手に取り、迷うことなく一口目に鯛を選び、口に放り込むことで、三条の方の不安を払った。
甲斐は山に囲まれ、海を持たない。
海魚を求めるなら商人に仕入れを頼まねばならないが、今の時代には、トラックも冷蔵庫もない。
その運搬は人の手と足に頼るしかなく、鮮度の維持を考えれば、超特急となる。
当然、値は上がる。
商人は利益率の高い高級魚を運ぶ。安魚では割に合わない。
それでいて、どんな魚が水揚げされるかは、漁師の運次第だ。
だから、海魚を求める以上、好みに合わないから要らない、という理屈は通らない。
「……うん、美味い!」
続けざまに二口、三口と食べ、俺好みの塩加減が効いた味をいっそう楽しもうと、ご飯をかきこんだ。
三条の方が、安堵のため息をそっと漏らすのが聞こえた。
「先ほどは、ありがとうございました」
「んっ!?」
しばらくして、三条の方が、食事中にしては珍しく話しかけてきた。
味噌汁を啜りながら視線を向けると、口元に微かな笑みを浮かべ、雰囲気が柔らいでいる。
「松のことです。あの娘、本当に喜んでいました」
「そうか」
松は、甲斐に残ることを選択した。
ただし、俺は義信の菩提を弔うのは許しても、剃髪して尼になることは許さなかった。
日本史でも世界史でも、強大な権力者が亡くなった途端、その正室や外戚が強い権力を握った例は多い。
応仁の乱が、まさにそれだ。
室町幕府八代将軍の正室が無茶を行ったことで応仁の乱は発生し、その上に無茶を重ねた結果、戦国時代の幕が上がった。
そうした教訓があるからだろう。
今の時代、未亡人は夫の身分が高ければ高いほど、一周忌が済んだ後に剃髪して尼になる習慣がある。
「正直に申しますと、旦那様は松を駿河へお帰しになるものとばかり思っておりました」
「その選択肢も、無いわけではなかった。
だが、松自身が嫌だと言うなら、仕方あるまい」
しかし、松はまだ十九歳だ。
現代で言えば、大学一年目の女子大生。
去年までピチピチの女子高生だった娘を寺に閉じ込め、世間から切り離すなど、鬼の所業と言うしかない。
今後は武田家の娘として扱い、好きな男が出来たら、厳正なる審査の結果次第で再婚を許す。そう告げると、松は泣きながら抱きついてきた。
世のお父さんたちが、娘を嫁に行かせたがらない気持ちが、ほんの少しだけ分かった。
ちなみに裏事情を明かすと、松が甲斐に残っても、駿河へ帰っても、どちらを選んでも差し支えはなかった。
例によって、信繁さんと勘助さん、それに俺の三人で相談した結果、どちらにも甲乙つけ難い策が用意されており、最終判断は俺に委ねられていた。
「それに、今後は武田の娘とまで……」
「事実だろう。義信は儂の息子で、その妻が松なのだから」
松が甲斐に残ることとなり、よほど嬉しいのだろう。
今夜の三条の方は、いつになく饒舌だった。
「そうですね……。ふふふっ……。」
てっきり途切れると思っていた会話が続き、その様子を窺えば、さすがは公家出身というべきか、食事の所作が実に上品だ。
戦国時代に放り込まれてから魚を口にする機会は格段に増え、現代に生きていた頃に比べれば、魚の食べ方も随分と上達したつもりでいる。
だが、それでも三条の方には遠く及ばない。
身は一口で食べきれる分だけを静かに剥き、箸を入れても鯛は皿の上からほとんど動かない。
箸先も、口に含む部分だけがわずかに汚れる程度だ。
俺のように大口を開けることもなく、触れるのは先端の、さらに先端だけ。
その洗練された所作につい見惚れていると、はたと気づいた。
今こそが、好機だ。
この流れなら、言い出しにくい話も勢いに紛れて切り出せる。
信繁さんから『三日以内に済ませておけ』と渡されていた宿題を、俺は思い切って口にした。
「それより、お前はどうする?」
「……と、申しますと?」
「今日の葬儀で言っただろう?
今後、武田家は本拠を諏訪へ移すと……。お前も付いてくるか?」
三条の方は、こてりと首を傾げた。
俺がその身の振り方を問うと、目をぱちぱちと瞬かせ、怪訝そうな表情のまま動きを止めた。その次の瞬間。
「ぅんっ!? ……んんんっ!? ん~~~~~っ!?」
「うおっ!? だ、大丈夫か?
み、水だ! だ、誰か水を持ってこい! は、早くしろ!」
右手の箸と左手の飯椀を取り落としたかと思うと、勢いよく蹲り、胸を何度も強く叩き始めた。




