第29話 厠の攻防戦
「ど、どうして、ここに居る? い、今、先触れが届いたばかりだろうが!」
「大殿が京より戻られたと聞き、拙者自身が先触れとなって、馬を急ぎ走らせてまいりました!」
承知していながらも視線を左右、そして背後に走らせる。
だが、やはり救いの道はどこにもない。
背後は壁。左右には便座に座った際の目線の高さに、換気用の小さな窓が備え付けられている。
しかし窓は小さく、格子もあり、せいぜい腕一本しか出せない有様だ。
「いやいや、佐久からの距離を考えても早すぎるだろ!
まだ朝だぞ! 儂が帰ってきたのは、昨日の夕方だぞ! おかしいじゃないか!」
残された手段は、籠城戦のみ。
慌てて戸板を開けられぬよう、取っ手を両手で力いっぱい押さえ込む。
鍵は一応備え付けられているが、簡単な木鍵にすぎない。
本気でこじ開けられたら、容易く壊れるのは確実だった。
「それもこれも、大殿が拙者と会ってくださらないからではないですか!
だから恵那に物見を送り続け、大殿の帰りを今か今かと待っていたのです!」
戸板がガタリと音を立てて揺れた。
間一髪で難を逃れるも、一呼吸置いた途端、まるで直下型の大地震が起きたかのように、戸板がガタガタと激しく揺れ始める。
「馬鹿者! 恵那といったら美濃だろうが!
他国に物見を潜入させるなど危険だし! だ、第一、無駄な労力を使うな!」
「無駄ではありません! こうして、誰よりも早く大殿の元へ参りました!
それなのに、それなのに……。
拙者が来ると知ったら、高遠へ出かけているなどと嘘をつくなんて……。そっちの方がおかしいですよ!」
数多の戦場を駆け抜け、一伝令役から武田家四天王にまで出世した高坂昌信との力比べ。
戦国時代にタイムスリップして以来、いざという時に自分の身を少しでも守れるよう、俺は日々鍛錬を欠かしてはいない。
だが、どう足掻いても勝てるはずがない。
「違う、違うぞ! 嘘などではない! 儂はこれから本当に高遠へ出かけるんだ!」
「なら、拙者もお供を致します! 皆には暫く帰らないと言い残してきましたので!」
「馬鹿、馬鹿! 佐久は武田の要所だぞ! 城代のお前が居なくて、どうする! さっさと帰れ!」
しかし、決して負けられない戦いがここにある。
汗を滴らせ、奥歯を食いしばって踏ん張り、戸板を全力で死守する。
「あれは二年前……。長尾との戦いで、兵を須坂へ進めている時のことです」
「うん?」
すると不意に、戸板の激しい揺れが収まった。
高坂昌信が力を緩めた証拠だが、ここまで追い詰めておきながら諦めたとは考えられない。
「大殿の寝所からの帰り道、待ち構えていた信繁様に、こう言われました」
恐らくこれは、押して駄目なら引いてみろ的な作戦だろう。
思わぬ休憩タイムに荒くなった息を整えつつ、攻防が再開されても良いように戸板は押さえ続ける。
「……戦の時は仕方がない。兄上にはお前が必要だ。
だが、諏訪の方は、お前と兄上の関係を面白く思っていない。
辛いだろうが、平時は控えてくれ。奥の乱れは、思わぬ大きな災難を呼びかねない、と……。」
戸板の向こう側で、切々と語られる高坂昌信の独白。
額を戸板に付けているのか、声が近い。
言葉を重ねるたびに、哀しみに濡れて震え、やがて言葉と言葉の合間に鼻すすりやしゃくり上げが混ざる。
「拙者は、何も言い返せませんでした。
大殿を想う気持ちは、誰にも負けないつもりです。
ですが、それは所詮、許されぬ関係。納得するしかありませんでした」
映画などの人情話に弱く、つい涙を零してしまう俺である。
戦場では無類の強さを誇りながらも、恋には臆病すぎるその純情に、思わず視線を落としてしまう。
「だから、耐えました。
寂しさのあまり、心が狂いそうになっても、耐えて、耐えて、耐えてきました」
だが、それはそれ、これはこれ。
やはり、衆道はノーサンキューだ。
「そして、待ちました。
拙者からは駄目でも、大殿が拙者を求めてくださるなら話は別です。
待って、待って、待ち続けました」
対象が俺以外なら応援したが、対象が俺となれば話は別。
何とか穏便に済ませられないかと考えた、その次の瞬間だった。
「そう、待ち続けて、もう二年です! 二年と十三日!
その間、大殿は拙者を求めるどころか、離れてゆくばかり!」
「ひぃっ!?」
危なかった。猛烈に危なかった。
高坂昌信が口調を一変させ、哀しみを怒りに変えると、再び戸板をガタガタと激しく揺らし始めた。
「今だって、そうです!
高遠へ出かけているなどと嘘を付いて!
例を挙げれば、キリがありません!」
「お、落ち着け! お、落ち着けって!」
しかも、今度の揺れは、戸板をただ引き開けようとするだけのものとは違った。
戸板そのものが、縦に、横に、斜めに、前後に揺れている。
「拙者を、誰よりも愛していると!
お前さえ居れば、他には何もいらないと言ってくださった、あの言葉はっ……。
あれは、嘘だったのですか!」
血の気が一気に引いた。
もしかしなくても、これは戸板を開けようとしているのではなく、蝶番を壊して外そうとしているのではないだろうか。
「嘘ではない! 嘘ではないが! ぐぐぐぐぐっ!」
もしそれが本当なら、もはや力比べ以前の問題だ。
だからといって、諦めるわけにはいかない。
俺は戸板を開けられまいと、外されまいと、文字通り必死の思いで踏ん張った。
「そんなにあの小娘が良いんですか!
あんな小娘のどこが良いって言うんですか!」
「これ見よがしに上洛の伴にして、いちゃいちゃ、いちゃいちゃ……。」
「ええ、ええ! 拙者の耳にも大殿の武勇伝はちゃんと届いていますよ!
あの小娘のために三好家と揉めたそうで!
実に立派ですね! 立派すぎて、涙が出てきますよ!」
さらに、戸板の揺れが増した。
もはや、戸板が揺れているのか、自分が揺れているのか、厠そのものが揺れているのか、区別がつかないほどだった。
「……のわっ!?」
やがて、最初に悲鳴を上げたのは、俺が死守していた取っ手だった。
バキリと音を立てて取っ手は戸板から外れ、その反動で身体が大きく仰け反る。
慌てて右足を引くが、ここは狭い個室。
右足を引いた瞬間、膝裏が便座に引っかかり、咄嗟に開いた両手で壁を突いて支えようとする。
しかし、勢いを殺せず、そのまま便座に尻を打ち付ける形で着席してしまった。
「こうなったら、あの小娘を殺して、拙者も! 拙者もおおおおっ!」
そして、蝶番もついに壊れた。
戸板が縁側から庭へ、乱暴に投げ捨てられる大きな音が響き渡る。
「はぅっ!?」
俺は身をビクッと竦め、慌てて最後の抵抗として両腕を顔の前で交差させた。
「拙者も……。せっしゃも……。せっ、しゃ……。」
「んっ!?」
ところが、ここに至り、高坂昌信の勢いが唐突に衰えた。
何事かと、交差していた両腕を恐る恐る解く。
高坂昌信は口をパクパクと開閉させ、大きく見開いた目をパチパチと瞬きさせながら、固まっていた。
だが、その視線はこちらを向いていなかった。
高坂昌信の視線は下方を向いており、その先を辿ってみると、なんと俺の大事なアレが、こんな最中に天を雄々しく突いているではないか。
「……えっ!?」
これには俺自身も驚き、思わず目をパチパチと瞬く。
多分、これは生物が命の危機を感じた時に起こす、種族保存の本能だろう。
俺の恐怖は、それほどだったという証だ。
いずれにせよ、バツが悪すぎる。
取りあえず、褌だけでも着けようと、便座から立ち上がった。
「ど、どうして、裸なんですか!
そ、それに、その……。と、とにかく、前を隠して下さい!」
その途端、高坂昌信は一歩どころか二歩、三歩と下がった。
上半身をやや仰け反らせ、真っ赤に染まった顔を、俺から目一杯背けて。
どうやら、熱烈に迫ってきた割に性根は純情らしい。
今こそ逃げる絶好のチャンスだが、それでは追いかけっこが始まり、力勝負だったのが体力勝負に変わるだけだ。
「ふっ……。それこそ、どうしてだ?
お前が儂の心を疑うから、違うという確かな証拠を見せてやっていると言うのに」
「あぅっ……。」
だから、ここは逆に、ゆっくりと前へ進み出す。
アレを維持するため、桃の肢体を思い出しつつ両手を大きく開き、高坂昌信に堂々と見せつけるように。
「ほれ、分からぬか?
愛おしく想うあまり、はち切れそうになっているこの熱い滾りが」
「い、いけませぬ。ま、まだ陽は高いと言いますか……。あ、朝にございます」
俺が一歩前に進めば、高坂昌信は一歩下がるを繰り返し、攻守は完全に逆転した。
今の俺は、戦国時代にタイムスリップする以前の、『彼女いない歴イコール年齢』の俺ではない。
上洛の旅の道中、何度も遊郭のお姉さんに誘われ、とても楽しい一時を過ごした後、桃から大目玉をくらうたびに、ご機嫌取りのため幾度も鍛えた舌がある。
問題点を挙げるなら、ある手段を用いることで桃とはその日の夜に仲直りができたが、同様の手段を高坂昌信に用いることは、絶対に不可能なところだ。
「それもそうだな。早速と行きたいところだが、朝からでは不健康だ。
まずは旅の土産話をゆるりと語って、楽しみは夜まで取っておこうではないか」
悩んだ末、半日後の自分に問題を棚上げする。
上洛の旅から昨日帰ったばかり。
高坂昌信以外の客が訪れて、宴会でも始まるのを期待して。




