第30話 湯殿に咲く椿
「はぁぁ~~~……。」
露天風呂の真ん中で、寝そべるように耳まで湯に浸かり、大きく溜息をつく。
正面には茜色に染まる空。
その空を横切るように、カラスが『アホー、アホー』と鳴きながら裏山へと飛んでいった。
天は、俺を見捨てた。
時は抗うこともなく無為に流れ、ついに『今』という瞬間へと辿り着いてしまった。
「なんでだよ……。遠慮は要らないって言ったのに……。どうして……。」
昨日、上洛の旅から帰ったばかりだったため、今日の来客は多かった。
語り尽くせない土産話を肴に、今夜は皆で飲み明かそうと提案したにもかかわらず、夕方前には帰ってしまった。
そう、残されたのは高坂昌信一人だけ。
最後の頼みの綱だった桃もいない。
余計な『今夜は私がいては、お邪魔でしょうから』という気遣いを残して、彼女は諏訪の街の宿に外泊していた。
今、この屋敷にいるのは最低限の要員のみ。
もはや、高坂昌信を止められる者はいない。
その瞬間は、すぐそこまで迫っていた。
「嫌だぁぁ~~~……。」
体を支えていた両手を離し、顔ごと湯に深く沈めた。
こうすれば、どんな愚痴も零せる。
人には聞かせられない叫びが、泡になって湯面へと上がっていく。
「ぶくっ! ぶぶっぶくぶくぶーーっ! ぶくぶっ!」
やがて、肺に溜め込んでいた空気が薄れ、意識が朦朧とし始める。
それでも、愚痴はまだまだ言い足りなかった。
このまま気を失い、気づけば朝になっていた、そんな馬鹿な考えを抱きながら、愚痴を零しまくる。
『今宵は、儂とお前の二人で長篠の戦だ』
『お、大殿……。せ、拙者の種子島は、もうっ……』
『ならば三段撃ちだ。構えろ……。撃て!』
『アーーーっ! アーーーっ! アーーーっ!』
酸欠のせいか、あまりにも嫌すぎる妄想が頭の中に広がる。
慌てて体をばたつかせ、勢いよく立ち上がった。
俺を中心に大きな波が立ち、露天風呂の水面が激しく揺れ動く。
「ぷっはっ!? はぁ……。はぁ……。はぁ……。
ど、どうして、俺が『受け』なんだよ! せ、せめて、そこは『攻め』にしてくれよ!」
頭まで温泉に浸かっていたというのに、全身に鳥肌が立つほどの寒気が走った。
身も心も温めようと、温泉のかけ流し口へ向かおうとした、その時だった。
「大殿、お待たせいたしました」
「お、おう!」
脱衣所の板戸が開く音が聞こえた。
湯けむりの向こうに、何者かの影が現れる。
その正体が誰なのかなど、言うまでもない。
心臓がドキリと跳ね、慌てて湯に身を沈めると、高坂昌信に背を向けた。
「ふふっ……。立派な露天風呂ですね」
「そ、そうだろ? わ、儂の自慢だ」
実は、すでに晴信は亡くなっており、自分は影武者だ。
そう明かしてしまえば、活路が開けるのかもしれない。
しかし、そんな身勝手が許されるはずもない。
信繁さんと勘助さんの期待を、俺は裏切りたくなかった。
「大殿自ら設計なさったとか?」
「う、うむ。い、いろいろとこだわっているんだぞ?」
こんな事態になるくらいなら、事前にきちんと相談しておくべきだった。
まさか高坂昌信が、ここまで強引に迫ってくるとは思っていなかったし、仮に迫られても、いくらでもはぐらかせると高を括っていた。
その見通しの甘さを、今になって痛いほど思い知らされ、俺は深く猛省する。
「あっ……。いい湯加減……。
沸かしていないのに、どうやっているんですか?」
背後で、かけ湯を三度流す音がする。
生唾をゴクリと飲み込み、覚悟を決めた。
いや、正確には諦めた。
二年も焦らしに焦らし、ここまで来てしまったのだ。
どれほどごねようと、高坂昌信が今さら止まるはずがない。
「げ、源泉がな……。お、驚くほど熱くてな。
そ、それを沢の水と合わせて、加減しているのだ」
ただ、一つだけ前言を撤回する。
俺に『攻め』は無理だ。
その勇気など持ち合わせていないし、仮に挑んだところで、肝心なものが役に立つとも思えない。
こうなったら、背後から一気にズブリとやってほしい。
高坂昌信が湯を掻き分けて近づいてくる音を聞きながら、飛び出しそうなほど早鐘を打つ胸を押さえつけるように腕を固く組む。
全身を強張らせ、ただその時を待った。
「ふふっ……。さっきから、こちらを見ようとしませんね。
でも、実を言うと私も久しぶりで、少し緊張しているんですよ? ほら……。」
ほどなくして、背後に立った高坂昌信が静かに湯へと身を沈め、俺の背中にそっと覆い被さってきた。
思わず身体がビクッと震えた。
だが、同時に頭の中では無数の疑問符が次々と浮かび上がり、こわばっていた身体が少しずつ解けていった。
「……えっ!?」
普段とは違う一人称もそうだが、言葉遣いまで柔らかい。
密着してくる身体には、鍛え抜かれた筋肉が確かにあるのに、不思議と硬さを感じさせなかった。
さらに背中へ押し当てられるようにして伝わってくる、二つの柔らかな感触。
どう考えても、それは女性の象徴と呼ぶべきものだった。
その中心で固く主張する突起も、男のものにしては妙に存在感がある。
「ま、昌信?」
俺は、ただ戸惑うことしかできなかった。
答え合わせをするように、恐る恐る振り返ってみる。
そこにいたのは、紛れもなく高坂昌信だった。
「もう……。こういう時は、椿って呼ぶ約束でしょう?」
しかし、俺の知る高坂昌信とは、あまりにも違っていた。
いつも結わえている髷というより、ポニーテールと呼ぶ方が近いそれを解き、高坂昌信は美青年の姿から、長髪の美女へと変貌していた。




