第3話 雨宿りの黒猫
「弱ったな……。」
社の軒先から、雨に濡れた空を見上げて呟く。
鳥居をくぐったあたりからポツリポツリと降り始めてはいたが、まさかこんなにも急に土砂降りになるとは思わなかった。
社務所の巫女も、どうやら驚いているらしい。
横目でちらりと見ると、御札などが並ぶ窓口から身を乗り出し、空を見上げていた。
先ほどまで聞こえていた篠笛の音が止まっていることから、音色の主はどうやら彼女のようだ。
「こうなったら、仕方ないか」
社務所までは20メートルほどだが、この軒先に立っているだけで、足元に叩きつけられる雨の跳ね返りで濡れてしまうほどの土砂降りである。
こんな中で御朱印を求めるのは、さすがに非常識に違いない。
賽銭箱の前まで戻り、雨宿りをするしかなかった。
「ただ、今夜の宿をどうするかだよなー……。」
時刻は夕方の少し手前。
この土砂降りが夏特有の夕立なら、少し待つだけでやむだろう。
しかし、このまま夜まで降り続いたら辛い。
このあと、戸隠神社を参拝し、新潟県まで北上する予定だった。
だが、移動手段がバイクである以上、ずぶ濡れになるのは避けられない。
さらに、宿泊は一人用の折り畳みテントのため、雨音に打たれながら安眠することなど到底望めない。
「風邪なんてひいたら最悪だ。それだけは勘弁してくれ」
夏だからといって油断はできない。
雨に濡れた地面とほぼ直接接しているテントの中は、朝になると底冷えする。これも、今日までの旅で身に染みて得た教訓である。
こうなったら、早めの行動が肝心だ。
予定を切り上げ、今日の旅はここまでにする。
長野市内で、素泊まりができる安い宿を探すとしよう。
幸い軍資金には余裕があるが、できるだけ使わずに済ませたい。
旅はまだまだ続く。
この先、どんなハプニングが待ち受けているかはわからない。
だから、余裕は大きければ大きいほど心強いに決まっている。
「にゃーん!」
土砂降り前のハイテンションは、どこへやら。
深く憂鬱な溜息を漏らし、顔を下ろすと、珍客の登場だ。
黒猫が、雨の中を足早に現れた。
「おっ!? お前も雨宿りか?」
猫に話しかける。人前なら気恥ずかしくて躊躇う行為だが、ここには俺しかいない。
横目でちらりと見ると、巫女は販売口の窓を閉め、社務所の奥へ引っ込んでいた。
手持ち無沙汰も手伝って、黒猫を愛でようと腰を屈め、笑顔で手招きする。
「にゃ?」
首輪のない、野良と思しき黒猫はどうやら物怖じしない性格らしい。
軒先の手前で一度立ち止まり、俺と視線を合わせると、すぐに歩き出し、足元まで近寄ってきた。
犬派か猫派かと聞かれれば即答で猫派と答える俺の気分は、沈んでいたのが嘘のように再び上向く。
右手を伸ばし、黒猫の頭を撫でようとした。
「にゃふ!」
しかし、俺は大事なことを忘れていた。
ずぶ濡れになった猫が雨宿りに来たとき、真っ先に取る行動は、たった一つしかないのだ。
「ちょっ!?」
黒猫が身体を左右にブルブルッと振り、濡れた体毛の水滴を飛ばす。
その直撃を間近で受け、反射的に両手を顔の前に翳して上半身を仰け反らせ、後ろに下がろうとする。
「……痛っ!?」
だが、立っているのは賽銭箱の前。
後ろに下がることもできず、腰を賽銭箱の角にぶつけてしまい、視界全体に火花が散った。
「ひっひっふーっ! ひっひっふーっ! ひっひっふーっ!」
ここが自室なら、床をのたうち回りたいほどの激痛。
少しでも和らげようと、左手で顔を押さえつつ、右手で腰を必死にさする。
ただひたすら、痛みが過ぎ去るのを待つしかなかった。
「ひっひっふーーー……。」
やがて、三十秒ほどが過ぎただろうか。
額の脂汗を拭い、深呼吸をひとつ。
激痛でぎゅっと閉じていた目を開けると、黒猫はまだそこにいた。
「にゃっしっしっ!」
それも、俺と目が合うのを待っての一鳴きだ。
気のせいだろうか、まるでしてやったりと俺を小馬鹿にするような笑い声に聞こえた。
そんなはずはないのに、可愛さ余って憎さ百倍。
右拳を勢いよく振り上げて、思わず怒鳴った。
「こらっ!」
「にゃっふーん!」
だが、黒猫はずる賢かった。
脇を素早く駆け抜け、賽銭箱の上に跳び乗ると、さらにもう一跳び。
薄暗い本殿の中に、軽やかに逃げ込んでいった。
「あっ!? 卑怯だぞ!」
「にゃっしっしっ!」
もはや、手も足も出せない。
黒猫を追って本殿に上がるなど、畏れ多すぎる。
せめてもの反撃に、怒鳴り声を薄暗闇に向かって投げるが、所詮は負け犬の遠吠えに過ぎなかった。
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「どうせなら温泉に入りたいよなぁ……。
でも、この値段はちょっとなぁ……。
おっ!? ここ、良さそうかも! この値段なら……。」
雨が降り始めてから、すでに三十分が経った。
雨足は少し弱まってきてはいるが、それでも外に出るには躊躇うほどの降り方だ。
暇つぶしの相手だった黒猫は戻ってこず、俺はスマートフォンをポチポチと操作する。
長野市内の安宿を探していると、腰を下ろしている拝殿の石階段に小石が飛んできた。
石と石が軽くぶつかる音に集中力を乱され、反射的に視線をスマートフォンから上げる。
「んっ!?」
あとからよく考えてみると、これもまた明らかな怪奇現象だ。
音で気づいたため、正確な方向はわからないが、小石はどうやら正面から飛んできたらしい。
少なくとも、左右からではない。
左右からなら、小石は階段にぶつかったあと、飛んできた方向とは逆に跳ね返るはずだ。
しかし、小石は階段の正面に跳ね返っている。
この社の正面には小さな社が建っている。
その社と俺の間の距離は三メートルほどで、そこに誰もいない。
どう考えても、小石が正面から飛んでくるのはおかしい。
「おおっ!? さすが、川中島!」
だが、目の前の光景に、俺は冷静さを失った。
いつの間にか、目の前の社をうっすらと覆うほどの濃霧が立ち込めており、まるで自分と世界が隔絶されたかのような感覚に胸を打たれる。
まさに、第四次川中島の戦いの再現だ。
耳を澄ませば、馬蹄の音が聞こえ、今にも上杉謙信が突撃してきそうな気配がする。
そうなれば、ここにいる俺は必然的に武田信玄の役割を担うことになる。
こんな状況で冷静さを保てるはずもない。
「うむ! 風林火山!」
いつの間にか、雨は上がっていた。
夏の雨上がり特有の蒸し暑さを感じながら、拝殿の軒先から右手を差し出してみるが、雨粒は一つも落ちてこない。
ならば、お待ちかねの御朱印だ。
スキップしたくなる気持ちをぐっとこらえ、濃霧の中に姿を消した社務所へと向かう。
「えっ!? マジかー……。」
しかし、三歩目で歩みが止まった。
巾着袋の口をいそいそと開けてみると、中にあったのは赤い表紙の御朱印帳。すでに全てのページが埋まった、満願済みのものだった。
出鼻をくじかれ、テンションは一気に下がる。
現在収集中の三冊目の御朱印帳は表紙が蒼色のため、中を開かなくても失敗したことは一目瞭然で、思わず溜息が漏れた。
おそらく、入れ違いが起きた原因はここを訪れる前、上田市で立ち寄った蕎麦屋にある。
注文した天ぷら蕎麦がなかなか運ばれてこず暇を持て余していた時、これまでの旅の道中で頂いた御朱印を確認していたのだ。
「……戻るとするか」
三冊目の御朱印帳のあるバイクへ戻るため、気を取り直すと、雨に濡れた石畳を蹴って駆け出した。




