第35話 畳に響く拳
「なんと! 勝頼様を? それは本当ですか!」
「大殿は復帰なさらぬのですか?」
「そうです! 大殿はまだ若い。復帰なさるべきです!」
信繁さんの発言を皮切りに、意見が次々と飛び交う。
やはり多くの者が、俺『武田信玄』の復帰を望んでいる。
「ええ、勝頼様はまだ元服を済ませていません!」
「確かに……。不敬を承知で申し上げますと、勝頼様では不安があります」
だが、当然のことだ。
今、誰かが言った通り、勝頼はまだ元服を済ませていない。
来年、勝頼は一般的な元服の年齢を迎える。
その儀式について由布と相談したのは、つい先日のことだ。まだ準備も整っていない。
「いや、儂は大殿の意見に賛成だ」
「……だな。昼間の騒ぎを見ただろう? 甲斐と信濃が割れかねんぞ」
しかし、これも誰かが言った通りだ。
ここで勝頼が武田の当主にならなければ、信濃の家臣の中から離反者が現れる可能性もある。
これは、晴信が甲斐を豊かにしようと信濃に負担をかけ続けた政策を、義信が改め、甲斐と信濃の関係を徐々に五分五分に変えてきたためでもある。
「今の混乱を収められるのは、大殿だけ! やはり復帰なさるべきです!
「いや、ここで信濃の者たちが続々と反旗を翻してみろ! 混乱どころではない!」
人間は、一度でも得た富貴を忘れ難いものだ。
俺が当主に復帰すれば、一昔前の裕福さに戻れると喜ぶ甲斐の者たち。
一方、勝頼を武田家の次の当主に推し、諏訪家の血を引く勝頼なら信濃を軽視するはずがないと信じる信濃の者たち。
今日の昼、両者の間で揉め事が起こり、あわや刃傷沙汰寸前にまで及んだ。
それは、皆が知りながらも目をつむり続けてきた、武田家を割りかねない大きな問題が浮き彫りになった瞬間でもあった。
ちなみに、次男と三男を抜かして四男の勝頼が後継に選ばれているのには理由がある。
次男は生まれながらの盲目で出家しており、三男は十歳を迎えずに夭折しているためだ。
「高坂殿、いかがした? 黙り込んだままとは、貴殿らしくないではないか?」
頃合いを見計らい、勘助さんが話題を次の段階に進める。
本来はこれが台本の筋書きだった。
だが、飛び交う意見の合間を絶妙に突き、勘助さんから高坂昌信へアドリブのパスが放たれた。
「いや……。その……。」
当然、全員の視線が高坂昌信に集中する。
騒がしかった場が一変して静まり返る中、高坂昌信は身体をビクッと震わせ、俺へ視線を向けた。
しかし、言葉は口の中でもごもごと濁り、弱々しい眼差しはすぐに伏せられた。
勘助さんの指摘通り、これは確かに変だ。
公の場では決して崩れない高坂昌信の仮面が、今、かすかに外れかけ、椿の素顔が垣間見えている。
「どうした? 遠慮は不要、そう儂は言ったはずだぞ?」
勘助さんが、この大事な場面で無意味な行動を取るはずがない。
信繁さんに視線を送ると、顎先を微かに頷かせ、GOサインを出す。
俺自身も腑に落ちない高坂昌信の態度が気になり、勘助さんの誘いに乗ることにした。
「では、恐れながら申し上げます。
拙者は大殿をずっと見て参りました。ずっと……。ずっとです」
「ですから、ここに居る誰よりも、大殿のことを良く知っているという自負がございます。
特にこの一年は、傍に置いて頂ける機会が多く……。
とても幸せに、満ち足りた日々でした」
ところが、高坂昌信の口から飛び出したのは、俺とのノロケ話だった。
言葉を重ねるたびに、ニヤニヤとした笑みを俺に向ける者が、一人、また一人と現れる。
「だからこそ、気付いてしまいました。
最初はほんの小さな違和感に過ぎなかったのですが、それはどんどん大きくなり……。」
「今では、もう違和感などではありません。……確信です。
大殿が……。大殿が、以前の大殿とは違う、と……。」
たまらず、高坂昌信の口を閉じさせようと怒鳴りかけた。
だが、続く言葉に胸がドッキーンと跳ね、思わず息をのむ。
まさか、俺が影武者だと見抜かれたのか。
冷や汗が全身をブワッと覆い、口の中は瞬時にカラカラに乾く。
動揺のあまり、声を出そうにも出せなかった。
「鍛錬の様子は何度も拝見して参りましたが……。
刀の振りも、槍の突きも、弓の射も、どれもかつての鋭さは見られません」
だが、続いた言葉を聞き、早合点だったことを悟ると、全身に走った緊張がふっと弛緩した。
勘助さんを盗み見れば、固く結んだ口元が微かに震え、笑いを堪えているのが分かる。
あとで憶えておけと、心の復讐帳に名前を書き記した。
「無礼を承知で申し上げますが……。
今の大殿は剣も槍も弓も、雑兵より多少マシな程度の腕前に過ぎません」
一方で、計り知れない恐ろしさと、この上ない頼もしさも感じる。
今、高坂昌信が語った内容は、話の入りこそ違えど、俺たち三人が予定していた台本そのものだったのだ。
もしかすると、勘助さんは事前に高坂昌信から相談を受けていたのかもしれない。
今、高坂昌信の落ち着かない態度を目敏く察知し、そこを突けば彼がこう切り出すだろうと確信し、台本以上の効果を狙ったのだ。
「馬の扱いも同様です。
歩かせたり走らせたりは出来ますが、駆けさせた途端に安定を失う」
それに比べ、俺ときたら、全く駄目駄目の間抜けである。
今振り返れば、椿は俺とのハッスルの後、いつも何かを言いたそうにしていた。
尋ねても、椿はすぐに『何でもない』と言葉を濁すため、本当は何かを気にしていることに気付いていながらも、気にしていない素振りを繰り返し、踏み込めずにいた。
「これでは戦場で大将を務めることは到底叶いません。
だから、大殿は復帰しない……。いや、復帰が望めぬのではないでしょうか?」
この問いかけこそが、その答えだったに違いない。
「ふっ……。戦場を知らない桃や由布に隠せても、お前にはやはり隠せなかったか」
「そのような苦悩を大殿が抱えていると知らず、拙者はっ……。拙者は!」
しかし、その臆病さが今この瞬間に生きた。
勘助さんに負けじと小芝居を打ち、俺はふっと苦笑を漏らす。
そして、優しい眼差しを高坂昌信に向けた。
「しばらく……。と言っても、二年か。
お前を遠ざけていたのはそういう理由だ。許せ……。」
「では、背中の傷が! 景虎に斬られたというあの傷が原因なのですか!」
その眼差しから逃げるように、高坂昌信は深く俯いた。
肩を震わせながら、力いっぱい握った両拳を、ゆっくりと上げていく。
「ああ……。その通りだ」
「くぅっ!?」
間もなくして、その両拳が一気に振り下ろされ、畳を強く叩きつける音が室内に響き渡った。
他の者たちが息を飲んで絶句する中、高坂昌信の押し殺した微かな嗚咽だけが静かに続いた。




