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再就職は武田信玄! ~ 御旗楯無も御笑覧あれ ~  作者: 浦賀やまみち
火の章

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第34話 桶狭間の知らせ




「遅れて申し訳ありません」



 行灯の明かりが揺らめき、奥座敷を照らす躑躅ヶ崎館。

 襖が静かに開き、ダンディーな髭を蓄えた壮年の男が姿を現した。


 俺の知る歴史では、明治の世まで家名を残した真田家。

 その祖と呼ぶに相応しい人物『真田幸隆』である。



「構わん。皆も来たばかりだ」

「恐れ入ります」



 俺は顎をしゃくり、空いている場所へ早く座るよう促した。

 今、この奥座敷には、後世『武田二十四将』と呼ばれる武田家の重臣たちが、車座になって集っている。


 それぞれとは諏訪の屋敷で何度も顔を合わせてきたが、こうして一堂に会するのは初めてだ。

 皆の前で平静を装ってはいるものの、腕を組んだ手の内は、嫌になるほど汗ばんでいた。



『……すごいよな。

 表には決して残らないけど、これ……。歴史的な場面だ』



 もっとも、正確な人数を挙げるなら、この場に居るのは俺を含めて二十人だ。


 武田二十四将のうち三人はすでに鬼籍に入っている。

 さらに義信の後見人であった飯富虎昌は、あまりにも突然すぎる義信の死に伏せっており、欠席していた。


 持病もなかった義信が、わずか二十三歳で急死した正確な死因はいまだ判明していない。

 朝食を済ませ、厠へ向かう途中で不意に膝を折り、そのまま崩れ落ちると、眠るように息を引き取ったという。


 状況から当初は毒殺の可能性も疑われたが、ほとんど手つかずで残されていた朝食から、毒は一欠片も見つかっていなかった。



『……馬鹿だよ。

 頑張れとは言ったけど……。頑張りすぎだ。馬鹿……。』



 だが、俺は義信の遺体と対面した瞬間、死因がすぐに察せられた。


 毒などではない。

 明らかに脳溢血、あるいは心臓麻痺。過労死だ。


 そう判断できるほど、義信の死相には深い疲労が刻み込まれていた。


 

『なぜ、誰も止めなかったんだ……。

 いや……。誰も止められなかったのか……。

 晴信に似て、義信が頑固なところがあったからな……。』



 事実、何人かに事情を聞いて回ると、想像を超えるほどの、スーパーブラックと呼ぶしかない働きぶりだった。


 武田家当主としての政務は言うまでもない。

 西で揉め事が起これば自ら仲裁に赴き、東で祝い事があれば顔を出す。

 朝は誰よりも早く起きて鍛錬を行い、夜は皆が寝静まるまで兵法や律令を学び続けた。


 朝、起こしに行くと、夜通し起きていた。

 そんなことも一度や二度ではなかったという。


 身体を壊さないはずがない。

 実際、ここ数か月は食も細り、無理に食べれば吐いてしまうため、粥を常食にしていたらしい。


 本来、その役目を担うべきだった飯富虎昌に、怒りの矛先を向けたくもなった。

 殴り飛ばしたい衝動すら湧いたが、それは出来なかった。



『大殿……。

 どうか、若を……。義信様を、褒めてやって下され』


『あの日以来……。大殿とのわだかまりが解けてからというもの。

 義信様は、必ず大殿を超えてみせるのだと、日々邁進しておられました。

 先を急ぎ過ぎるそのお姿を案じ、儂や皆で『少しは休め』と苦言を呈しても……。』


『……俺は凡人だ。

 凡人が、天才である父上を超えるのなら、父上の二倍、三倍と努力せねばならぬ。

 この程度で音を上げていては話にならぬ。そう言って……。』


『事あるごとに、大殿から頂いた言葉を口にされました。

 それがどうしたと、嬉しそうに笑いながら、疲れ切った身体に喝を入れて……。

 いつか必ず、大殿に褒めていただくのだと……。』



 涙を隠そうともせず、嗚咽混じりに続いた飯富虎昌の懺悔。


 もし、義信を止められた者がいるとしたら、それは俺だけだったのかもしれない。

 そう、突きつけられたのだ。



『ならば……。言葉にしよう。

 義信よ、よくやった! 

 お前は紛れもなく武田家の棟梁だったぞ!』



 俺が『武田信玄』として生き始めて、四年目になる。

 今、他人から見れば呆れるしかない椿と由布の確執解消に奔走できているのも、義信の存在があってこそだった。


 上洛へ出る前、諏訪の屋敷を訪れる者といえば、晴信が武田家当主であった頃を懐かしみ、愚痴を零す者ばかりだった。

 正直、うんざりすることも多かった。


 だが、上洛から戻ると、それは次第に減っていった。

 義信の影響力が増し、晴信の影響力が薄れつつある。その何よりの証拠だった。


 今や、諏訪の屋敷を訪れる者の大半は隠居した者たちだ。

 同じ隠居同士、若者への愚痴が混じっても、それは気楽な昔話に過ぎない。


 俺の人生も、武田家も、これで安泰だ。

 そう実感し始めていた矢先、義信はあまりにも唐突に逝ってしまった。



「さて、これで揃ったな。

 皆にこうして集まってもらったのは他でもない。

 薄々気づいているとは思うが、明日の葬儀で発表する、義信の後継についてだ」



 真田幸隆が腰を下ろしたのを合図に、俺は頷き、静まり返った場に第一声を放った。


 たちまち、あちらこちらで息を呑む気配が走る。

 どうやら、俺の言葉だけで、その先を言わずとも答えは察せられたらしい。



「何のための車座だ。許しを得る必要はない。

 儂の心はすでに決まっている。

 だが、遠慮なく意見を言ってくれ。

 それがより良いものなら、儂は一考も厭わぬ」



 全員が落ち着きなく顔を見合わせ、やがてその視線が一斉に信繁さんへと注がれた。

 それに応えるように、信繁さんは一度目を閉じ、静かに手を挙げた。


 そのあまりに出来過ぎた所作に、俺は思わず苦笑を噛み殺す。


 実を言えば、俺と信繁さんと勘助さんの三人にとって、この会議はすでに結論の出た茶番だ。

 昨夜、皆が寝静まった頃に密かに集まり、今後の武田家の行く末について明け方近くまで膝を突き合わせて語り合った。


 そして、その場で意見はすでに一つにまとまっている。



『もう、ただの観客じゃ駄目だ。

 舞台に立たなくても、裏方に……。』



 改めて言うまでもないが、俺は晴信の影武者に過ぎない。

 だから、俺たち三人による武田家の極秘会議が開かれる時、俺は一貫して聞き役に徹してきた。


 実際に議論を交わすのは、信繁さんと勘助さんの二人だ。

 俺が口を挟むのは、参考意見を求められた時か、二人がどうしても判断に迷った際に最後の一票を投じる、その程度である。



『信繁さん……。勘助さん……。

 俺の話、聞いてもらえますか?』



 しかし、今回は違う。

 俺もまた意見を積極的に出し、武田家の将来の舵取りに深く関わっている。


 理由はただ一つ。


 俺が知る歴史通り、戦国時代を象徴する戦『桶狭間の戦い』が、ついに起こってしまったからだ。

 信長が今川義元を討ち取り、大勝を収めたという報せが、三日前にこの躑躅ヶ崎館へ届いた。


 その瞬間、俺は激しい焦燥感に駆られた。

 もし義信が突然死していなければ、信長を強く警戒せよと助言するだけで済んだはずだ。


 義信の正室は今川家の出身である。

 義元討死の報を聞けば、義憤に駆られて仇討ちを望む可能性もある。


 だが、信長が治める尾張と武田家の領国は接していない。


 当主を失った今川家は、まずは混乱から立ち直る必要がある。

 仇討ちに動くとしても、それは数年先。本来なら、こちらにはまだ時間の猶予があった。



『……時間がない。

 俺が『ここ』に来て、もう四年が経った。

 なら、十年なんて、あっという間だ……。』



 だが、義信は死んでしまった。

 俺の知る歴史とは大きく違い、家督は円満に継がれ、晴信との確執もめでたく解消されていたというのに、だ。


 まるで俺が知る歴史に引き戻されているかのようだった。

 それが『正しい流れ』なのだと、『余計なことはするな』と、この世界そのものが俺に言い聞かせている。そんな感覚が拭えない。


 もし、そうだとするなら。

 あと十年もすれば、武田家は大きく衰退し、滅びへと向かう未来が待っていることになる。


 古今東西、侵略によって敗れた支配者一族の末路は変わらない。

 将来の禍根を断つため、利用価値のある年若い女性を除き、一族は例外なく抹殺される。



『ああっ……。きっと父さんも、こんな気持ちだったんだね。

 貴方を、尊敬します……。』



 もはや、俺の命がどうだの、寿命がどうだのと言っている場合ではない。

 近い将来、桃が産んでくれる我が子の未来を、何が何でも守りたかった。


 そのためには、俺が知る歴史を大きく捻じ曲げる必要があった。

 たとえ世界が正そうとしても、もう正せないようにする。それくらい覚悟を決めた。


 幸いにも、信繁さんも勘助さんも、俺の変化を歓迎してくれた。



『義信の死は残念だが……。ようやくだな』

『……ですな。

 儂の元へ届く話といえば、食い物の注文ばかり。正直、呆れていたんだぞ?』

 


 余談だが、京都を中心に動いていた勘助さんが義信の葬儀に間に合ったのは、あの地に拠点を設けていたおかげだった。

 こんな形で役立つとは皮肉な話だが、その有用性は疑いようもない。


 今後、勘助さんの助力は不可欠だ。

 義信の葬儀が終わり次第、京都には別の者を送り、勘助さんにはこの身の傍に留まってもらう。そう決めている。



「信繁、言ってみろ」

「では、遠慮なく……。

 兄上のその口ぶり。後継は……。勝頼、ということですか?」



 さあ、ここからが台本スタートだ。

 心の中で『どうか順調に進んでくれ』と願いながら、俺は頭の中でカチンコを鳴らした。




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