第37話 斜陽の中の決意
「よし……。行くか」
廊下の曲がり角で一旦停止する。
決意を固めるように頷くと、『俺はここに居るぞ』と自己主張するかのように、縁側をドスドスと音を立てて歩いた。
準備の最中は慌ただしかったが、始まってしまえば、あっという間に過ぎ去った。
義信の葬儀はしめやかに滞りなく執り行われ、数多くの弔問客でごった返していた躑躅ヶ崎館も、今は静けさを取り戻している。
居住区は特に静かで、皆が気を使っているのか、人の気配もなく、まるで時が止まったかのようだった。
「……待たせたな」
やがて、目的の部屋へと辿り着く。
茜色に染まる庭をしばし眺め、呼吸を整えてから、障子戸をやや乱暴に開いた。
そこには、喪服に身を包んだ二人の女性が、平伏して俺を待っていた。
背中越しにも伝わってくる深い悲しみに、思わず踵を返したくなる。
それでも、ぐっと堪えた。
ここまで来て逃げることは出来ない。
これから向き合うべきものを、先延ばしにすることも出来ないのだ。
「さて……。今なら瀬名殿もここに居るが、どうする?
もし駿河へ帰るつもりなら、娘は置いてゆけ。
あれは……。武田の姫だ」
だから、ここは一気に攻める。
座布団が用意された上座へ素早く腰を下ろすと、二人が顔を上げるのも待たず、前置きも一切置かず、単刀直入に告げた。
二人の身体が、同時にビクッと震える。
「くぅっ……。」
「なっ!?」
だが、その直後の反応は対照的だった。
義信の正室であった『松』は、顔を上げかけたまま、中途半端な姿勢で固まった。
一方、晴信様の継室『三条の方』は、顔を勢いよく跳ね上げ、刃のように鋭い視線で俺を睨み据えた。
今川義元の娘である松が育った駿河は、応仁の乱以後、混迷を極める京都から逃れてきた公家たちを早くから受け入れてきた地であった。
その結果、京文化は駿河の地で独自に育まれ、豊かに花開いていった。
和歌や香、礼法に至るまで、そうした教養を自然と身につけて育った松は、同じく京の空気を知る三条の方と出会った当初から意気投合したという。
嫁姑というよりも、年の離れた姉妹のような関係。そう評されてもいた。
だからこそ、三条の方が激しい怒りを露わにするのは、至極当然のことだった。
俺が放った、感情を一切削ぎ落とした言葉。
それを、そこに至る経緯や二人の情を含めて、丁寧に言い直すと、次のようになる。
それを、情を含めて丁寧に言い直すと、次のようになる。
『……義信は、志半ばで逝ってしまった。
無念であろう。だが、いつまでも嘆きに沈んでいるわけにはいかない』
『松よ……。
これから先、お前はどうしたい?』
『もし、武田家との縁をここで終わらせ、実家である駿河へ戻りたいと願うなら、儂はそれを止めない。
幸い、今川一族の瀬名殿が弔問に来ておられる。同族と共に帰れるのなら、不安も少ないだろう』
『……ただし。
娘だけは置いていってもらう。
あの子は、義信の血を唯一受け継ぐ武田家の姫だ。
どれほど心苦しかろうと、今川へ渡すことはできない。
それだけは、理解してほしい』
夫の葬儀を終えたばかりの未亡人に向ける言葉としては、あまりにも無慈悲で、情け容赦がなさすぎた。
しかし、誰かが告げねばならず、その役目を担えるのは俺をおいて他にいない。
情を削ぎ落とした言葉を選んだのは、俺自身もまた辛かったからだ。
「……わ、分かりました。
わ、私も武家の女にございます。ら、乱世の習いは……。しょ、承知しております」
「待ちなさい! あなた、先ほどは!」
「い、いいえ……。
義信様のご冥福は、どこに居ようともお祈りできます。
わ、私は駿河へ戻り……。戻り……。ううっ! うっううっ……。」
案の定、松は伏せた顔を上げることもできず、そのまま泣き崩れた。
気丈に振る舞おうと必死に堪えたのだろうが、言葉は途中で途切れ、嗚咽が喉を塞ぐ。
こぼれ落ちる涙を抑えきれず、身を丸めた胸の奥から、押し殺そうとしても抑えきれない嗚咽が漏れ出した。
「くっ……。いくら何でも酷すぎます! せめて、四十九日を待てないのですか!」
泣き崩れる松の背にそっと覆いかぶさりながら、三条の方は烈火のごとく俺に怒声を浴びせた。
切れ長の美しい双眸は怒りに燃え、眉間には深い皺が刻まれている。
「待て、待て! 俺は『出ていけ』などとは、一言も言っておらん」
その迫力に、思わず逃げ出したくなるのを必死で堪える。
俺は右掌を突き出し、感情を抑え込むように息を整えてから、反論の言葉を口にした。
「えっ? で、ですが、旦那様は……。その……。駿河へ戻れと……」
「だから、『どうする?』と尋ねただけだ。『そうしろ』とは命じていない」
「……で、では?」
その途端、三条の方は目をぱちぱちと瞬かせた。
烈火の怒りは影を潜め、呆然とした表情が浮かぶ。
松もまた、嗚咽に震わせていた身体をぴたりと止めていた。
俺も、言葉が足りなかった自覚はある。
だが、それ以上に二人の早合点を招いた原因は、つい先ほど松自身が口にした『乱世の習い』という言葉だった。
「お前たちも耳にしていよう。
義元殿が討ち死にし、今川家は未曾有の混乱に陥っている」
なにしろ、現在の今川家は完全に落ち目だった。
桶狭間の戦いにおいて今川義元が討ち死にすると、のちに『徳川家康』と名を改めることになる松平元康は、誰よりも早く動いた。
今川家への従属を断ち切り、独立を宣言。
先祖伝来の地である西三河を、自らの支配下に収めた。
これを契機として、東三河の諸勢力もまた今川家から次々と離反した。
いまだ本格的な合戦には至っていないものの、三河一帯は松平派と今川派に二分され、いつ火蓋が切られてもおかしくない一触即発の情勢にあるという。
それが、義信の葬儀に弔問として訪れた今川家家臣、瀬名殿からもたらされた最新の報せであった。
「だが、松よ。そんなことは、お前に関係ない」
もし三河で戦の火の手が上がれば、今川家が支配する駿河や遠江にも、その戦火は瞬く間に広がっていくに違いない。
本来であれば、早急な立て直しが求められる局面である。
しかし、桶狭間の戦いで討ち死にしたのは今川義元一人ではない。
今川家を支えてきた重臣たちもまた多くが命を落としていた。
「儂は、お前に行き先を命じるつもりはない。
残るか、戻るか……。選ぶのはお前だ」
「……の、残ってもよろしいのですか?」
今川義元の妹の娘を妻に迎えていた松平元康の離反。
それが氏真を激しい疑心暗鬼へと追い込んでしまったのかもしれない。
一致団結こそが必要な時に、氏真は家臣たちの忠誠を疑い、人質の差し出しを強要したのである。
戦国時代を題材にした現代のシミュレーションゲームで、その能力値の低さから今川氏真を凡愚と認識してはいた。
だが、ここまで愚かだとは思ってもみなかった。
もはや、武田家は今川家との同盟を維持する旨味がない。
今川家の状況がここまで悪いと、この混乱に乗じて攻め込み、今川家の領土を切り取った方がどう考えても賢い。
「よろしいも、よろしくもない。
お前は義信の妻だ……。ならば、お前は儂の娘。武田がお前の家だ」
しかし、その計画を成し遂げるには、松の存在がどうしても障害になる。
そのことは、今川氏真自身も重々承知しているのだろう。
だからこそ氏真は、大切な一族である瀬名殿を、義信の葬儀へと送り込んできたのだ。
「だ、旦那様!」
「お、大殿様!」
そのうえ、離反者討伐のために兵を貸してほしいなどと、厚かましい願いまで口にしてきている。
もはや、救いようがない。政治に疎い俺ですら分かる。
自国の反乱を鎮めるために他国の力を頼った瞬間、対等な関係は二度と戻れない。
当然、松もまた、これらの事情を瀬名殿から聞かされているはずであり、何らかの口添えを頼まれているに違いない。
「他の誰でもない。
松……。お前自身が決めろ」
だが、複雑な事情なんて関係ない。
俺がいま言ったとおり、いちばん大切なものは、松自身の気持ちだった。




