第32話 四年目の桜
「えっと……。弥七郎とは何もありません。絶対に嘘ではありません。
本当に夜伽をさせたことは一度もありません。
昼も夜も、この前も……。そして、もちろん今夜もです」
戦国時代にタイムスリップして、もうすぐ四年目。
庭の桜は間もなく満開を迎え、三度目の春が訪れようとしている。
影武者としての日々に必死だった一年目。
上洛の旅を自分の足で歩き通した二年目。
その二年と比べると、三年目は穏やかな日々が続いたと言える。
「貴女の気を惹こうとあれこれ工夫しているのに、こんなにも疑われるなんて、本当に残念です。
それに、近習にしたばかりの弥七郎を、どうして貴方が知っているのですか? 正直、少し怖いくらいです」
椿がたまに巻き起こす騒動を除けば。
今日もまた、椿からラブレターという名の詰問状が届いた。
燻り始めた火種を消そうと、俺は返事の文面に頭を悩ませている。
「……駄目だな。
こんなことを書いたら、また泣いて飛んで来るに違いない。書き直そう」
筆を走らせていた文面が気に入らず、大きくバッテン印を入れると、その紙を無造作に丸めて放り投げた。
だが、目標のゴミ箱にはすでに失敗作が山積みになっており、いくつかの紙はゴミ箱の外にこぼれて散らばった。
「はぁぁ~~~……。」
筆を置き、深々と溜息をつきながら墨を硯に擦る。
煮詰まった苛立ちが、投げ出したい気分を呼び起こすが、ここは我慢、我慢。
どんなに面倒でも、ここで放置したり対応を誤ったりすれば、去年の経験から今以上の面倒事が待っているのは分かっていた。
それに、すべての発端が自分自身にあるのだから、諦めるしかない。
「いや、俺も男だよ?
あんな美人に迫られたら、嬉しいに決まっているさ」
そう、復讐心に我を忘れて椿にズブリとやってしまったのが、最大の大失敗だった。
あの夜を境に、椿は大きく変わった。
第三者が同席しているときは問題はなく、城代としての職務もきちんと全うしており、評判も上々だ。
しかし、俺と二人きりになると、明らかに女の顔を見せるようになった。
さらにアピールも積極的になった。
今では、むしろ俺の方が押し倒されることのほうが多い。
「でもさ、何事にも限度ってものがあるよね?」
問題は、嫉妬深さを通り越して少し病み気味なところだ。
冬でも手紙は週に一度届き、春夏秋は三日も空かない。
返事を疎かにすれば、文量が増えたり、届く間隔が縮まったり。
最終的には、佐久から自ら馬を走らせてやって来る。
「……困るよな。
いいことと言ったら、佐久と諏訪の道が整備されたことくらい?」
挙げ句の果てに、やってきたらやってきたで、なかなか帰ろうとしない。
三日間の滞在は当たり前で、一週間以上になることも多い。
宥めて、宥めて、叱って、何度もこちらを振り返りながらも、ようやく佐久へ帰っていく。
「一週間前も苦労したよな……。
……って、まだ一週間前しか経っていないのか」
おかげで、諏訪と佐久の遠距離恋愛をまったく感じさせない。
最初は椿に遠慮していた桃も、最近では椿が訪れると不機嫌さを隠そうとせず、そのご機嫌取りもまた一仕事になる。
「由布もなーー……。
以前は大人しくて、清楚を絵に描いたようだったのに……。」
だが、本当に逃げ出したくなるほど大変なのは、『諏訪の方』と呼ばれる側室『由布』との確執だ。
由布は、晴信の四男『武田勝頼』を産んだ母の妹である。
姉が若くして亡くなった後、勝頼の諏訪家後継を確かなものとするために晴信の側室となった。
諏訪湖の南、諏訪大社上社の近くにある上原城に居を構え、この屋敷とは近い。
以前は、俺か由布のどちらかが、月に三度か四度の頻度で互いの屋敷を訪れる交遊が続いていた。
ところが、それが変わった。
椿の訪問が増えると、由布の訪問も増えるようになった。
今では、どこから聞きつけてくるのか、椿が訪問すると高確率で由布もやって来るようになっている。
「まさか、俺が取り合いになる日が来るなんて、前は考えもしなかった」
無論、二人は大人の女性で、立場もある。
髪を引っ張り合うような乱闘にはならないが、この屋敷全体がギスギスとした緊張感に包まれ、嫌味を交わし合うその間に立たされる俺は堪らない。
特に夜が酷い。心が休まらない。
俺は二人が泊まる客間のどちらかを夜に訪れる必要があり、どちらに訪れたかで翌日に必ず一悶着が起こる。
さらに、遠く離れた相手の客間にまで届くように、いつも以上に大きな声で睦むので、桃まで不機嫌になるのだ。
「信繁さんは、もう二人か、三人ほど妾を作れっていうけどさ。
節穴かな? 今の俺にそんな余裕があるわけないっての……。」
この問題に関して、信繁さんをはじめ何人かに助けを求めたが、駄目だった。
全員が『触らぬ神に祟りなし』とばかりに関わろうとしない。
助けになったと言えば、由布がなぜこれほど椿を目の敵にするのかが分かったくらいだ。
「世の大名たちは、どうやっているんだろう?
秀吉って、愛人が300人いたとか言うし……。マジで尊敬する」
本来、こうした問題を解決するのは正室の役目だが、晴信の正室はすでに鬼籍に入っている。
晴信が正室を娶ったのは十歳になったばかりの頃で、相手は三十歳以上も年上の完全な政略結婚だった。
そのため、継室となった『三条の方』が事実上の正室となる。
だが、晴信と三条の方は出会った当初から不仲で、義務的な関係が続いていた。
さらに、武田家が信濃へ進出し、晴信が甲斐を留守にすることが多くなると、二人は次第に疎遠になったらしい。
実際、晴信の側室や妾、愛人はこの屋敷を少なくとも一度は訪れているが、三条の方は一度も訪れていない。
義信が武田家の家督を継いだ際にも、感謝の手紙を一度だけ送ってきたに過ぎず、それも義務的で簡素な内容だった。
「字、綺麗だったよなーー……。
でも、こっちから会いに行くのも、なんかおかしいし……。」
その結果、由布が自然と正室の役目を担うようになった。
武田家が信濃を侵攻する際、諏訪が必ず通り道になることに加え、晴信の寵愛が厚かった。
諏訪家は三条の方を除けば、側室・妾・愛人の誰よりも古い歴史を持つ名門だったからである。
「だけど、みんなの話に聞く限り、美人さんなんだよね。
京美人……。晴信め、うらやまけしからんやつ!」
晴信もそれを許した。
由布が住む上原城と、三条の方が住む甲斐の武田家本拠地『躑躅ヶ崎館』は程よく距離が離れており、問題は起きなかった。
由布は高坂昌信が晴信の深い寵愛を受ける衆道の相手だと噂で聞きつつも、性別が違うため同じ土俵に立つ必要はないと考え、その顔すら確認していなかった。
「そうだよ! 晴信が悪い! 俺は悪くない!
結局、俺って、晴信のツケを払っているだけじゃん!」
しかし、椿が女性らしさを積極的に出すようになったことで、実は高坂昌信が女性であるという、武田家の公然の秘密が露見した。
俺との仲睦まじさを噂で聞いたその日のうちに、由布は危機感を募らせ、この屋敷へやって来た。
なにしろ、高坂家は諏訪家と比べても遜色ない家格だ。
その上、椿は由布より若く、自分には行けない戦場へ高坂昌信として赴き、俺と圧倒的に長い時間を共有できるのだから、嫉妬するのも無理はない。
「あーーー……。駄目だ、駄目だ!
一旦、止め! 散歩でもして、気分をリフレッシュしよう!」
苛立ちが収まらず、鼻息をフンスと強く吹き出して立ち上がる。
このまま続けても満足のいくものは出来そうにない。
俺は、椿への返事を書き始めてから数えて三度目の休憩を取ることにした。




